目的の人は、意外とすぐに見つかった。
玄関の近く。庭石に、逆さになった恰好で刺さっていた。
逆立ちをしているのだと言われればそう合点できなくもないが、天辺のトゲが真下の石に食い込んでいる。その時点で、絶妙なバランスでそこに刺さっていると表した方が差し支えがないように思えた。
「よお」
こちらが呼びかけるより先に、気楽な声が届いた。
挨拶なのか照れ隠しなのか、判別は微妙だ。
我ながら、夢中で駆けてきたものだと思う。
破天荒は、無様だと思いながら大きく呼吸を繰り返した。命からがら逃げ出すような状況であったのならまだしも、まるで早く会いたいがために走ってきたのだ。だが、こちらから首領パッチに用事があることなど、滅多にない。
組を統治する者である以上、組頭はそう頻繁に出かけるものではないと想像していた。しかし、首領パッチは違った。毎日、行き先も告げずどこかへ出かける。当てがあるのかないのかすら、残される側である自分が知ることはない。自分の屋敷にいるならいるで、コパッチたちを相手に大暴れする。自身の衝動、つまりハジケを実践することが日課であるかのようだった。
トゲの分だけ抜きん出ているとはいえ、似たような背丈が無邪気に戯れる姿は、近所の悪餓鬼の集まりのように見えなくもない。
傍目から見た首領パッチは、大人気ない振る舞いであることが多い。いや、それに尽きるだろう。けれど何となくこの人は、このハジケ組の中でだけ、周囲に対する配慮や気遣いがあるように思えた。
無意識だろう。恐らく本人には自覚がないことだ。
それでもふとした拍子に、おどけていた表情に宿る瞳の色が異なっていることに気づく。その変化を知覚したのは、最近になってからではない。重傷を負って生き倒れていたところを助けられた後、興味津々で近寄ってくるコパッチたちの波の奥で、じっとこちらを見つめてくる姿を見た時から感じていた。
勿論、彼が邪気のない存在であることは自身と正反対であることからも明らかだ。
凡そおのれの内側に影となる部分を持たず、しかし彼自身が光り輝いているわけではない。首領パッチを形容するのに、相応の表現方法がないのは苦しいが、要するに、光を受ければそれを反射することはできるのだろう。
ただ光線が素通りするだけの自分とは違う。影を地面に刻み込む、地上の障害物としての人間とは異なる。
首領パッチの場合、その光を受け取るのがさも当然のようだと表せば適当だろうか。
単なる錯覚であり、元来感受性に乏しい自分が、説明すら真っ当にできないような愚にも付かない感想を持っていること自体、馬鹿げた妄想の類いだと言わずばなるまい。
なぜ首領パッチに対してそんなにも多感であるかの答は、それとなく気づいている。
拘るのは。
心酔しながら、すべてを任せながら。自我という次元で、それが不可能であるのは。明け渡せないのは。つまり、妄執であることは間違いない。
例え今現在、その火がかすかなものであれ、時を経ればどう変貌するかは目に見えている。
自分ができるのは、それの本来のおとないが、首領パッチのために遅くなるよう務めることだけだ。正体を知られる前に、手段を講じようとするのではなく。
狡猾だと思う。
囚われているから離したくはないと感じ、離れたくないと思うから決して自らの汚点を消し去る努力をしない。
そんなことを、飄々とした表面の裏で思い続けていると知られたら、執着されている側は何と思うのだろう。
何も感じない。
この人は、そんなものには脅かされない。
答の見えている問答。だとしたら、それはすでに問いかけではない。
不毛だからこそ、下らないことに人は囚われ続けるのかもしれない。
肩で息を切らした長身の影を、大きな目が下から見上げる。
そこに浮かんでいるのは、小粒だが明瞭な青い眸。小さな鼻や唇と一緒に、昼間の光の中で鮮やかに浮かび上がる橙色の色艶の上に乗っかっている部品だ。
無論、伝説のハジケ人と呼ばれるだけはあり、首領パッチが砕けていない時はない。だが、求道者の顔を晒すことが稀にあった。
「おやびんは、ここで一体何をしてたんですか?」
勢いで駆けんで来てしまったが、もしかして邪魔をしてしまったのではないかと危ぶむ。
何かの修行の最中であったのなら、不躾だったのではないかと。
ここはハジケ組の正門に近い場所だが、普段人通りは少ない。わざわざこんなところで刺さっていたのは、やはり鍛錬のためだったのではないかと思った。
しかし、すぐにかぶりが振られた。くるくるとトゲを軸にして回ったわけではないが、目と鼻と口の位置がずれたことで、そうだと感じだ。
迷惑ではなかったことを知り、破天荒はつくづく安堵した。
ここまで自身に気を遣わせる存在など、今までなら在り得なかった。
「俺は今、世界を逆さから眺めてる」
そのために逆に立っているのだと説明する。
どう考えても刺さっているだけなのだが、辛うじて両手が下にくっついているので逆立ちをしているということになるだろう。
だが、考え込むようにしてその腕を胸の前で組んでしまった時点で、やはり大きな石に突き刺さっている丸、と表した方が無難だった。
「世界を逆さから眺めると、どうなるんですか?」
思わず尋ねてしまったが、こんなことに疑問を持つのはハジケの素人としか言い様がない。
愚問とも思しき質問に気を悪くすることなく、首領パッチは平然と答を放った。
「全部、逆に見える」
「……………」
それは、当たり前ではなかろうか。
咄嗟に冷めた思考が脳裏をよぎったが、気を取り直し、再度尋ねた。
「逆に見えると、何か違いますか」
こくん、と頷きが返った。ように、見えた。
ああ、とその口元が音を刻む。
「名前が逆さになるな」
「………………」
更に冷たい空気が流れかけ、この話題はやめにしよう、と破天荒は思った。
所詮、初心者の自分にはわからないことだらけだ。
現段階では、首領パッチの発言は正直自身の手に余る。わかりもしないことをなるほどと首肯し、合いの手を打てるほど、生来愛想とは程遠い性質だった。であれば、やはりわからないというのが素直な意見だ。理解不能を口にする者に対する侮蔑や軽視は、今更なので割愛するが。
異常とも思われる奇抜な行動に関してはこういう人なのだと納得することはできるのだが、そこに伴う具体的な根拠というものは、今以て一つには繋がらなかった。言動が、一致しない。
そう考えてしまう段階で、自身にはまだ、常識的な部分が残っている。良かれ悪しかれ、首領パッチに関してならば、そんなものとは容易におさらばできそうな予感はするが。
それは自らの修行も兼ねて、少しずつ噛み砕いていくことにしよう。
簡潔に決心し、破天荒は用件を切り出した。
「おやびん、実は…」
急いで探していたのだと言うには、首領パッチが呆気なく見つかり過ぎたという観は否めない。
元々目立つ存在であるだけに、どこにいても見つけ易いのは事実だ。
まだ随行した験しはなかったが、恐らく他の町へ出かけたとしても、身体上の問題からも悪目立ちすることは間違いないだろう。
言い方を変えれば、あんなオレンジで丸くてトゲを生やした物体など、彼以外に存在しないからだ。
そうでなくとも、ここに滞在しているのはヒューマン型の自分と首領パッチ以外コパッチ一色であるので、見つけ易かったのは尚更だったかもしれない。
「今日の当番はおまえか、うこんては」
ちらりと手元の巾着袋を一瞥する。
そうです、と思わず顎を引く。
「それで、早速買いに行くつもりだったんですが…」
コパッチとの会話を頭の隅で回想したものの、急いで、とは一言も言わなかったような気がする。
突然出かける羽目になったのは、首領パッチの名前が出て、彼と二人になれると勘違いしたため、気が急いただけだろう。今更だったが、馬鹿な真似をしたと思う。
良い年をした餓鬼ではあるまいし、大好きな人に早く会いたくて走って来たなどとは、浮かれているとしか言い様がない。
長い手足に恵まれたおかげでものの数分とかからずに会えたことは幸いしたが、そんな態度を相手はどう思っただろう。
「…おやびんに、ハジケ組の人数を聞いてこいと言われて」
自身でも、いまいち話の辻褄が合っていないと思う。
そもそも、短絡的な思考で首領パッチの元へやって来たのは失敗だった。はっきり言って、恰好が付かない。見てくれの好し悪しなど取るに足らないと思っていたはずなのに、無様を晒している自身に、破天荒は苛立ちを感じ始めていた。
口調も、気に入らない。断定できないような物言いは、相手に対する明らかな遠慮を示していた。
首領パッチに下手な言動をして、どう思われるかがよほど気になるのだろう。そこまで細心でないことはわかりきっている。そんな些細なことに目くじらを立てたり、癇癪を起こしたりする人ではない。
わかっていて思うままにならないのは、先に述べたものが根本にあるからだ。
「ふーん」
要するに、その聞きたいことというのはコパッチの人数だろ、と告げながら、首領パッチは丸い石の上から降りた。
よいしょと器用に片手で天辺のトゲを引き抜き、重さがないのではないかと思われるほどゆっくりとした動きで地面に着地する。
たす、と靴底で小さく土を踏む音が耳に届いた。
下りた先は庭の内側だったので、破天荒の立つ砂利までは大分距離があった。
「よし、決めたぜ」
手袋に付いた埃を払いながら、その場でびし、と指を突き出す。
何のことかと問う隙を与えず、にんまりと唇が薄い弧を描いた。
「今日は、俺がおやつ係だ!」
仁王立ちして胸を張り、首領パッチは子分の目の前で声高らかに宣言した。
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