待ってくださいと声にすることもできず、追いすがるように距離を詰める。
段差のある崖を飛び越え、着地した場所は出発地点からかなり離れていた。
まだ空は快晴だが、山の天気はいつ変わるかわからない。仲間とはぐれてしまうことも懸念したが、それよりも逃げてしまった人の方が心配だった。
ちゃんと告白したのだから、今度はその答を聞く義務がある。例えノーと言われても意にも介さなそうだが、とりあえずこのまま逃がしてしまうのは非常に残念だった。
「待ってください」
今度はしっかりと口に出す。
木の幹に片手をつき、息を乱している人の側へ自分の足で近寄った。
「名前を、教えてください」
聞いていないと主張するように、真っ直ぐに青い瞳を見上げる。
やっぱり綺麗な色だなと思った。雪山の上の空よりも、深くて淀みのない色彩だった。それが、相対するような身体のオレンジに映えて眩しい。
えー、と相手はさも嫌そうな顔をした。
唇を歪め、でこぼこした額に潰された目はなんだか女の幽霊のようだった。しかし、そんなことは関係ない。更に請おうとすると、しれっと横を向いた。嘆息しているのかはわからないが、それからすぐに正面に向き直った。
「パッチん」
「ぱっちん…さん…」
教えられた偽名を自分の口で繰り返し、改めて破天荒は顔を染めた。他人に自主的に敬語を使ったのも初めてなら、名前の後に進んで敬称をつけたことも初めてだった。
初恋。
体の芯からぞくぞくするような体験を、破天荒は生まれて初めて味わった。
「名乗ったんだから、名乗り返せよな」
強気な表情につい見惚れていると、憮然とした様子で小さな唇が突き出された。
「あ、俺は」
破天荒は、慌てて顎を上へ向けた。
真正面から凝視し、きっぱりと告げる。
ガンをつけているように受け取られるかもしれないが、本人は素だ。
「はてんこうと言います」
それを聞き、変な名前だな、と大した感慨もなく呟かれた。
それきり興味をなくしたように、周囲へ視線が移動した。それを、つまらないと思うよりも先に、寂しいと感じた。
この人にとって自分は、自身が感じたようなどきどきする気持ちを抱かせるような対象ではないのだと思い知らされる。
しかし、そんな感傷如きで収拾が付くような、生半可な思いではなかった。正確に言えば、正常な思いではなかった。
「あ」
ふと空を見上げると、好都合とばかりに雲行きが怪しくなってきた。
これは一荒れ来そうだなと判断し、手を伸ばしてその掌を取った。
向こうは清潔な白い手袋をしていたが、つるつるとしているわけではない。人肌に近く、けれどそれではない手触りと体温だった。
むしろ、雪山に来ているのだから破天荒こそが手袋を着用すべきだが、相手のそれは寒さを凌ぐためのものではなかったようだ。そういえば手と足以外は全身裸なのだと改めて気づかされても、造形として捉えている姿態がおかしいものだとは思わなかった。
手を引っ張られ、何事かと双眸が動く。
「少し、休みましょう」
ぎこちない言葉を操り、山陰を探す。
丁度良いところに雪に侵されていない空洞のような所を見つけ、さっさと歩き出す。
断りもなく進行を始めた影に、少し面白くなさそうな顔をしながら、パッチんと名乗った物体は付いて来た。ぎゅっぎゅっと白い塊を踏みしめる音が続く。
なあ、とぶっきらぼうな声音が届いた。
「さっき、俺のことをなんとか言ってたよな」
どきり、と破天荒の心臓が跳ね上がった。
勢いで告白してしまったが、改めて思い返してみればシチュエーションも言葉も選んでいる余裕はなかった。要するに自身の本心を告げたことになるのだが、聞き返されれば少なからず動揺を覚える。
「…………」
しかし感想を言葉にすることもできずにちらりと後方を窺うと、立ち止まった青い瞳に見つめられた。
「掘らせろって、どこを掘る気なんだよ?」
尋ねられ、ぐわっと頭が熱くなった。
地面の雪をもし頭部に乗せることができたら、瞬時に溶解してしまいそうなほどの熱さだった。
「…しても良いんですか」
頓狂な質問に、思わずここで実践しても良いのかと問い返す。
聞き様によっては、相手の発言はそれを促したと捉えられなくもない。
「道具もなしにできるのか!??」
スコップとか蓑とか鉋とか必要なんじゃないのかと大きく目を見開いた。
驚愕した拍子に見せた白目に浮かぶ青い点が殊の外鮮やかで、瞬間声を失った。
「そんなの、なくてもできます」
はっきりと断言すると、驚いた形のまま、やがてすげえと呟いた。
呆れられたのかと思ったが、どうやら心底感心してしまったようだ。おのれの体一つでどうにかなるのだと宣言され、それが匠の技か何かと勘違いをしたのだろう。
若干三歳にして事の何たるかを承知している破天荒も恐ろしかったが、なぜかそこに行き着かない相手の思考回路も空恐ろしいものがあった。
「けどよー、何か面倒そうじゃねえ?」
うーんと止まったまま腕を組む。
そんなことないですと、破天荒は正直に答えた。
「やられる方は面倒がないって、本に書いてありました」
どんな児童書を読んでいるのか。
というか、破天荒は年齢的に禁書であるべき本を読んでいる危険性があった。可能性というあやふやなものでないのは、かなり高い確率でそうだと思われたからだ。ただ、体力的にどうかという面に関しては理解不足であるため、強く言うことはできなかった。
しかし、言葉をそのまま受け取ったとしても、聞く側ももう少し疑問を感じないものかとも思う。
どこを、と尋ねられた時点で正確な答を与えておけばまだ改めるチャンスがあったかもしれないが、意図せず話は順調に進んでしまった。知識にないことではあるが、向こうは向こうで頭の中で考えを巡らせたようだ。
掘られるって何だ。
どこを掘るんだ。
大体俺って掘れるような構造だったっけ。
まあ、世の中の神秘って奴かもしんねえけど。
そういやここに来る前カップ麺作ったの置いてきたな。
もう三分以上経ってるじゃん!
やべえ!!
早く帰りてえッ(てか、あいつらに食われる!!)!!!!!
……掘られてみるか。
途中で糸が切れたように思考が寸断されたような場面があることを、当然本人は気づいていない。
「本で読んだんですけど…」
目的の場所へ到着した瞬間、破天荒はくるりと向き直って相手の両腕を掴んだ。子どもの腕よりも細い、すでに自分の指には余る細さだった。
「こういう時、突然天気が悪くなって、遭難しかかった二人はお互いを暖めあうために否応なく結ばれる運命にあるんです」
そういう流れが普通なんだと説く。
台詞が長過ぎて一気に放言することは難しかったが、淡々と語ったことをオレンジ色をした想い人は最後まで聞いていた。
「なるほど、いやいや結ばれるのか」
「………違います」
一瞬破天荒は無慈悲な表情になり、次いでそれを否定した。
無理矢理なんて真似をしても良かったが、それでは好きと言った意味合いが損なわれる可能性があった。少なくとも、幼児・破天荒はこれが初恋ということもあって、少しだけピュアな側面がまだ残っていた。
そう、少しだけ。
すでにぎらぎらした野性が目覚めているのだが、クールな表面に現すことは稀だった。何しろ周りの連中を驚かせてしまうので、できるだけ年相応の態度を心掛けている。しかも、意中の人を前にしたのなら、ここは用心深く実行の策を練るしかない。
生来の女好きではなく、破天荒は生まれながらの首領パッチ好きだった。
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