思い出したぞ、と野太い声が背後からかけられた。
振り向いた先で、赤い大きな獅子が仁王立ちでこちらを凝視している。
ガリア王宮のはずれにある庭に面した廊下で、ううむと腕を組んで喉の奥から男は唸り声を上げた。
「アイク。おまえは、ガリアの生まれだったそうだな!」
突然振られた話に、一瞬何のことかと幅のある長剣を片手に、素振りをしていた青年は首を傾げた。
溶岩が犇くカオクの洞窟を抜け、本国に撤退してから姿を見かけなかったが、どうやら身体が本調子に戻ったのだろう。レテらの話によると、王宮から離れた場所にある男の家族の下でしばらく養生をしていたそうだが、一見しただけでも確かに体力が回復しているようだ。
ラグズは再生能力に長けているといったが、二日や三日で全快できるのは、獣牙族の中でも、ライを含めた強者の特権なのだろう。
「そういえば、奴から聞いていたのを忘れておったわ」
奴、というのは、恐らくこの場にいないガリア軍の副大将のことだろう。
獅子の体格そのままに、大柄なスクリミルは、カイネギス王の血縁である。現国王に対して礼儀を重んじ、軽率な呼称を使わないことは重々承知している。獣牙を束ねる王としても、武人としても、叔父を尊敬している姿勢が、傍からでもよくわかった。
だとしたら必然的に、前述の人物が出所であると見て間違いはないだろう。
しかしアイクにとって、あまり周囲には知られていない自身の出自に関する事柄に、特段の思い入れはなかった。
妹が生まれてしばらくの間、自分はこのガリアの土地で過ごしたらしいが、生憎その頃の記憶というものは残っていない。母親の思い出すら、面影程度しか覚えていないのであれば、取り立ててこだわることではないと思っていたからだ。
「そうらしいな」
妥当な線で回答を返せば、大男は厚めの顎を撫でたまま、また一つ唸った。
「だからなのか?初めて会った当時、初対面とは思えなかったのは」
「…獅子王に、俺のことは聞いていたんだろう?」
ベグニオン帝国と開戦に踏み切る前、どうやらガリア王から、アイクから戦い方を学べと言われていたらしい。
前情報を得ていたのだとしたら、どこか馴染みがあるように感じたとしても不思議ではない。
刷り込みのようなものだろうと返答すれば、にやりと牙を出して笑われた。
嫌味を感じさせないその表情は、自分たちと違って目元の変化が乏しいからかもしれない。
「確かに、それもある。どんなベオクか興味が沸いたのは、おまえが初めてだった」
そして同じくらい疑念も抱いていたものだと、獅子の耳、獅子の鬣の持ち主は屈託なく笑う。
三年前のクリミア奪還の戦で、自軍を大勝利へと導いた勇者の話である。
ガリアから救援と称して同行した獣牙の戦士の誰もが、将軍の地位にあったアイクという名の若者について、二言目には、あいつは凄い奴だ、と断言する。評判を耳にしながら、そんなベオクがいるものかと軽んじていたものだが、やはり彼らの目は間違っていなかったと言い、頷いた。
「買い被られるのは困るが、あんたたちも大したものだった」
俺一人の力じゃない、と言い切られ、ふ、とスクリミルは濃い金色の眼を細めた。
「おう、それよ」
関節が太く丸みを帯びた指を突き出し、ベオクの中では背の高い若者を指す。
「おまえの気質は獅子でもない。虎でもない、猫でもない」
鳥や竜のいずれかでもない、と言葉を切る。
ベオクであるのだから、ラグズに相当しないのは当然だ。そんなことは、赤子でさえもわかる事実だ。しかし、スクリミルは機嫌良さげに口角を吊り上げた。
「同じ種族ではないくせに、俺たちを並列に評すのはなぜだ?」
「…考えたことはない」
自然と口から出た答に、赤顔の獅子は眉を上げた。
機嫌を損ねたというよりは、驚いたと言った方が相応だろう。奇妙なことを言う、と思ったのかもしれない。
「俺もあんたたちも。ベオクもラグズも、同じ人間だ」
ただそれだけだろう?、とこちらから尋ねれば、再び顎を押さえてスクリミルはぐるりと首を捻った。
「…難しい問題だ」
何が難題であるのかはわからない。
相手にしては珍しく、一呼吸間を置いてから、深く息を吸った後、放言した。
「我らはラグズであることを誇りに思っている」
根本は、獣牙族であることを。そのもっと根底には、獅子の一族であることが自らを支える一つの柱になっていると告げる。
胸を張って発言する様は、それが気高い闘争心を支える支柱だと言って憚らないのも頷けるほど堂々としていた。
「それを一纏まりにされてしまっては、我らは何を誇りにすれば良い?」
問い返され、なるほど、とアイクは納得した。
要するに、彼らにとって、『何か』であることは重要であるらしい。
属する場所、属する環境。血統や血肉に流れる歴史、その背景が、生きるために不可欠な要素の一端を成すということだろう。
相手の言う誇りというのは、つまりは守るべきものがあるという事実に他ならない。これを見捨てれば、おのれの存在意義に自ら疑問を投じるようなものだと言いたいのだろう。
生きるために、なくてはならぬもの。
自身の形成の根幹となる思いが示す強さは、確かに本物だった。
それは、よくわかる。何にも影響されない立場にいる、不安定とも思える傭兵稼業に身をやつしている自分とて、スクリミルの言いたいことは充分に理解できた。
けれど、何にも拠り所がない者が、果たして弱者だと言い切れるのか。
「…生憎、俺には頼るべきところがない」
決してそれを卑下するわけではないと前置いて、続ける。
「俺は、あんたの言ったことを否定する気はない」
普段と変わらぬ口調で、平然と言葉にする。
敵意はなく、悪意などどこにもありはしない。
真っ直ぐな声は、そのまま音となり、相手の鼓膜を直に打った。
「だが俺は、その誇りとやらの所為で足元を見失いたくはない」
俺はアイクだ。
それだけで良い、と告げる。
ほんの一瞬だったが、スクリミルの頬がぴくりと振れた。
痙攣したようなそれは、唇の隙間から牙を覗かせてしまうほど大雑把な揺れではなかったが、眦が持ち上がり、武骨な面に奇妙なゆがみを与えた。
反射的に湧き上がったのが嫌悪だったのか、憎悪だったのかは定かではない。
否定はしないと言っておきながら、必要のないものだと断言したのだ。受け止めた側の心中を察するのは、容易ではないだろう。
しかし実際、それらが原因となってラグズとベオクは戦いの歴史を繰り返してきた。奴隷だ、反奴隷だと論争をぶつけ合い、各々の相違を取り上げては互いに尊厳を損ねあった。
下らない、と言う気は毛頭ない。
だが、不条理だと思う気持ちはある。
そんなことのために、人々が平穏を見失ったのだとしたら、何と馬鹿げているのかと思う。その思いは昔から変わらない。以前は激しく反発を感じたものだが、それが世の中の一般的な姿だと諭され、他者に考えを主張することはなくなった。
ただ、自分が承知し、行動してさえいれば、いつかは伝わるだろうと思った。
それが、眼前の男にまで及ぶものなのかは考えなかった。
「……………」
ふう、と長い息を吐き出し、スクリミルは両腕を分厚い胸の前で組み直した。
何か言いたげに数回口を開きかけ、思うように形が成せないのか、そのまま閉口する。
やがて、低く唸るとともに、太い声をその喉から発した。
「おまえの言うことは、個人的には賛同はできん」
数少ない獅子の血を受け継ぎ、次代の王となるべく生まれたこの男は、プライドの塊だ。
おのれが力有る者であるのは、その誇りが礎にあるからだと評しても過言ではないのだろう。
真っ向から対立するかに思えた思想に、だが、と相手は言い継いだ。
「理解はできる。…おまえには、俺たちが思うより、もっと大事なものが見えているのだろう」
言い表したかったことが的確に表現できたのか、語尾の最後でスクリミルは満足げににやりと笑った。
対する側を貶めることなく、噛み砕き、受け入れることで自らの誇りをも守る。
これこそが獅子の気骨なのだろうと、アイクは本能的に合点した。
いずれかが勝者ではなく、一方が敗者となる必要はないと考える、その精神。
「…あんたは、獅子王とそっくりだな」
獣牙の性質をいやというほど熟知し、彼らの上に立って、ベオクとの交渉に臨む。
どちらの器が大きいかを比べることが、如何に無意味であるか。
誇りを持つ者と、それに執着しない者。
立場が違っても、他人を軽視しない点で、それは等しく公平だった。
「それは、俺にとって最高の賛辞だ」
立派な牙を見せ付けるようにして歯を見せた笑い顔に、静かな笑みを誘われる。
双眸を細め、緩やかな気持ちを面に浮かべると、スクリミルは大きな口を開けたまま顔面をくしゃりと潰した。
ライ、と。
控えめだが、どこか憮然としたような声が丸みを帯びた背にかけられる。
「……おまえはそこで、何をしているのだ?」
なるべくなら関わりたくなかったのだろうが、通行の邪魔だとガリアの戦士レテは言外に相手を責めた。
前へ屈むような恰好で円柱に腕を付いた、妹のリィレ曰く、今をときめく獣牙の戦士は、どうやらぶつぶつと呪いの詞を吐いているらしかった。
腰巻から生えた尾が、ばたんばたんと先ほどから大きく揺れている。
「…のやろう、俺のささやかな楽しみを奪いやがって………」
やっと一日の仕事を終え、アイクの匂いを頼りに駆けつけたのだが、あろうことか先客に隣を奪われていたとは。
そんなに悔しいのであれば割って入れば良いだろう。
親切に提案してやろうと思ったが、遠くの角でモゥディがこちらを探している気配を察し、諦めた。
早々にきびすを返し、おどろおどろしい負の気を背負った青い猫を置いて行こうと踏み出した背後で、ライは良い者を選んだな、と豪快に笑いながら相手の肩を力任せに叩く赤獅子の騒音がガリア王宮の小さな庭にこだました。
ライの尻尾が、隣接する柱に叩きつけられたのは言うまでもない。
-2007/07/02
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