+ ハパチ。 +

06/hurachi

 ざり、と。
 舌の表を覆う小さな粒を使って舐め上げているつもりで、そこから響いているのは明らかな水音だった。
 犬が皿の水を飲んでいるような音を、意図的に立てて表面を愛撫する。誰のためではなく、恐らくそれは自身の昂ぶりを増長させる手助けのための無意識の行為だろう。
 冷たい壁面に押し付けられるようにして張り付いたまま、接触の度にびくりびくりと反応示す。
 動きを加えられる都度、歯の隙間からは短い声が漏れる。これが誘っているのではないのだとしたら何であろうと、刺激を加える者は浮つきかける思考の中でそう考えた。
「こっちを向かないと、おやびんの顔を綺麗にできないじゃないですか」
 背後での遊戯を存分に堪能してから宥めるように声をかけると、ぐっと目を瞑ったままであるらしい首領パッチから、ようやく応答らしい応答があった。
 しっかりと食い縛った歯の間から、機嫌の悪そうな片言の返事が届く。
 おう、と言ったは良いが、とてもじゃないが用件を承諾したようには聞こえない。
 最初は抵抗を示していたが、接触を加えられてからずっと、首領パッチは無抵抗のまま後ろ側から及ぼされる熱を受け入れていた。心中は決して乗り気ではないはずなのに、その従順さはある種の幼さを思わせた。
 手加減が必要なほど、齢を経ていないわけではない。けれど覚束ないのは、本当の意味で大人の仲間入りをしているわけではなかったからだ。
 破天荒は思わず胸の内でわずかに興った罪悪感に苦笑を浮かべるしかなかった。
 今まで相手に猶予を与えるようにして好きにさせてもらったが、丸い上体の背面に汚れがないわけではない。
 本命である口の周りや頬を疎かにしてはいけないが、それなりになぜここにと思われる箇所にも、チップが溶けたような染みが何箇所もあった。しかしそうは言っても、前面より明らかに規模が小さかった。
 顔を背けるようにして壁を向いてしまった首領パッチを無理矢理そこから引き剥がすことはせず、見える範囲だけを重点的に舐めていたが、それも大方仕上がってしまった。
 トゲの根元から先まで。一言で隅々までと言っても、腹から下部には触れていない。背中や後方に靡いたトゲはあらかた綺麗になり、オレンジ以外の色が付着している様子はなかった。
 だが、本当に清潔になったかと問われれば、他人の唾液で満遍なく濡らされただけで、事実は再び汚されたという気もしないでもない。それこそ願ったり叶ったりな展開だということは、無論仕掛けた破天荒だけが知る事実だった。
 球体の側面以外である掌を引き寄せようにも、両手は壁に付いて離れない。まるで日向ぼっこをしている蝉か亀のように、じっとしたまま息を潜めている。
 だからと言って、このまま相手の死んだ振りを見過ごせるわけがない。加えれば微細ながらも切迫したような手応えが返ってくるのだから、破天荒とてそうそう諦めるわけには行かなかった。
 こちらを向くよう再度促すと、またしても声にならない唸り声が聞こえた。
 言いたくて、でも言葉にならない。ジレンマと戦っているような素振りは、性欲に割と性急な質である者を、少しずつ昂らせる作用があった。
 力ずくで手に入れる行為は実力者の一人である破天荒にとって、当然不可能なことではない。けれど、刹那の欲求であるならまだしも、これからも触れ続けたいと願う相手には、些か傍若無人過ぎる振る舞いだろう。
 肉体関係を持つまでに至ったとはいえ、自分と首領パッチの関係は子分と親分のそれでしかない。そうは言っても、以後は身体の付き合いをなくしても構わないということではなかった。
 ずっと、美味しい位置にいさせて。
 束縛するような名称の下にあるよりも、自然体で接し、思った時に抱けるように。
 これが、都合の良い願望でなくて何であろう。
 快楽を求める側の手前勝手な考えだと思いながら、今もこうして首領パッチの好意に甘えさせてもらってばかりだ。
 仕様もない根性だと知れている人間との関わりをいつまでも絶たないのは、もしかしたら若干でも何か感じる部分があるのかもしれない。
 淡い期待は持たないに越したことはないが、そうなのではないかと当人でさえも見えていないところを感じ取るようになってきた。今でも、馬鹿馬鹿しいことだと思う。そんな、向こうに自覚のない思いを、他人である自身が嗅ぎ取れるわけがないと。
 最初、それらしき傾向と遭遇した時は、まさかと自らを嘲笑ったものだ。だが、二回三回と同じようなことを繰り返しているうちに、まさか、がもしかして、に変わった。
 おやびんは、自分に惚れているんじゃないのか。
 別段、身体の相性が良いから自惚れているわけではない。与えられた快楽に純粋に応える首領パッチの肉体は、感覚を受け取る機関が拙いからこそ心地良い手応えを返してくれるのだと思っていた。
 つまり、幾人かと性体験を持っているだけのただの男が、何の手管も知らない少女を自身の好みに育て上げられるのは技能でも何でもない。現実世界で予めその心構えがあるならばともかく、未体験であるがゆえに恐怖に引き攣った硬い体を懐柔するのは並大抵の労力ではないだろう。
 だが、じっくりを時間をかけて落とすことに成功したからと言って、本当にそれが彼女たちにとって一番良いのか否かは、本人たちにしかわからないことだ。たかが数人の女を知っているだけの男になど、彼女たちの真実の如何を見分ける術など身に付くはずがないのだ。残念だが男ほど、女というのは単純な生き物ではないらしい。
 首領パッチは事実女ではないが、だからこそ単なる錯覚だと思っていた。相手が気持ち良いと感じるのは、自分でなくても同じだと。
 もっと狂えるだけの存在が、他にあるのかもしれない。
 なのにそう思うようになってしまったのは、頭では恥ずかしいと考え、何度も広言をしていることとはいえ、機嫌を損ねない限りはこちらの我がままを許して受け入れてくれるということだ。最終的に一つになる機会を得なくても、射精まで付き合ってくれる。
 ただ、これも親分としての義務感が先んじた結果かもしれない。
 子分の面倒はてめえが看ると、思い込んでいるからこそ許しているのかもしれない。
 惰性ではないとはいえ、それと近いものはあるだろう。
 本来、その手の絆は自分にとって煩わしいものとは対極の位置にあるとはいえ、微妙な場面ではむしろ足枷になった。本当にあるものが見えない。あるいは、見えなくさせている原因へとすり替わる。
 実際に、首領パッチに向かって聞いてみれば済むことだ。
 簡潔にして、最良の方法。
 おやびん。あなたは俺に惚れているんじゃないですか?
 …聞けるわけがない。

「表面のチョコを取ったら、ちゃんと洗ってあげますから」
 ね、と目元を軽く細めて促す。
 行為の続行を首領パッチが渋っているのは、入浴に付き物の黄色いあひるちゃんがいない所為だろう。
 いつもは玩具を与えていればそちらに意識を集中させて、どんな不埒な真似をされてもある程度は現実逃避が可能だったからだ。
 今からでもカーテンを開けて取りに行こうかと考えたが、ここまで追い詰めて腕を伸ばさなくとも捕らえられる距離に別の体温があることを、破天荒は惜しいと思った。やはり、何とかしてその気になってもらうしかない。
「ね、おやびん…」
 囁くように声音を低くする。
 掠れたような呼吸に促され、おずおずと背中から顔の側面が覗いた。
 小振りだが、整った鼻梁がやっとのことで視界に現れる。
 容姿よりその気風に惚れ込んでいるとはいえ、やはり視線を合わすことができれば満足する。
 嘆息するように、頭上の男はほ、と一つ息を吐いた。
 やがて、それに合わせたように、久方振りと思えなくもない相手の声が鼓膜に届いた。
「あんま、舐めなくて良い………」
 表情は思ったより平静だった。
 話しかけられている間に、正常な呼吸を整えることができたのだろう。
 普段と変わりなく切れ上がった眦とつんと立った唇をしているが、顔色はかすかに赤い。反応の度に流していた蒸気の粒も、少しだけ治まったかに見えた。それでも、密接した空気の中で、首領パッチの全身は明らかな変調を見せていた。
「でも、舐めないと取れません」
 固まった物がこびりついているのだと困った顔で諭せば、目を動かさないまま端的に、少ない回数でと注文を付け加えた。
 あまりべろべろやられると、その動きだけで行ってしまうのだろう。絶頂を知った者にとって、どれが一番危険かということは嫌と言うほどわかり過ぎているのだろう。
 何が特別弱いというわけではなかったが、破天荒の知る限り、首領パッチはすべてに対して弱かった。感じた快楽を自分で心中ツッコまないと収拾が付かなくなる。精神的にも、だろうが、身体的に、どんどん余裕の幅が狭められていくらしい。
 当人は一言もそこには触れていないが、細かく形容できないらしい胸中を要約すればそんな感じだった。
「じゃあ、一箇所につき五、六回で」
 それで手を引きますと譲歩すると、もう一声、と無表情な影から掛け声が上がった。
 震えてはいないが、その語気には些か元気がない。
 セックスに至るまでの過程を理解しているがゆえに極端なほど硬質な相手の態度は、破天荒を深いところで笑い死にさせかけた。
 どんなに回数をこなそうと、変容がないというか。つまり、あまりに初心過ぎて気の毒なくらいだった。
 しかし本当に笑い出しては、折角の準備が台無しになる。
 気持ちを改め、破天荒はうっすらと微笑した。
「…なら、そうですね。濃厚な一回で諦めます」
 他ならぬおやびんの頼みだと、乞われた側は片目を瞑って肩を竦めた。
 回数だけを見れば減ったような気がするが、内容はディープだと宣言されたにも関わらず、ん、と首領パッチは目線を上から下へ大きな弧を描いて移動させた。
「それで良い」
 頷いてから、吊り気味だった目元がわずかに綻んだ気がした。

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