ぶつぶつと、独り言がまるで周囲を回る小さな風のように紡がれる。
「…っと、資料はこれで良いよな?」
誰に尋ねるともなく、がさがさと音を立てる。
先ほどから、腕に抱えた大量の荷物を一つ一つ確認するように、やけに丁寧に、そして入念に、数と中身を確かめている影があった。
青い猫の民。逞しい尾を備え、猫背の身体をさらに屈めながら、大樹の側で指を折りつつ頭と格闘している。
ガリアに文官がいないとは言わないが、自分ほどこの役回りが似合っている者もいないだろう。
働き好きな自身を評して、あまり面識のないゴルドアの若き後継者に、先の戦いの中で、どこか竜鱗族のようだと言われたこともある。落ち着きがあるとか、見識が深いとか、恐らくそういった褒め言葉なのだろうが、要するに血の気の多い獣牙には珍しい部類だと言いたかったのだろう。
「あと、必要なのは…」
一度に作業を終わらせてしまおうと考えているのは、決してこれが嫌な仕事ではないからだ。
長い時間を独占する口実。
請け負った任務に不可欠だという名目を掲げて協力を仰ぎ、彼の側にいることを承諾させる。彼自身に、ではなく、周囲に、であることが重要だった。
遊びに来たわけではないと主張したかったのは、一部の目が厳しいことが最大の理由だ。
といっても、本当はさほど気にしてはいないのだが。
世界を救った英雄アイクは、特別ではあるが特別ではない。
本人が、そうであることを明確に否定する。俺だけの力じゃないと、仲間を認め、一緒に戦った者たちを過小評価することもない。一度石にされ、生命の輝きを失ったラグズやベオクと同じ『人』だと称す。
今があるのは皆の努力の結果であり、許すこと、ともに居続けることを願った、忘れられた女神のお蔭だと。
ただの傭兵だ、と一言で締め括る人間に対して、アイクを必要以上に持ち上げようとする者も、勇者など大仰だと言い、素直に受け入れられなかった者も、以後そのことについて口出しをすることはなかった。
各々の胸にアイクという存在が大なり小なり刻まれていることこそ、この時代を生きた証拠とも言えるだろう。
ともかく、相手には信奉者はいないが、昔から知る者の中には身内以上に大切だと認識する存在もいることは確かで。
そんな相手の神経を逆撫でするのはあまりよろしくないなどと理屈っぽく考えながら、実際はこの浮き足立つような気持ちを落ち着けようと試みているだけなのかもしれないと、獣牙の青年は思った。
「あら、ライ。久しぶりね」
グレイル傭兵団で副団長を勤める赤毛の美女が、人のいない門を潜ってやって来たこちらの姿を見つけるなり、鎧姿のままゆっくりと微笑みかける。
「やあ、姉さん」
カイネギス王に覚えのある女騎士は、ベオクとはいえラグズに偏見がない。昔からの馴染みであるかのように気さくに応え、ライは傭兵団長の妹の所在を尋ねた。するとティアマトは、少し驚いたように目を見開いた。
「アイクに用があるんじゃないの?」
クリミア国内にあるこの砦には、傭兵団以外の住民もいる。戦いが終わってから、数世帯の家族が移住し、作物や猟で捕らえた獲物などを分け合って暮らしていた。今ではその数は倍に膨れ上がり、村と言っても差し支えないほどの賑わいを見せていた。
会話中もざわざわと、陽気な声が周囲からは絶えない。
「本件はそっちだけど、王から預かり物があるので、こっちを先に」
がさごそと器用に長い腕を伸ばして、腰に括りつけた後ろの袋を漁る。
出てきたのは、紙と麻でくるまれた、木の実ほどの大きさの包みだった。
「生憎、今はいないのよ」
どうやら洗濯をしに川へ向かったようなのだが、護衛を買って出た相手とのデートも兼ねているようだと言外に含ませる。そう言って微笑し、伝言があるならそれも伝えておくけれど、と厚意を示した。
「じゃあ、この度はおめでとうと、獅子王から言伝があったと」
それからこれは、ささやかなお祝いの品だと告げ、包みのままティアマトに手渡した。
ありがとう、と笑顔で応え、長身の美女は風で流れた横髪を耳の後ろへ引っ掛けた。
「アイクは、いつもの鍛錬よ。今なら誰も、いないはずだから」
砦から少し離れた丘陵を見上げ、ティアマトはそこから届く気配にそっと目を細めた。
剣を振り、空を切る音は聞こえない。静は動を支配し、ただあるのはそこで生きている者の香のみ。
しっかりと足で地を踏みしめている者は、大柄な剣を構えたまま、静かに目を閉じていた。
「……えーっと」
声をかけなくてもすでに気づいているだろうなと思いつつ、アイクからいらえがあるまでを待つ。
その場で突っ立っているのも間が抜けているかと思ったが、離れた場所に腰を下ろすのも勿体無い。できればずっと見ていたいと考えた時点で、やはり距離を詰めた方が良策だろうと見当をつけた。
邪魔になるだろうことは考えなかった。なぜなら、こちらの姿を察した瞬間、アイクの中で鍛錬は終了したと考えて良いからだ。
「王から、言われて来たんだけど…?」
カイネギスの使者だと告げられ、構えていた剣を下ろし、木の幹に立てかけていた鞘に収める。
たくさんの資料を抱えた友人に、一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐに改め進む方向を変えた。
シャツのような肌着を一枚身に着けただけの上半身には、うっすらと汗が浮かんでいる。一際濃い水の膜で覆われた首筋から、玉のような水滴がひとつ零れた。
そうか、と返った声は掠れ、長い間ここで腕を鍛えていたことが知れた。
「前に言ってた、武術大会の担当者とか責任者とか色々な役柄の人選をお前にもしてもらいたいとおっしゃって」
これがその資料だ、と大きな羊皮紙を広げる。
「見覚えのない名前が多いな…」
ずらと並べられた各国の人名に、首を傾げる。
「とりあえず、どの国からどれくらいの人間が出るか、わかってもらえば充分かな?」
さすがに復興が遅れているデインは出せる人材も限られているようだ。今回は大会参加者も数えるほどしか出せないのでは、と考えている旨を告げる。
勿論、これらは強制参加ではなく、飽くまで各々の希望に添った自主的な参加が前提ではある。今は余力を割けないと言われれば、参加人数が少なくとも仕方のないことだと言わざるを得ない。
「…おまえの名前も入っているのはどうしてだ?」
ガリア国の面子を見て、一言呟く。
「俺は、裏方専門。レテやモゥディや他の奴らも、今回は主催国ってこともあって、参加は無理だと思う」
初めて開催する、しかも大陸規模の大会とあっては、どの程度の要員が必要になるかは目測でしかない。
そして開催国だけでなく、テリウス大陸の諸国が揃って人員を派遣するのは、彼らの協力なくしては実行が不可能であるからだ。
「ガリアは、スクリミルだけか…?」
戦える相手が少ないことが不満なのだろうか。
珍しく、穴が開くほど紙面を注視しているらしい横顔を凝視する。精悍だと評す者もいるが、アイクのそれは整った人間の表情だ。どこにも、獣染みた輪郭や曲線を思わせるような面影がないのは、ベオクだからというより、彼個人がこの世の中で何よりも鮮明であるという理由に他ならないのだろう。
そんなことを考えつつ、こちらも遜色のないメンバーであることを付け加えた。
「ジフカ殿と、王自らも参加するぜ」
聞くなり、表現が乏しいと思われがちな面が驚いたような色を見せた。
「何でも、お前と約束があったみたいだからな」
獅子王が出場を決めた背景には、目の前の青年との取り決めがあったためだと聞いている。むしろ、それが先にあって、公で手合わせが行える場を思いついたという経緯があったことは間違いないようだ。
しかし、これを機にカイネギスが王の座を退くことは、ここで明かすわけには行かなかった。王の側近の、ごく一部の者にしか知らされていない決定事項。ゆえに、次期国王候補であるスクリミルは、最後の実戦とばかりに、眼前の青年だけでなく叔父である現国王との一騎打ちも楽しみにしているようだ。
そして、どこからか伝わった風の噂で、アイクもこの地を去るだろうことを誰もが予測していたのだろう。
「鳥翼連合国からは、鷹王と鴉王。ベグニオンは皇帝自らって話もあったが、さすがにそれは止められたらしい」
武術とはいえ、戦闘技術であるならば魔道でも構わぬだろうと、小さな皇帝は反論したようだが、彼女の親衛隊が総出で嗜めたらしい。開催を宣言する際、獅子王の傍らでともに開会宣言を述べる名誉な役を与えられることで何とか落ち着いたと聞いたが。
「…サナキ殿も、おまえと戦いたかったんだろうな」
怖いもの知らずというか、最後だからこそ、との思いがそこにあったことは言うまでもないのだろう。
幼少の頃から顔見知りの少女とはいえ、戦いの場と割り切れば手加減をしない相手のことだ。多分、無事では済まないと考えたからこそ、聡明な彼の親衛隊長シグルーンは彼女に出場を断念させたのだろう。恐らく、これは単純な推測だったが、それでも心のどこかで皇帝を出場させたいと考えていたのかもしれない。
別れが、誰にでも平等に訪れるのであれば。
「この場合、全員と戦えるのか?」
大きな羊皮紙を両手に持ち、隅々まで目を通していた側が、ふと頭を上げた。
綺麗な縁取りの蒼に見つめられ、ライは反射的にぱちくりと色違いの双眸を瞬かせた。
「って、お前だけ、総当たり戦にしろってことか…?」
まさかと思いつつ、思ったことを口にする。
すると当然とばかりに、今度は顔がほんの少しだけだが、間近に迫った。
「無理なのか?」
「……………」
邪気のない視線を寄越され、青い青年は返答に詰まった。
態度もそうだが、あまり距離を詰められると、わけもなく意識してしまうからだ。
自身の隣にある気配。それが、夢でも幻想でもないことに、平静を保つのが困難になってくる。
「そうなると、ガリアだけで滞在費やその他の費用を賄うのは難しくなってくるなあ」
気を逸らすために用紙に目線を落とし、近くなった匂いだけに嗅覚を研ぎ澄ませる。
先ほどからひっきりなしに、丸めた背中の後ろでは立派な尻尾が上に向かって立ちっぱなしなのだが、当人以外、そんなことには気づいた様子もない。
滞在場所の確保も、ラグズの国であるというだけに、ベオクを大勢駐留させておくことのできる施設は少ないことを示唆し、難しいな、と感想を漏らす。
「…クリミアと共同で開催、ということはできないのか?」
うーんと唸る親友に助け舟を出すというよりは、ごく平凡な思考回路に基づいた発案だったのだろう。
思わぬ友好国の名を挙げられ、ライはつと顎を押さえて思案した。
その要請というか打診については、勿論相手国から度々あった。無論、王族同士で交わした口約束みたいなものであったが、何か力になれることがあれば喜んで手を貸すと言ったエリンシア女王の言葉を思い出す。
ベオクとラグズの友好を深めるためにも、主催国が二つというのも悪くはないかもしれない。アイクは単に、ガリアとクリミアが隣国同士であるという、誰もがよく知る現実を見て提案しただけなのだろうが、構想自体は決して悪くない。
垣根のない一つの国であるかのように、テリウス全体、あるいは人々をすべて一括りに考えるのは、アイクの本質と言っても過言ではないだろう。
国外の情勢、また国家間の事情など、まるでわかってはいないと思うこともあるが、時々、真理とも言うべき事柄を付いてくる。
そこが、とてもこの親友らしいと思う。
祖国をクリミアと定義している今でさえ、皆が仲良く暮らせることを真に願っている姿勢が窺えた。
「ガリアに帰って、王や幹部に共同開催を提案してみる、か」
アイクが言っていました、と言えば、少なくとも獅子王とその右腕である黒獅子ジフカは味方になってくれるだろう。
面白いことだが、奴隷時代を知っている上層部の年寄り連中も、アイクの名前には一目を置くようになっていた。変化などありはしないだろうと高を括っていた石頭のれんじゅうが、揃ってこの若者を気に入りだすとは思わなかった。
スクリミル個人がが大々的にアイクを認め、それに助けられたことを国中に触れ回っている所為で、否応なく評判が上がったことも原因だろう。それ以上に、ベグニオン帝国からも他国からも信頼が厚い英雄を一目見てみたいという好奇心が勝ったのか。
次にアイクがガリア国を訪れたら、紹介するよう、間違いなくこちらに働きかけてくるだろう。保守的で過去の因縁に固執傾向にある古参の獣牙族たちは苦手だが、新しい時代のために、わずかでも変わる切欠になるのだとしたら有り難い。恐らくベオクよりも、肌で感じる気質に敏感なラグズである。言葉を交わすよりも一見だけでその人となりというものを察することができるだろう。そうすれば、自身がいつしか変わっていったように、彼らもアイクに影響をされれば良いと思う。
それだけ、静かな影響力がある。見てすぐにわかるものもあるが、アイクの場合は、姿を見失ってから深く考えさせられる稀有な資質の持ち主だ。その人間性、洞察力。そして、彼の中の何より純粋な、守り、切り拓く力を知るだろう。
話が終わったという意思表示なのか、たくさん抱えてきた資料を返され、ひとまず自身の任務は完了した。
どんな質問にも答えるつもりで下準備を行って意気揚々とやって来たのだが、結局振り出しに戻ってしまった。
組織の役割分担のようなものは大まかに改編されることはないだろうが、人材派遣や経費の折半について、クリミアとも頻繁に会合を開かなければならないだろう。一国で動くのと、二国間で方針を進めるのとでは、労力は雲泥の差がある。
これからが大変だと思いつつ、ここへ来たのは無駄ではなかったとも思う。
アイクが独自の視点でアイディアを出すかもしれないという予想も、予定の範疇と言えばそんな感じだった。
「…で、しばらくの間、ここで休養を取らせてもらおうと思ってたりするわけだ」
王宮を出て十日間、駆け続けだったからなあ、と呟く。
すでに前以て、ガリアにはいつ頃戻ると言っておいてある。まるですべてを承知しているかのような素振りのスクリミルからは、出立の際、頑張って来い、とまで言われている始末だ。何を、という目的格は不明ながらも、豪快な笑いが嫌味ではなかったことを回想する。
できることなら、本当に、このまま相手を攫って帰りたいけれど。
「気が済むまで滞在していくと良い」
草地に付いていた腰を上げ、土を払いながら、当の思い人は何食わぬ顔で答える。
細心なティアマトならば、その準備なら会話をしている間に終えているのではないかと話す。
口振りは平素と変わらないが、わずかに自分にしかわからない変調があることを耳が拾う。差異に敏感な皮膚や鼻も、些細な変化に心を躍らせている。なぜかなど、今更問うべくもない。
「主に世話になるのは、お前のところかもしれないけどな?」
いっそのこと同室にしてくれと言いたかったが、さすがにここで焼け死ぬわけにも行かない。
自身がいるというだけでどこか不機嫌に顔を顰める黒髪の少年の姿が脳裏を掠め、苦笑しながらライは立ち上がった。
先を行こうとしていた肩に手を伸ばし、触れる。
一瞬の動作だが、戦場ではないこの場所では生来の速さでこちらが勝る。
荷物を半分持ってくれた相手を振り向かせ、鼻先を軽く近づけた。
息が溶け合う、やさしい瞬間。
そして告げるのは、たった一言。
会いたかったと、万感の思いを込めて、わずかに緩められたその唇に口付けた。
-2007/06/29
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