+ ハパチ。 +

02/hurachi

「食うか?」
 頓狂な声音とともに尋ねられ、え、と両目が中央へ寄った。
 思わず呆けたように、提示された固形物と首領パッチの鮮やかな双眸を見比べる。
 絶対的に欲しいのは、独特の匂いを放つ食物より、その奥で輝く小粒の宝石だ。ただの思いつきであったので、掲げた手はすぐに下ろされてしまいそうな気配があった。
 だがそれよりも早く、破天荒は動きに待ったをかけた。
「おやびんが、食べさせてくれるのなら」
 本当なら自分にとっては全然要らない食い物だが、手渡しならば食べられると。
 勢いで口にしてから、うわあと途端に緊張が走った。
 何甘ったれたこと抜かしてんだと心中でツッコミつつ、年甲斐もなく顔面を真っ赤に染めた。
 手と足を両方揃えてかちんと正座したまま、恋人の家族の元へ娘さんを嫁にくださいと告げに行った野郎の心境になる。心なしか、いつもは鋭い赤の双眼が単なる黒い点になっていそうなイメージだった。
 いや、まさにそうだろうと合点できるほど、見つめ返す相手の表情がきょとんとしている。それすら頭の隅で可愛いなどと寝呆けながら、かちこちに固まったまま答を待った。
 凡そ行動をしようという時に、逡巡という概念そのものがないのだろうか。首領パッチは間を置かず、良いぜと簡潔に答えた。
 漢らしくもあり、何も考えていなさそうな返答だったが、現実に了解を得られればそれ以上は望まない。
 くっと破天荒は心の中で涙を流した。感涙しつつ万歳三唱をしたいところだったが、変だと思われないうちに軌道を修正した。少なくとも、好いた者の前ではおかしくない人物であらねばならない。
 内心の葛藤など露ほども気づかず、うんしょと首領パッチは尻餅をついていた床の上から立ち上がった。
 足を折り握った拳をそこに乗せたまま硬直している長身の前に、仁王立ちする。しかし、立っただけでは少し距離が足りなかったようだ。相変わらず馬鹿でけえなと胸中で呟きながら、よいしょと膝に土足で乗り上げた。
 しかし乗っかってしまえば、今度は高過ぎて顔が真正面でぶつかってしまう。ズボンの陰影で傍目には誤魔化されているが、破天荒の両脚は適度に筋肉がついている。それゆえ、屈折させただけでもかなりの厚みがあった。
 狙った通りの高度ではないことに納得が行かないのか、わずかに眉を潜めながらも、あーんと首領パッチはチョコを右手につまんだまま、小さな口を開いた。汚された身体とは正反対に、清潔な白い歯が見える。口内は、体色よりももっと赤みが強くて鮮明だった。覗く器官は、それに輪をかけて赤い。
 倣うように、命じられた側も唇を開いた。あまり大きく開け過ぎては阿呆だとの自覚はあったが、首領パッチの仕草を見ていたらそんなことは気にならなかった。
 手にしたチョコレートがちゃんと入りそうな具合に口腔が開かれたことを確認すると、塞がっていない掌で相手の上腕を掴んでバランスを取る。首領パッチの両手が汚れていることは当に気づいていたが、それが服に付着したとしても構わなかった。
 安定の悪い太腿の上でどうにか均衡が保たれたことを確かめ、同じように口を開けたまま、手袋越しの指を前へ持ってゆく。その一連の動作が眼前で繰り広げられていることに、もしやここは天国なのではないかと我が目を疑いそうになった。
 運ばれた物を、半ば陶然としつつ、ぱくりと咥える。それだけでは飽き足らず、破天荒は腕を伸ばして目の前の手を掴んだ。
 甘味が抑えられた欠片とともに、首領パッチの指先を口に含む。少しだけ驚いたように、三白眼が見開らかれた。
 引き抜こうとして後方へ下がろうとする隙を許さず、吸引を強めると、魚が釣れたと白い歯列を見せて笑われた。
 とても嬉しそうにはにかむ。けれど、行動した側はそんなことで終わらせるつもりはなかった。
 含んだ部分に軽く歯を立て、口中に囚えた指先を舌で刺激する。舐め上げるのではなく尖らせた先端で突付くように接触を繰り返していると、おかしなことに気づいたらしい。
 食い物じゃねえぞと言おうとして、更に捕らえられた手を引き寄せられ、虚を突かれたように何度も大きな瞼を開閉する。あっと思った時には、人差し指と中指が透明な唾液に濡らされていた。二本の指を同時に愛撫しながら、破天荒はそっと首領パッチの顔色を窺った。
 差し出したチョコレートごと指を食べられてしまったかのように、目を丸くしたまま見つめてくる様が無防備だと思う。
 びっくりしているのはわかるのだが、どう対処すべきか思い付かないのだろう。ぎゃっと叫んで手を退けばそれで済んだかもしれないが、突然の行為に動くことすら忘れているようだ。構えたところが些かもないというのは、この行為が一種の淫猥な作業だと思い至らないためだろう。
 捕らえていた指を、糸を引かせたまま口腔から解放すると、そこでようやく声が出た。
 少し物怖じしたような口調には、普段の威勢は感じられなかった。
「んなに、食い足りねえのかよ?」
 昼飯は別々だったので、相手がちゃんと食べたかどうかがわからず、空腹だと思い込んだのだろう。
 だったらもっとやるよと言いながら、膝を下りて菓子の小箱からその眉と同じ金色の包みを取り出そうとする。
 どこか慌てているような、妙に気後れしたような動作だった。そんな様子に悪戯心を刺激され、破天荒はにやりと笑った。
「…どうせ食べるなら」
 ケースを手にしたまま、語りかけられた側が反射的に顔を上げる。
 先ほど浮かべた陰湿な影を一掃して、にこりと首領パッチ専用の笑みを見せた。
 一見悪巧みなど考えてもいないような無垢な笑顔だが、実が備わっていないのは少し頭を使えばわかりそうなものだ。だが幸いにも、首領パッチはそんな特技を持っていなかった。
「俺は、おやびんを食べたいです」
 齎された一言に、ああ!?と今度は間違いなく、胡乱そうな声音が返った。
 顔つきが一変したように、暴走族のそれになる。いきなり纏った雰囲気を言葉にすれば、『何言ってんだテメエ』に違いないと思われるくらい、深い皺が眉間や鼻頭に幾重にも刻まれていた。
 首領パッチは肉体を持っているが、それが生身であるかどうかは今以て謎だった。むしろ、物体と言った方が無難であるとの見解もある。物質との呼称は行き過ぎだろうという配慮からそう表わされたのだが、当人も生ものとの認識はなかったようだ。であれば、やはり『物』と形容するのが妥当であったろう。
 だから当然のこと、首領パッチ自身は生肉ではない。馬鹿の片棒を担ぐ某食品とは異なり、間違っても食せる類いではないと自覚しているのだろう。
 それを、なぜ。
 なぜにホワイ!??と、疑問符を背後へ幾つも弾き飛ばしながら、心底不可解であるらしい表情で見つめ返してきた。
 その姿を満足げに見下ろし、破天荒はじゃ、と目を細めた。
「実践あるのみってことで」
 掴まれた腕を見つめながら、何かいやんな予感が首領パッチの脳裏をよぎった。

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