■ Beyblade ■
長話 ■

「俺の名は金李。おまえは?」
 謝罪の代わりに名乗る。礼を言われこそすれ、こちらが謝るのは本末転倒というものだ。
 ム、とふくれ面のまま立ちあがると、小さな暴君はばたばたと土を払った。無視されたことを気にも留めず、動作を見守る。口を利く気がない、というよりは、子どもっぽい意地が見え隠れする。
「わかっただろう?おまえのような都会の人間に山道など無理だ」
 ナリからしても、街中の、ましてや下町を出歩くような出で立ちではない。
 黒い革靴に折り目のはっきりとしたまだ卸したての同色のズボン。どこかのパーティにでも出かけるような服装で森に入るのは死にに行くようなものだ。尤も、そのための正装というのなら納得だ。けれど、無駄に命を落とさせないために自分たちがいる。彼らの寝床で獲物でもない輩が勝手にやってきて、冷たくなられては迷惑だ、というのが本音だろうか。
 人間の肉はあまり美味くはないのだそうだ。誰が言ったかしらないが、多分他の獣と違って地肌の上に邪魔なものを着込んでいるせいだろう。わざわざ脱がせて食すわけではないから、ボタンとか金属類とか知らずに飲みこんで腹を下した類いに違いない。そして無論、食したのは死人の肉だ。飢えに苦しんでの所業だろうが、正常な健康体の李にはありえないことだった。
 自然から外れるから、そのツケが回って早死にする羽目になるのさ。
 単なる持論だったが、恐らく正しい。
 彼らには”禁忌”はない。反するか、そうでないか。
 もし違えていることなら、遠からず命を落とすことで証明された。
 生きるか死ぬかしかない世の中に、わざわざそれを避けるべき法令などというものは存在しない。簡単に死なれては困るから、人間たちの中では”戒め”という避ける道理があるだけで、李たちには関係のないものだった。
 だから、『野蛮』なんだろうがな。
 人の目から見ての評価だったが、それをわざわざ卑下するいわれもない。
 世界の循環というものを常に肌身に感じている彼らならば、特に強く痛感する。おのれも大きな流れの内に潜んでいることを。
 決して逃れられぬ輪の中にいながら、そこから逸脱しようとする種族の一人が目の前にいる。見過ごしても良かったが、敢えて危地に捨てて行くわけにもいかない。良識、というより常識だった。
「理解したならさっさと戻れ」
 忠告を繰り返す。
 聞く耳持たずとばかりに歪んだ口から言葉が吐き出された。
「うるさい」
 やれやれと肩を竦める。見た目どおりの頑固者らしい。
「はっきり言うが」
 尚も前に進まんとする背に、立ち止まったまま語りかける。
「これ以上行けば確実におまえは死ぬぞ」
 明言する。これは脅しではなく事実だ。確信したような強い口調にようやく動きが止まる。踵が返った。強情者がやっと正面を向いたな、と思った途端、鉄拳が火花を散らして襲ってきた。
「何のつもりだ」
 反射神経で受けとめながら憮然と声が漏れた。親切で言ってやったのだ。なのにどうして相手の制裁を受けねばならない。人の厚意のわからない奴、と内心面白くなかった。だが、拳の向こうにある表情を捉えたときには、すでにどうでもよくなっていた。
「おまえに何がわかる」
 怒り満面、というより、押し殺した声に殺気が宿っていた。これ以上溢れたら泣いてしまう。
 泣くだって?
 馬鹿馬鹿しい例えをすぐさま打ち消す。その発想の根拠が不明だ。
「わかってほしいのか?」
 言葉尻を捉えて返せば、一瞬大きく目を見開く。驚いたときの眉の曲線が存外かわいらしいと感じた。悪趣味だとよく言われる自分の美的感覚など知ったことではない。ただ険しいばかりの表情が瞬間たわんだとき、素顔が覗いた、と思った。歳相応の反応。子どもをかわいいと思わないのは、同じ子どもだけだ。
 一応虎の歳でいえば、俺の方が年上…かなあ?
 思考の語尾は不確定要素に塗りたくられた。眼前で眉間にしわを刻んだ男と自分を見比べて、あまり実証性には欠くかな、と思う。どちらが上だろうがさしたる問題はないと判断した。一族の中でのように、兄貴風を吹かせる相手ではない、と。
「名前」
 視点が顔の中心に戻る。
「名前、聞いてないな」
 こちらが名乗ったのだから必然的に権利が生じる。要求する権利。答える義務。大げさだがこの世の一つの真理というところだ。
 恐らく通常であれば彼の口から出るのは『関係ない』の一言だろう。ただ、先のこともあって少しは恩に感じてくれているのかもしれない。人非人のそしりを受けるのが恥ずかしくなければ、応じてくれないかもしれなかったが。
「火渡」
 丸太をぶつんと切り落としたような、ぶっきらぼうな声が届く。
「火渡カイ」
「俺は李だ」
「さっき聞いた」
 再び差し出した手を払われ、またしても付き合いがたい相手の性格にため息が漏れた。しかし、先までの疲労感を伴うものではなく、反応を示してくれたことに一抹の嬉しさがある。
 ようやくこちらを向いてくれた、という単純明快な嬉々。だが難攻不落の城の一角を崩したようで、慎ましやかながらも達成感を感じたのは事実だ。ここら辺が、まだ”老師”に子どもと言われる所以なのだろう。
「さ、もう懲りたろう。仲間のところへ帰ったらどうだ」
 まだ今からなら日が落ちないうちに人里に戻れることを示唆する。嫌味ではなく純粋に誠意だけで言ったのだが、相手はそっぽを向いてしまった。再三良いのかと確認を促しても、だんまりの延長戦だ。
 やがて、呟く。
「帰るところなどない」
 再び沈黙が流れた。
 破ったのは、言わずもがな、李。
「俺にはやらなければならないことがある。おまえに付き合って暇を潰すわけにはいかないんだ」
 嘆息混じりに自身の腰に手をかける。だったら放っておけ、と前進を再開した少年は吐き捨てた。恩着せがましい思いから言ったのではなく、明言しなければ本当に用事そっちのけで、このままずるずると付き合うことになりそうだったからだ。
 どうやら、危惧は当たったようだ。
 仕方ないな。
 若干諦めを自覚しつつ、自らも歩き始める。
 心に浮かぶのは、村で待つ少女の困ったような怒った顔。
 きっと約束を守らなかったことに細い眉を吊り上げて噛み付かれるんだろうなと、叱責の一つや二つは覚悟した。
 背後から見えないように苦笑を隠しつつ、次第に暮れて行く空を見上げた。
 あと小1時間程度で陽は木々に隠れる。
 今日は久しぶりの野宿か、と思いながらどうして振りきれなかったのかを考えた。
 理由なんて、ないさ。
 ふと心をよぎったのが思考した結論。
 ないなら、それは仕様のないこと。
 腹を決めれば、多少後ろ暗くてもなんとかやれるものだ。
 これも、短い人生の中でいつのまにか身についた、李お得意の持論だった。

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