茫洋と広がる底知れない暗闇は、そこにあるのではなく、まるで頭上へ降ってくるような心地に近い。
内に感じる心のない者にとって、どんなに圧倒的な厚みを持っていたとしても、それは恐怖と呼ぶには値しない。圧迫ですらない。要するに、何の興味も見出せなければ、それは無であることと同義だった。
瞬きすら忘れてしまったかのように、底なしの天井を見上げる。
強大な力を持った人外の存在を封じ込めていた場所は、それほど狭い空間ではない。すべてが岩石で覆われているが、地面の石はほぼ平坦に近かった。あつらえられたかのような空洞。ここへ自身を封印した人間は、もしかすると並みの人より多少は優れた能力を持っていたのかもしれない。
それでも、仇敵の息の根を止められず、自分が死んでいれば世話はないが。
詰まらないこの闇は、自分にはお似合いだ。
何の色も持たず、存在感すら無味に近く、そして体だけは無駄にでかい。
鬱陶しい類いの生き物は、排除するのも面倒だが、笑いながら消し炭に変えるのが自分にとっての気まぐれだった。
「…よっ」
そこへ、場にそぐわない空気を纏った者が現れた。
「……………」
遠くからぺたぺたと靴音が聞こえていたので、それが何者であるかをすでに悟っていた手前、特段の驚きはない。
気配を消すなどという真似事を、姑息な性格でもない相手が選ぶはずもなかった。数分前。もしかすると数時間前に遡るかもしれないが、汚辱を蒙ったことなど、綺麗さっぱり忘れ去っているのだろう。一目見ただけでも、その痕跡は外皮のどこにも見受けられない。外見同様、精神的にも同じことが言えるのだろう。
真っ暗な視界に突如として現れたのは、その腹というか、股間だった。
「…………………………。」
更に長い沈黙が、胡乱そうな目つきをした男から返る。
大丈夫か?、と向こうは尋ねた。仰向けに寝転がっている様が、不意に眩暈を感じて昏倒したかのように映ったのだろうか。
「…何か用か」
つるつるの側面を睨み上げるように、三白眼を不機嫌に歪ませる。
すると視線を合わせるように、青いそれが覗き込んできた。
「別に、大した用事じゃねえけどよ」
口端を軽く吊り上げる、いつもの笑みを見せる。
赤い口腔と対照的に、ちらりと垣間見える歯は驚くほど白い。尖ったような眼差しは、相反するように無表情だった。
「面白えな、と思って」
そんなに興が乗るような顔つきでいたつもりはない。
不可解な発言をした側を軽んじるような、侮蔑しきった目線で下方から睨めつける。
省いた主語を告げることなく、わずかに発光するような表皮を持った物体はぱちりと一度、大きな双眸を瞬かせた。
「おまえって、浅黒いよな」
「………。…ナニの話かよ」
表現としてはそれしか連想のしようがない形容を聞き咎めるように、眉間に縦皺を刻む。
違うと即座に否定されたが、それを言うなら、わけわかんねえ色だ、と訂正された。
他に比較対照がいない以上、適当な言い回しができなかったようだ。まあ、交尾を要求されたのもおまえが初めてだと言っていたから、いきなり性器を見せ付けられて突っ込まれるような状況はこれまでなかったのだと思えば妥当だろうか。
「…雰囲気のことを言ってんのか?」
漂う気配を表して、そう評したのかと質す。
こくんと小さく、ない首を縦に振って肯定を示すと、オレンジ色の生き物は細い膝を屈めた。それゆえ、一層下腹部と顔面の距離が近づいた。
「だったら、もっとどす黒いとか。適当な言い方が他にあるだろ」
心中で舌打ちしつつ、その艶やかな肌から目を逸らせない。
トゲ以外凹凸の見当たらない綺麗な表面を自分の精液で存分に汚し、滅茶苦茶に陵辱したいと感じるのは、決して自身の優位性を照明したいからではない。むしろ、劣等意識が強くそれを望んでいた。
絶対に手に入れられないからこそ、挑みたくなる。そんな、挑戦者のような根性が身の内に残っていたことに、冷笑すら浮かんでくる。尤も、見上げた心意気どころか、それは明らかにネガティブな衝動だった。
「そこまで、落ちぶれてねーだろ?」
塗り固められたような黒は、相手にとって大したことのないものとイコールであるらしい。
であれば、微妙な物言いも、ある程度評価されたゆえの表現方法だと受け止めるべきだろうか。
「…どうだかな…」
意思疎通が皆無と言っても差し支えがないほどまともな会話が成立した験しがないとはいえ、気に入っている相手ならば、話すこと自体は苦痛と言うほどでもない。
むしろ、気がこちらに向いていると実感しただけで、何かしらの充足を得ているのは事実だった。他に誰もいないという現実は、気が向きさえすればその目に映るのは自分しかいないという自己満足の世界だ。
得意顔が面に出ないよう細心を払いながら、努めて釣れない素振りを装った。
まるで、臍を曲げた子分を慰めでもしてくれているのではないかとに思えてくる。
「で、それがどうしたってんだよ…?」
雰囲気が常人よりくすんでいるからといって、何か問題があるのかと問う。
しかし、そこから返ってくるのは、別に、という可も不可もない応答だった。
「だから、面白えと思って」
どういう。
思わず、細い眉を顰める。
どんな発想が話の根本にあって、そもそもそんなことを言い出したのか。
そんなことを、態々、こちらに告げに来なければならない義理も、根拠もないだろう。
「…面白い、か…」
こんな、詰まらない、糟みたいな性根の男を捕まえて、それなりの価値はあると言うのか。
嘆息しつつ、投げ出していた腕を頭の下で組む。
脚の間を注視するように、見つめてくる瞳は真っ直ぐで、嘲笑するような皮肉すら含まれていない。
適わねえな、と思う。
同じ餓鬼でも、ぎとぎとしたものと無関係である方が、人格的にも有能であるかのように映る。
やはりそれも、間違いではないのだろう。
「とことんまで…」
あ?、と問い質すような口調が、静かに耳を打つ。
惚れ抜けば、少しは楽になるのだろうか。
そうすれば、他の存在を容認できるだけの器を、持つことが可能なのか。
「おい、破天荒?」
瞑目が生んだ黒い空に、丸い額をくっつける明るい星だけが浮かんだ。
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