+ ハパチ。 +

02/続・ニャーパッチ物語

 表面のなだらかな曲線に沿うように、頭を緩く撫でられるのは案外悪くない。
 スキンシップなんてモンは、動物にとっちゃ当たり前の行為だが、残念ながら気高い俺は、生まれてこの方誰からも良い子良い子されたことはなかった。
 それに、撫でられるのなら、大金持ちのマダムと相場は決まっている。どでかい宝石の指輪をした、化粧の濃いおばちゃんに飼われることが、猫の本懐と言っても過言じゃない。
 だが、野郎の手なんてごつごつして心地良くないと思っていたのは、飛んだ思い違いだったようだ。
 身長に比例するように、そいつの指は長かった。けれど、相応に掌も大きい。
 適度な厚みのある指が、強過ぎない力で身体の上を這っている。
 額から登頂に向かって、距離としては若干短いけれど、そこを繰り返し撫でられるのは存外気分が良かった。
 天才、ハジケの神とか言って讃えられるのとはまた別の高揚感がある。ふふん、と胸を張って威張る時とは違う、にんまりくる感じを味わった。
 眉に触れないよう気を遣ってくれているらしいが、ついつい片目を瞑ってしまうのはご愛嬌だ。
 ぱちぱちと瞬きをする度、眉間の筋肉がぴくぴく動く。相手にもその奇妙な動きが伝わってんだろうなと思いながら、なぜかじっとしていることができなかった。
 撫でられるのって、こんなにワクワクするものだったのかと、今更ながらに実感する。
「気持ち良いか?」
 触れているのは向こうなのに、あべこべなことを聞いてみる。
 視線の先にある顔が、さっきよりも更に穏やかになっているような気がしたからだ。
 はい、と、短いけれど、実を伴った声音が返る。
 やっぱり、予感は的中していたようだ。
 さすが俺だぜ、と思いながら、頭上に乗っけられた幅のある手に、ぐいぐい身体を擦り付けた。
 脆い豆腐か何かと勘違いしているのか、与えられる微細な刺激に、ちょっと物足りなさを感じたからだ。
 俺は、そんなに柔じゃねえ。
 尤も、自分以外のニャー仲間は、人間とは比較にならないほど弱え。何しろ体格に歴然とした差があるんだから、俊敏な動きができても弱いことには違いなかった。
 けど俺は、そのニャーの中でも特に強いニャーだ。
 この、鍛え抜かれた綿棒のような白い腕と、丸いだけの胸板を見れば一目瞭然だろう。
 側面に付いた無数のトゲは武器じゃないが、それなりに役立つ。要するに、猫が持つニャークローと思えば適当だろう。
 だったら肉球と一緒についている手袋の先についているのは何だと問われたら、柿の種としか言いようがなかった。
 飢え死にしないための非常食。両手両足に装備しているから、合計二十粒のオレンジ色の種が、空腹時強い味方になった。
 表に付着した辛味成分は少々匂うが、鼻先へ爪を持ち上げて匂いを嗅がない限り、大した問題じゃないだろう。時々雀に奪われそうになるが、その度柿の種トーナメントを開いて、全員返り討ちにしているが。
 つか、鳥があんなモン食したら、腹下すぞ、とも思う。
「…おやびん」
 良い気になってにやりと口を歪めたまま、顎を手で押さえながら長い髭を梳いてたら、上からそっと声をかけられた。
 幾分声量を抑えているようだったが、この部屋には一人と一匹きりしかいないので、特に支障はない。
 ん?、と黒目の大きいつぶらな瞳を傾けると、苦笑を滲ませた白い顔が真上にあった。
「さっき、忘れてましたね」
「へ?」
 確認を促すような物言いに、何のことだよ、と思う。
「…良いか、の台詞の後に、ニャーって言うのを忘れてましたよね?」
 言うなり、にっこりとそいつは微笑んだ。
 そういえば、そんな約束をしたような。
 ていうか、スタートとか言ったのは、そもそも自分だったような。
「…………」
 我に返った瞬間、さーっと顔面から血の気が引いた。
「ば、馬鹿言ってんじゃねえよ…!!」
 開始早々、物の見事にゲームに負けるような奴がいるわけがねえ、と大声で反論する。
 そんなこと、欠片も頭になかったとは、例え事実であっても言えなかった。
 え?、と今度は、向こうが首を傾げる番だった。
「じゃあ、言ってたんですか?」
 驚いたように聞き返される。
 半信半疑というより、心底びっくりしている様子だった。
 行ける。
 このままこいつを丸め込めると、思わず心中で拳を握った。
「ったりめえだろ!大事な勝負を、俺が忘れるわけがねえ!!」
 こちとら、今日のディナーがかかってるんだ。呆気ない幕引きを見過ごすはずがねえと、断言する。
 最低でも朝まで粘るぜ!、と豪語すると、それだと夕飯抜きになるんじゃないですかと、冷静なツッコミが入った。
 猫相手に、中々隅に置けないグッドな指摘をするじゃねえか…!!
「そうですか」
 聞き漏らしてしまったんですね、と呟きながらも、どうやら納得してくれたようだ。
 やったぜ、パッチン。危機一髪を脱出!
 何とか騙し遂せることができたと、徐に全身で息を吐いた。突如襲った極度の緊張を、脱力することで紛らせる。
 だらだらと溢れ出した汗を無造作に拭い、いつの間にか立ち上がっていた足をもう一度折った。
 背を向けたまま黒いズボンの上に跨り、今度こそ真剣に取り組んでやると、意気込みを新たにした。
 ついつい気が散って、勝負事を失念するのは自分の悪い癖だ。こうなったら、腹を据えてやるぜと、両腕を組んで目を瞑った。
 どっからでもかかって来い!、と戦闘態勢に入った背後へ、予期しなかった動きで相手の上腕が伸びてきた。
 ぎゅ、と抱きしめられた時はぎょっと目を剥いたものの、鬱陶しいと思うような重みや暑さはないことを知覚して安堵する。締め付けられる圧迫も適度で、これが俗に言うほーよーって奴なのかと思った。
 ぬいぐるみじゃねえってのに、こいつは何と勘違いしてやがんのか。
「おやびん、大好きです」
 しみじみとした口調で囁かれて、ぞわりと鳥肌が立った。
 いや、この場合猫肌なんだが、とりあえず同じ動物。毛穴はあるってことで、ぞくっとした。何に焦ったのかはわからなかったが、一瞬どっきりした。
 つくづく、生ものに好き嫌いを告白する人間も珍しいもんだと思う。それくらい、猫を飼いたくて堪らなかったんだろう。今回は納豆ワンパックで貸し出されただけだが、時たまこいつの家へ泊りに行ってやるのも悪くはないかもしれない。
 確かに世の中にゃ、好意を持っていても相手から嫌われる類いの人種はいるからな。
 玉ねぎの匂いがする!、とか、柑橘系はやめて!!、みたいな、人にはわかんねえような事情が、猫って奴にもあるけど。
 ふーん?、とか言ってつらっと返したけど、急に空気の密度が何倍にも膨れ上がったような気がした。
 けど、そんな些細なことに構っている暇はなかった。
 言った後で、反射的にびくりと全身が硬直したからだ。
 またしても、台詞にアレを付け加えるのを忘れていたことを思い出す。
 危うくツッコまれそうになる前に、『ニャ』を付けたし、難を逃れた。
 俺としては『ニャふーん』と言いたかったのだが、後ろに付いちまったのが残念無念だ。
 台詞に付けさえすれば、それがどこに入ろうが構わないみたいだったから、こっちからどんどん使った方が作戦上は有利だろう。俺は攻撃的な戦法で、この勝負をモノにしようと企んだ。
 それが俺流。首領パッチ流だぜ!!、と決め込んで、果敢に攻めの手を考えた。
「ま、俺っていうにゃか、猫がにゃ好きなだけにゃだろ?」
 どうだ、さりげない切り返しの中に、計三箇所も『ニャー』を入れてやったぜ!
 音に似た『な』や他の言葉をそいつに置き換えるのは、安直過ぎて、俺のプライドが許さねえ。けど、これだけ高得点を狙えば、次のラウンドまで相手の体力は持たないだろうと踏む。
 言ってる途中で舌噛みそうになったけど、このままコンボを繋いで一気に畳んでやるぜと勝負に出た。
「それは違います」
 だが、敵も去るもの。きっぱりと切り返してくる。
 コンマ数秒も間を置かない、鋭い反撃だった。
 カウントを取られる前に、ダメージから即座に立ち直るのもプロの技だ。こいつは、並大抵の対戦相手じゃねえ。
 やるな…!
 手強い敵だということを、俺は改めて認めた。
 そう簡単に、好物は食わさねえって魂胆か…!
「俺が好きなのは、おやびんだけです」
 真剣みを帯びた表情で、そいつは真摯に告げてきた。
 互いに、自分のペースに引き込もうって寸法だ。
 戦術一つをとっても、まさに好敵手。油断してたらやられるぜ!
「そにゃ〜お?猫ならなんにゃでも良いにゃんじゃねえの?」
 って、言ってて口、回らねえから!!!
 少し長めの台詞を言い終えてから、内心で、つ、と冷たい汗が俺の橙色の米神を伝った。
 現時点では、一歩こちらがリードか。
 しかし、それも気休めでしかない。
 このまま四連以上のコンボで、百五十超のダメージを与える攻撃をヒットさせねえと、一気に逆転されちまう…!
 勝敗の行方は、今だ濃い霧の中。
 次の攻撃を防御された上に、カウンターを喰らったら一巻の終わりだ。
 俺は、焦っていた。
 体力はもう、限界に来ている。
 残り時間も少ない。
 サドンデスに持ち込まれたら、猫である俺に勝ち目ははない。
「本当に本当です。信じてもらえないなら、ここで本気を見せましょうか?」
 思いつめたような面で、激しく凝視してくる。
 気を抜いたが最後、確実に潰されることをその眼は物語っていた。
 緊迫した空気。
 焦燥を隠しながら、赤い口紅で化粧を施した俺は、負けじと言い返した。
「本にゃ気って、あんた、いにゃつも女ににゃ同じにゃこと言ってんにゃ…」
 ブチッ。
「!!!!!」
 急いて、気が動転した。
 と思うと同時に、ぶわ、と視界が見えないもので歪む。目尻から込み上げた涙の量が、壮絶な痛みを如実に表わしていた。
 舌噛んだ!!!!!!(笑)
 猫と鼠が喧嘩する古いアニメのワンシーンのように、屋根を突き破るまでに飛び上がって悲鳴を上げようとした瞬間、不意に大きな体積が覆い被さった。
 何これ?、と思う暇もなく、窒息寸前に追い込まれるまで、猫鼻のついた口を吸われまくる。
 むぐむぐとか、もごもごとか。
 口中で、叫び声や怒鳴り声が封じ込められる。
 もぐもぐと口内の筋肉を動かそうにも、吸い上げる力が物凄くて、成す術なく唾液を干された。
 またいつぞやの時みたいに、危険信号が点滅するような事態かと思ったら、ふと顔の間に隙間ができた。けれどそれは解放のためじゃなくて、舌先を自分のそれと触れ合わせて、撫でるように舐め上げるためだった。
 別個の液体が絡まり、細い筋を幾つか作った後、そいつはようやく上から頭をずらした。でも、押さえ込んだ身体は離さない。
 びっくりどっきりな行動は今に始まったこっちゃねえけど、いきなりなのは勘弁してほしい。
 心臓はばくばくするし、冷や汗か脂汗かしらねえモンは多量に出てくるし。これが原因で円形脱毛症にでもなったらどう責任取るんだと訴えたくなるほど、とにかく容赦ねえのは問題があり過ぎた。
 そんなだから、猫に好かれねえんだよ、とは、心根が優しい俺は言わないでいてやるが。
「…すみません」
 ぜーぜーと、赤い舌を出したまま肩で息をしている様を見て、そいつも我に返ったらしい。
 遅過ぎと言えなくもないが、そこまで慕われてるんじゃ文句も言えない。
 初めて飼った動物をどう扱って良いかわからず、構い過ぎて不機嫌にさせる子どもじゃねえんだから、少しは衝動を抑えろよと思う。
 動物に嫌われる奴は、一概に付き合い下手が多い。
 過度のスキンシップ。相手を省みない勝手な行為がご法度なのは、何も人間関係に限ったわけじゃねえっつーか。
 とりあえず、俺は大人な猫だから、ここは我慢してやるけど。
「ちょっとは落ち着けよ」
 にゃ、と肩を叩く。
 ぽんと置いた猫手が触れた先は、想像したよりも熱かった。
 身体が熱を持っても無理はないほど、戦いがヒートアップしていたのは間違いないが。
 勝負事に冷静さを欠いちゃ、プロとしてはやって行けねえ。
「そんなこと、できるわけがない…」
 ぼつりと、そいつは呟いた。
 呼吸はすでに正常に戻ったと思っていたが、思考はまだ興奮から脱しきれていなかったようだ。
「水、持ってきてやろうか?」
 にゃ、と首を傾げる。
 そんなにカッカ来てんなら、喉を潤した方がよっぽど頭の中がクリアになる。
 肩も首も自分にはないけれど、そんな感じに上体を傾けた。
 俯いたまま面を上げようとしない姿に見切りをつけ、早々に床の上へと飛び降りようとした途端、がし、と動作を制された。
 人間の腕というのは、そもそも体長に倣うようにできている。
 天井に付くかと思われるほど背の高い奴の両腕はと言えば、やっぱりそれは極端に長くて鬱陶しかった。
「だから、水持ってきてやるって…」
 そこから先を言うことはできなかった。
 先刻より深い位置に押し込められるように、両膝の上に身体を固定される。
 トゲを避けるように、後背に岩石みたいにこちこちになったモノがぶつかってくるのが、妙と言えば何か変だった。

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