大きな身体にいきなり抱きつかれ、首領パッチは呼吸を奪われた。
拘束されたように身動きが取れなくなりながらも、もがもがと精一杯の抵抗を見せたが、甲斐がないことは一目瞭然だった。
「いきなり、何すんだよ…ッ!!!」
やっとのことで解放され、涙交じりに睨み返す。
片手で口端から零れる涎を拭い、荒い息を繰り返している全身は真っ赤に色づいている。爆弾発言をしたことを、当然のことながら本人は自覚していなかったようだ。それも、思慮深いとは程遠い首領パッチらしいと言わずばなるまい。
「嬉しいです、おやびん」
にっこりと笑っているつもりで、ムラムラと湧き上がる欲望には抗えなかった。
見つめてくる相貌が常とは違うことに、殊勝にも襲われた方も気がついたようだ。もしかして、煽るようなことしちゃってたっけかと、内心冷や汗を感じているっぽい。
逃げ場のない風呂場の壁に張り付き、どうしたものかと左右を見渡している。あ、ジャンクマン!!、と古いアニメの敵キャラの名を叫び、注意を逸らしたかったらしいが、生憎破天荒はテレビを見ない人間だった。しかも、DVDで復刻しているとはいえ、何十年も前に放送した番組など知るはずもない。
健全な青少年ならば必ず見ていたはずだと主張されても、そうではなかったとしか言い様がなかった。
そうか、不健全だったのかと、首領パッチは空虚な表情のまま納得した。
「とにかく身体を洗わないと、ちゃんと夜眠れませんよ」
パジャマを着られないと諭しているのだが、相手が裸のまま寝ている事実は破天荒とて知っている。にも関わらず妙な道理に促されるように、そうかも、とオレンジのトゲトゲは指を咥えた。
とはいえ、時々思いついたように可愛い夜着を購入しては数日間愛用していたが、それが長く続いた試しはない。はるか昔の思い出を色々思い出しては、首領パッチは感慨深げに天井を見つめた。そういえば、あのパジャマは今頃どうしているだろうかと。
小さい子どもを髣髴とさせる動作に苦笑を漏らしつつも、大人しくなった体を破天荒は抱え上げた。
「…ほら、ここに」
唾液を拭った拍子に大分色が薄くなったとはいえ、油分を多く含んだチョコレートの汚れは完全には落ちていない。そのことを示唆するように、長い舌を伸ばした。
口端を分厚い粘膜で舐め上げられ、くすぐってえ、と首領パッチは身体を縮めた。
つい数瞬前まで我が身に降りかかる脅威に戦々恐々としていたというのに、反射的なところでは素の部分が出てしまうらしい。それとも、自身が取った行動が動物染みていたからだろうか。間違っても可愛らしいとは言い難い見てくれの男に舐められて、そんなに無邪気な反応を返すのもおかしいのではないかと思えなくもない。
「うん、甘いです」
そんなことを考えながら、味蕾が知覚した味を端的に述べる。
そりゃそうだろうと、抱えられたまま首領パッチは口を尖らせた。自分が貰った物を他人に横取りされたように感じたのか、不貞腐れたように眉を顰める。その仕草に誘われるように、破天荒は再び唇を塞いだ。
今度も暴れられるかと思ったが、無遠慮に忍び込ませた舌先を感じて、びくりと身を竦ませるだけでこれといった拒絶はなかった。
束の間、水を叩くような断続的な音が続き、口腔でのまぐわいが深まるにつれて、伸ばされていた掌が力なく降ろされた。茫然と、わずかに距離を開けた男の顔を見つめる。
肌が触れる部分に付着していた黒いものが、密着する時間の経過とともに、ぬるぬるとぬめる。表面のすべりが良くなり、汚れた肢体を持ち上げているのが少し苦になり始めた。それを見透かしたのか、首領パッチも下へ降りたいような素振りを見せた。
仕方なくバスタブの中へ丸い身体を下ろし、洗面所を隔てるカーテンでそこを仕切った。
入室の際灯りは点けていたので、急な暗がりにはならない。けれど一人が入るくらいしか広くもない場所に、常人より体格の良い人間と別個体が一緒に入れば流石に窮屈だ。
首領パッチとて、形は単純だが、手足が極端に短い部類には入らない。伸縮自在ではあるものの、普通に歩いている姿を見ていれば、すっきりとした長さであることは疑う余地がなかった。当然、両足を開いて浴槽の端に踵を引っ掛けることなど造作もない。
「おやびん、挑発してるんですか…?」
地べたに座るには些か安定の悪い所に尻餅を着きたくないとばかりに、絶妙なバランスで空中に留まっていると、篭もったような声が聞こえた。
「へ…?」
挑発、の意味がわからず目を点にする。
首領パッチが風呂場だろうと脱衣所だろうと、手袋と靴を履いているのはすでに見慣れた光景だ。とはいえ、一方は全裸のまま二人きりになっているのだとすれば、少しは恥じらいがあってもおかしくないはずだ。
ノリで変質者に転じることはあっても、元来色ボケてはいないのか、首領パッチはその手に関して鈍いとしか言い様がなかった。
破天荒が単に男として認知されていないというか、首領パッチ自身が性的対象として見られていることを意識していない所為だろう。要するに、性欲の発生に至るまでの道程が未形成、もしくは未発達なだけなのだろう。
ふう、と破天荒は胸中で溜め息を吐いた。
軽蔑しているわけでも失望しているわけでもない。落胆、は少しあるかもしれないが、あまりに何もかもが開けっぴろげなので、企てた悪事を働こうという時に必要もない罪悪感を感じてしまう。
無論、無知であるなら押し切ってしまえば済むのだが、仮にも敬意を払っている対象でもある手前、やはり少なからず良心が疼いてくる。とんとん拍子というほど順調でないにしろ、ここまで計画通りに事が運んでしまうと、何やら途中で説教をしたい心地に囚われるのだ。
あんな危ない人の言うことを、素直に聞いちゃ駄目ですよ。
つまり、『危ない人』イコール自分なのだが。
しかし頭の中の逡巡はすぐに泡沫と消え、元の思考のまま風呂場の端で柔軟体操のように股を広げて均衡を維持している身体に迫った。
黒い影が、オレンジ色の姿態を覆う。
「そろそろ、観念してくださいね」
上体を屈ませ、首領パッチが好きだけど嫌だと放言した『エッチなこと』を、甘んじて受けてくださいと訴える。
ぎょっと眼球を剥き出し、やる気満々な子分の面を青い瞳が見張った。
逃げられないとわかっていても、宣言をされればささやかな可能性に縋ってみたくなるのが人情というものだ。当然のことながら、首領パッチは人ではなかったが。
「それなしで、風呂に入るんじゃ駄目なのかよ?」
ハジケ村にいた当時のように、健康に背中を流し合えないのかなあと口笛を吹く真似をしつつ、ぴゅ〜ぴゅ〜問う。
首領パッチのお願いは、今まで幾度となく聞いてきた。命令ならば一も二もなく従ったが、程度が低ければ向こうにとっても大事ではないのだと感じたからだ。無理だろうと思うことも玉にはあったし、面倒な時は理屈っぽい大人の口調で退けた経験がある。
要請を飲まなかったとしても、機嫌を損ねて八つ当たりをされたことはない。稀にぶち切れノリでツッコまれることはあっても、自分を相手に暴れたところで面白みに欠けると判断していたのだろう。
そう、自分は詰まらない人間だ。首領パッチの望むように、同じ心の形を取れるような器用さはない。人の好さもない。けれどだからこそ、ハジケてはいない本当の姿に触れることができるとも考えていた。
そして、今この段階では要求を聞き入れるわけには行かなかった。
自身の都合という身勝手な解釈で、反旗を翻す。
「その場合、途中までは保証できますけど…」
通常の、和気藹々とした入浴を心掛けることは可能だと。
「でも、後の責任は持てません」
むしろ持ちたくないと、本心を語った。
それを聞いて完全に固まってしまった表情を無視して、破天荒は遠慮なく丸い体積に覆い被さった。
※ザ・ジャンクマン…『キン肉マン』悪魔六騎士編に出てくる、六騎士の一人。
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