直進を続け、決して後ろを振り向かない首領パッチの、頭部から後方のトゲが眼下に晒されている。
ほとんど真上しか見えないので、その長さや大きさを知覚するほどではない。けれど、視覚から来る存在感と肌から伝わるような眩暈が、触れ合った場所から確実に生まれている。それによる高揚感が、指先から全身へと一気に広がった。
独占しているのだと思う瞬間。
こんなことは、今まで一度もなかったのだと今更ながらに気づいた。
ハジケ組の仲間入りをした時も、首領パッチから声をかけてきた時でさえ、直接接触するような機会がなかったことを思い返す。
けれど、今はこうして繋がっている。
もっと、と更に上を望む願望はある。
毒々しい欲求なら、それこそ、掃いて捨てるほど。しかし、それを隠すことも、相手に対する敬愛を示していた。
ぐんぐん引っ張られ、辿り着いたのは村にある駄菓子屋だった。
到着するなり、触れていた手が離れた。店内へ一人足を踏み入れ、その場に取り残される。
得ていたものを失って途端に感じた落胆の大きさに、普段と比較にならないほど内面が満たされていたことを自覚した。
お役御免となった掌を、名残惜しげに胸の位置まで持ち上げる。開いてみても、すでにそれはただの固形に戻っていた。
数分前、首領パッチによって与えられていた温もりを甘受し、おのれの一部であっても清らかだと錯覚していたものとは、あまりにもかけ離れている。肉と皮と血管が詰まった、醜い肉塊だ。数多の血を被り、見えない染みに汚染されている。それが、片時でも掛け替えのない存在だと思えたこと自体、尋常ではない。馬鹿げた妄想であり、麻痺した神経が起こした幻覚であろうとも、その瞬間だけ充実していたことは否定できなかった。
黙り込んだまま、長い間眺め続けていたのだろう。ふと顔を上げると、何かを小脇に抱えた丸とトゲの姿が目の前にあった。
「うわっ…!」
あからさまに驚愕し、だらだらと額に汗を掻く。
「何、赤面してんだよ」
紅潮しながら焦る子分を冷静に見返し、はい、と首領パッチは右手を差し出した。
冗談とも本気ともつかない衝動に促されるように、破天荒はその手を握り返した。強過ぎないよう、力をセーブする。
思った通り、やはり温かい。
先ほども感じていたことだが、首領パッチの手の先は白い手袋で覆われているが、その材質は布地のようで皮膚に近い感触だった。
更に白色であるその腕の手触りはまだ実感したことがなかったが、つるつるかと思われた表面は、滑らかだが光沢のある無機質な素材ではなかった。
そういえば、見てくれもビニールのような代物ではなかったように思う。特段意識した覚えはなかったが、一見だけだと手足はホースのように太くて、厚みのあるストローのようだと言えなくもない。その端には、衣服を纏った部品が付随している。
ヒューマンの価値観からすれば、首領パッチに限らず、独特の形状をしている彼らは半裸であることが多い。全裸であることも珍しくはなかった。
生身を覆っている首領パッチの手袋は、掌と一体となっている感があった。それほど、布で隔てられたという違和感が少ないと言うべきか。再び触れているという現実に、訳もなく胸が高鳴った。いや、理由など端からわかりきっている感慨に、率直な興奮を感じた。
むしろ、触れているそれを包み込みたいという欲求の方が強かった。
自分の手指より格段に小さい首領パッチの掌を、壊れ物のように両手で優しく扱ったつもりだったのだが、相手は全くそんなことなど意図していなかったようだ。
「………何の真似だよ」
「え…?」
握手を求めたのではないと言い、首領パッチはかすかに眉を潜めた。
慌てて手を引っ込めると、その胸ポケットに仕舞った財布を出せと要求された。
「親父、勘定はこいつから貰ってくれ」
くい、と細い親指で後ろを指し示し、斜め上にある髭面へ声をかける。
促されるまま代金を支払い、破天荒が振り返ると、首領パッチはさっさと帰路に着いていた。
「おやびん…!」
横へ追いつき、何を買ったんですか?、と覗き込みながら問う。
世界の大半で流通しているのは、マルハーゲ帝国の貨幣だ。それだけ彼の支配領域が拡大しているということに他ならないが、なぜかこのハジケ村ではコパッチたちが落書きしたような紙幣が通用した。
硬貨には、滅多にお目にかからない。代わりに缶バッチが使用されている光景は、二三度目にしたことがある。
金銭と同じ価値を持つ手形だけで物が買える集落があるというのは、物凄いことだ。商業など盛んではなさそうなこの地方には、無論、銀行が建っているわけではない。田舎だと評した方が無難な場所では、近代的な建物は皆無だ。それでも、経済活動というか、まるで飯事であるかのように、落書きのお札だったり、首領パッチの姿を模した缶バッチが使われていたりする。
こんなもので本当に生活をして行けるのかと疑いそうなものだが、生きて行く上で支障はないので、真実だと言えるだろう。
破天荒が、ハジケ村のレアなコインとも言うべき缶バッチを、何とか手に入れたいと密かに狙っているというのは余談だが。
「見りゃわかるだろ」
全然わかりません。
声に出しそうになり、必死に言葉を飲み込んだ。
抱えられたのは、白いバケツ。半透明なので、中身の色は若干しかわからない。蓋付きの樽のようなそれは、一見しただけでは色の悪い粘土が詰め込まれているとしか思えなかった。
「今日のおやつは、んこだ」
「は?」
膝を軽く曲げて屈み込んだ男に向かって、丁寧に教え諭すように、人差し指を立てた。
思わず、そこに焦点を合わせそうになる。寄り目になる一歩手前で、その奥にある眼差しを凝視することに努めた。努力の甲斐あって、間近で首領パッチの宝石のような青い双眸を見返すことができた。
「ん・こ・だ」
心地良い声音が届いているはずなのに、正確な音を拾えない。まさか耳がそれを拒否しているとは思わず、あらぬ想像をしてしまう。
真昼間だろうが公衆の面前だろうが、子どもならば平気で口にできることは否めない。よもや、生理現象の産物である物体であるわけはないだろう。理性は常識ある思考を促すが、まさか、との懸念を打ち消すことはできなかった。
ハジケなら、それも有りだろう。いや、試練かもしれない。これは自分に課せられた、越えねばならない関門なのだと。
「わかんねえかなあ」
不可解な面持ちで迫られ、ぼりぼり、と首領パッチはトゲの後ろを掻いた。正しくは後頭部なのだが、全身が一つの大きな球体であるので、どこがそれかは判断できない。
口で言ってもわからないなら、と思い改めたようだ。
脇で抱えたバケツの蓋を開き、無造作に中に指を突っ込む。
白の根元まで濁ったような色の粘土に埋めると、予告もなしに眼前の顔にめり込ませた。
自身の顔面のどこに食い込んだかと言って、それは頭部の下半分。鼻の下の器官だと言えば、そう多くあるものではない。
「餡子、だ」
破天荒の顔色が蒼白になるのと同時に、首領パッチは口を大きく開きながら正式な名称を発した。
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