あんこあんこあんこ、あんこをたべると。おはだおはだおはだ、おはだが良くなる?
商店街かどこかの売り場で一度は耳にしたことがあるような流行歌を口ずさみながら、バケツを脇に抱えた丸とトゲの人が行く。
その斜め後ろを大人しく付いて行く背の高い人影は、さっきからひっきりなしに前進する人物の顔色を窺っていた。
同じフレーズが、半永久的に繰り返されている。音程は合っているのだが、勢いはない。本気で歌う気がないと表現するよりも、別のことに集中しているからだろう。
声質的には、耳を覆いたくなるような代物ではない。単に自分が相手の声を特段の理由もなく気に入っているだけなのかもしれないが、巧い下手で言えば首領パッチは前者だった。可も不可もないような歌声を耳にしながら、その手の動きを注視する。
確かめずとも、店を出てからここに至るまで。自身が師とも仰ぐ人は購入したおやつを食べ続けている。リズム良く、首領パッチは自らの口へと餡子を放り投げていた。
咀嚼、はしているのだろうか。頬が膨れたり、唄の調子が些かも変じないことから、もしかしたらそのまま腹の中へ投げ入れているだけかもしれない。
単純な構造であるらしい首領パッチの身体ならば、あながち不可能ではないだろう。
終始それを見張っていなくとも、知れる結果がある。破天荒の脳裏には、すでに明確な未来が浮かんでいた。
このままだと、おやつと称して買ってきた餡子そのものがなくなる。
なくなる可能性があるのではなく、一〇〇パーセントそうだと確信した。
今のペースを続けたら、ハジケ組に戻る前にバケツの中身が空になるのは必至。
目線を足元の地面に戻し、付き人となった者は心中で明らかな危機を悟った。
この事態を見過ごせば、待っている結果は一つ。
想像せずとも、滂沱の涙を流して甲高い鳴き声を上げるコパッチたちの顔がはっきりと浮かぶ。
連中は子どもではないが、それらに近い属性だ。一度泣き出したら簡単には収拾が付かなくなることくらい、ハジケ組に入って日の浅い自分とて知っている。
最悪だ。
思ったことをそのまま言ってしまえば良かったのだが、破天荒には親分に対する遠慮があった。
下っ端である自身が意見をすることが、果たして道理に適っているのか。
しかし黙認を続ければ、遠からぬうちにバケツの中は完全に底を尽くだろう。
ハジケ組全員のおやつであるはずの小豆をペースト状にした甘味物は、依頼したコパッチたちと会うことなく首領パッチの胃袋へ消えて行くだろう。
「………………」
押し黙り、やがて意を決した。
「……おやびん」
ごくりと、あるはずのない唾を飲み込む。
漏れたのは、乾いたような声だった。
極度に緊張しきっているのは、内心にわずかな躊躇いがあるからだ。言い出しておきながら、今の時点でも目上の人間に対する引け目があった。
しかし、あの大勢のコパッチに集団で泣きつかれるのは、首領パッチとて望む所ではないだろう。だとしたら、自分たちにとっても最良の策だと、怯みかける理性を鼓舞した。
もう、その辺で。
やめた方が良いのではないかと諭す。
「おお?」
今までその存在自体を忘れ去っていたかのように、声をかけられ、驚いたような青い視線が見上げてくる。
しかし、驚愕は長く続かない。
一言発しただけだというのに、明確にこちらの意図を見抜いてくれたようだ。
ああ、と合点したように軽い頷きを返す。
ほう、と胸中で破天荒は安堵した。
やはり、少ない言葉で物事を見通せる偉才の持ち主だと、内心で相手を賞賛する。
「そろそろ、マンネリ化してきたか?」
穏やかな表情に思わず目を細める。
自分だけに向けられる顔が嬉しくて、温かな気分に浸った。こんな、貪欲じゃない部分が自らにあることなど終ぞ、忘れていたけれど。
見惚れてしまうほど、小振りながらも明瞭な目鼻を備えた人が、自分に聞かせるためだけに唇を動かす。
音を紡ぐために、薄い皮膚が形を変じる。
「あんこの唄が」
「……………」
違う、と即座にツッコミを入れるべきだった。
それこそ、音速を超えた光速の動きで横にいる人物の胸元をどつくべきだったかもしれない。
破天荒自身に渾身の力を込めるつもりはなかったとしても、反射的に行動すれば尋常ではない力がそこに宿る。が、そんなことをすれば仕返しが返ってくるのは目に見えた。暴力を恐れるつもりはないが、好いている者の不興は、誰だとて買いたくはないだろう。
どつき合っても笑って許されるほど親しい関係ではない以上、思うだけに踏み止まった。
「…違います」
強張った声を搾り出し、身の内に沸き起こった衝動を抑制した。
辛うじてであるとはいえ、自制が働くだけ、分を弁えているのだろう。尊敬する人の前では、醜態を晒すまいと必死に生身の人間を演じられるだけまだ増しだ。
「ん〜。じゃ、あれだろ」
かすかに考えるような素振りをしてから、首領パッチはきらりと双眸を輝かせた。
「俺のオレンジ色の身体に、見飽きたっつーか」
かれこれ何百年かこの姿のまんまだからな、と冗談とも本気ともつかないことを口走る。
内容は意味不明だったが、破天荒は今度こそ、即座に発言を否定した。
「それは、ないです」
きっぱりと断言し、歩いていた足を止める。
応答には、コンマ一秒すら要しなかった。
自身でもなぜそこまで毅然と言い返せたのかはわからなかった。反射というより、使命のような感覚が先んじたのだと思う。それなのに、名前が示すような重苦しさとは無縁の印象がある。ゆえに、本心から欲していることなのだと理解した。
自然、首領パッチの歩行も同じような位置で止まる。
少しも、不可解な顔つきはしていない。
そのことが、破天荒を勇気付けた。
「おやびんの体を見飽きるなんてことは、絶対に」
ない、と、幾分強めの語調で放言する。
何を餓鬼みたいに、向きになって弁明をしているのか。
けれど、間髪入れずにそう答えられたのならば、それが真実なのだろう。
おのれが、首領パッチに対して飽きるなどという事態は永遠にない。
真顔を向ければ、じゃあわかんねえ、と間延びしたような口調が耳に届いた。
先ほどの台詞についての補足を求められる。
「その、コパッチたちのおやつのことです」
ここぞとばかりに、思っていた事柄を吐露した。
見れば、こちらからは死角であったとはいえ、抱えられたバケツの中身は半分にまで減っている。
首領パッチが店の主人から受け取った当初は、蓋の縁まで黒いもので埋め尽くされていた。そこからも、ハイスペースでつまみ食いをされていたのは一目瞭然だった。
そんな塊の、どこが良いと思って口にするのだろう。
現実をまざまざと見せ付けられ、閉口したい気持ちに囚われた。
別段、餡が嫌いなわけではない。当然のことながら、好きでもなかった。それが詭弁だとしても、菓子に繋がる素材全般があまり得意ではないことは確かだ。
味覚よりも何よりも、心情が受け入れることそのものを否定する。
細胞に取り込むことを好しとしなかったのか、単に見た目が好かなかったのかは判断できない。
いずれにしても、あまり目に入れて嬉しいものではないというのが独自の見解だった。他人が食べている光景も、できることなら視界に収めたくはない。
「そいつは、違うな」
ちちち、と首領パッチは細い人差し指を眼前で振った。
本来は白であったはずの指先は、口内の粘膜で拭いきれなかった染みで、少なからず汚れている。
今は特別濡れてはいないが、それが寸前までその体内にいたことを想像して、どくんと鼓動が跳ね上がった。
「こいつは、コパッチたちのおやつじゃねえ」
ふ、と一拍間を置く。
その呼吸すら、惹きつけるような魅力を孕んだ。
だが期待は、所詮妄想でしかなかった。
「俺とおまえと、コパッチのおやつだ!!」
自信ありげに高言されたことに、がっくりと内心で項垂れる。
全然、そうじゃないだろう。
またしても頭のどこかで、激しく叱責する自身の幻影が見えた。
そもそも首領パッチが真に言いたかったのは、コパッチだけのものではないという部分ではなく、これは自分のものだという率直な意見だけだろう。
言うなれば、他はどうでも良いという自分勝手な主張に過ぎない。
心が狭いと、相手を非難したいわけではない。
親分らしからぬ言動だろうと、そんなことは構わなかった。幻滅は多少なりとあったが、それを差し引いてさえ、眼前から取り除きたいとは思わなかったからだ。
辻褄が合わないことに、本能的に寒い心地を感じた。
まるで潔癖であるかの証明のように、わけがわからないことに苛立ちを感じる。正直、げんなりと意気消沈した方が程度は軽かったかもしれない。
しかし、その煮え切らない部分には、子分のことは自身の二の次であるという発言や態度よりも、首領パッチが抱えて離さない餡子の存在が含まれていたのかもしれない。
それくらい好きなのか、と思う。
そんな、砂糖の味しかしないような豆製品を、それほどまでに気に入っているのかと。
自身で遠ざけているものに対する愛着を察する都度、心の中に軽蔑を含んだような影が差す。価値観を覆すほど重大ではないにせよ、何でなんだと嫉妬にも似た憤りを感じる。
思いが表面に出てしまったのか、上空を見返すように見つめていた面に、突如変化が生じた。
大きく開いていた瞳が不意に面積を狭め、顰められる。
眉根そのものが歪んだわけではなかったが、機嫌を損ねているのだとすぐに解釈した。
わかってねえな、とぶっきらぼうに告げる。
呟いただけかもしれなかった台詞は、更にもう一度繰り返された。
「わかってねえな、おまえは」
怒りが込められていなかったとしても、投げつけるような言い草を耳にし、途端に気が引き締まった。
強引に引き絞られたと表した方が、差支えがなかったかもしれない。
あからさまに不快を示すことのない人柄であるだけに、首領パッチが普段と異なった空気を見せた瞬間、嫌でも緊張を強いられた。
「……何がですか」
言わんとしている意味を質す。
もう、体裁を気にしている余裕はなかった。
「そんなの、決まってるだろ」
ばん、と二度ほど面積の小さい掌でバケツを叩く。
「こいつの良さが」
「わかるわけ、ないじゃないですか」
だって、砂糖をまんま食べているような代物なのだ。
食わず嫌いなのではなく、実際に口にしたからこそ、下らない物だと評価しているのだ。
脂分がなくてヘルシーだとか、あっさり系だとか言われてフォローされても、他の甘味物と同じ、自分には用のないものだ。
それを軽視して、何が悪いというのか。
わかっちゃいねえと、再度首領パッチは口を開いた。
互いに、一歩も退く気はないらしい。
一方は擁護派で、一方は倦厭派。
これだと永久に言い合いをし続ける羽目に陥るなと思った瞬間、ぱたぱたと、眼下の小さな靴先が土埃を立てた。
命令だ、と強い口調が直接脳味噌まで届く。
「食ってみろ。そうすりゃ、おまえにもこの良さがわかる」
わかるわけない。
憮然としつつ、それでも命じられたことに従わないわけには行かなかった。
舌打ちを隠し、首領パッチがしていたように、触りたくもない物体に長い指を突っ込む。
横柄な態度を、改めるつもりはなかった。
拒絶すれば良かったのだろうが、首領パッチに逆らうことは、その嫌なことよりも更に嫌悪する行為だった。
だとしたら、逡巡するいとますら無意味だ。
めり込ませた距離は、たった数センチ。
それ以上は、感触も接触も、関わり合いになることすら御免だと思った。
「…………………」
片膝を付いたまま、引き戻した人差し指を、顔の前まで持ち上げる。
そこで動作は急に静へと転じた。
固まったまま、渋い面で真ん中を注視する。
拳から一本、にょっきりと生えている自身の指先は、掬い取った半固形物によって変色していた。
これを、食べろ、と言う。
全然、その気にはならなかった。
元より、誰かに唆されて唯々諾々と従う性分ではない。
仕方なく行動したとはいえ、最後まで言いなりになるつもりはなかった。
これでは拷問だと思いつつ、高い位置からそれ越しに首領パッチを一瞥する。
見張るような表情を見せる相手は、さもじれったいと言わんばかりに、目の端に力を込めていた。
「ったくもーよー」
思うより早く、だん、と片足で地面を鳴らす。
痺れを切らしたように、放置されたままだったその手の括れを掴んだ。
正しくは掌と腕を繋ぐ役割を果たしている手首であり、見てくれからは想像がつかないほどしっかりと筋肉がついているので、首領パッチの小さな手では一回りもできない。
それでも捕らえ、ぐいと引き寄せる。無理強いではなかったが、強い力だけを感じた。
その先に待っていたのは、温かなぬめりだった。
呆然と、その様を見つめる。
食い入るように眺め続けていたと思ったのは、恐らく思い違いではないだろう。
肌色の尖指が、根元まで異なった体色に侵食される。
唾液を含んで、滑るように引き出される一瞬まで、さながらスローモーションのように網膜に焼き付けた。
心太を吸い上げた時のような卑猥な水音すら、周囲の音響にかき消されることなく鼓膜に刻まれた。
引き抜いた手を捕らえたまま、首領パッチは唇を上部と下部に分け、小さな舌で湿らせた。
甘味を感じさせるものがそこに残っていないかを確かめただけだろうが、それを終始見続ける側にとっては、堪えきれないほどの衝動を植え付けるのに充分過ぎる材料だった。
「…………………」
間の抜けたように、表情が完全に抜け落ちた顔面を晒しながら、思うことは決して多くはなかった。
硬直したまま時間を忘れた影を急かすように、おい、と短い声がする。
帰宅を促すようなことを言われたのだろうが、生返事を返しつつ、破天荒は危険な兆候を感じ続けていた。
帰路に着いた間中、呆けのような頭で、無意識に自身の指を口元へと運ぶ。
何気ない仕草で、先ほどの感覚を確かめるように、自らの粘膜を皮膚の上へ重ねた。
当日のおやつが無事に、コパッチたちの元へ届いたかどうかは覚えていない。
その時点では残っていた半分より、嵩が減っていたかどうかについても、記憶は定かではない。
ハジケ組に帰った後、すぐに夕食の準備に取り掛かってしまったからだ。無論それ以外にも理由はあったが、今となってはどうでも良い内容だ。
何度か包丁の切っ先を、手伝っていたコパッチにぶつけそうになっては繰り返し叱られたものの、自身の指だけはなぜか死守できたような気がする。
咥えられた指の、しゃぶられた感触。
温かい熱と、濡れた柔らかい粘膜。
色、艶、入り口の形。
中の、極度に熱された空気。
それらのすべてが、全身と脳に多大な影響を及ぼしたのは、言うまでもない。
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