■ Beyblade ■
長話 ■

 静かに。
 物音一つ立てず、寝返りさえ忘れて、カイは懇々と眠りにつく。
 それを横目で見守りながら、今だ李は就寝せずにいた。
 体を伏したと言っても、こんなところで眠りこける習性はない。人の姿のときでさえ、山の中ならば木の上で眠る。獰猛と知られる彼にとっても、地上はあまりに危険で、何が起きるか予測がつかない。敵に遭遇する危険性を孕んでいる場所でのうのうと寝るのは生き物としては多少問題がある。
 一瞥する。
 光に当てられ続けて褪せたというよりは、そのものの色が透き通ってるかのような共寝者。目を閉じると、意外に睫毛が長く感じる、まだあどけない顔。
 初めて視線が合ったとき驚いたのは、生身の紅。よく気をつけて監察すれば黒に近い暗紅だったが、一瞬で捉えたとき、泣きはらした目と錯覚した。でなければ、本来人の頭部であれほど濃い血色があることはない。
 単なる俺の先入観か。
 何か、どこか。心もとない気がする。あやういと言っては本人に悪かったかもしれないが煮詰まっているというか、抱えているものに翻弄されている節があった。原因や根本にあるものがどのようなものか、問わない李にはわからない。相手を気遣っての処置だったが、次第に自分が焦れてきているのがわかる。
 言うなれば、興味がある。
 他者に対して心不動、のつもりだったのだが、ここにきてどうやらそれが狂ってしまっているらしかった。
 気兼ねがいらない、とでも言うのだろうか。宛てにされるどころか、突っぱねられているから、なおのこと気がかり。大丈夫なのか、と生来のお節介が悪い病気となってうずいてくる。
 それに、気づかない振りをしてきたが、カイは枷をはめられていた。
 いや、実際は過去形なのだろう。片方の手にわざわざ二つずつ、両足、首にもだ。隠れて見えないのは憶測だったが、金属音が複数あることから耳で聞き取れただけで、全部で7つ。両手首は隠しようもないし、アクセサリーだと断言するには分厚く重すぎる。鎖の部分は見えなかったので、引き千切ったわけではないらしい。
 どこかにつなぎとめられて、そして連れ出された、な。
 恐らく正しい。
 李は相手に悟られぬよう、今日幾度目かのため息を吐いた。
 カイについては謎が多い。
 知り合って間もないのが最たる理由だが、どうも周囲がきな臭い。今まで身辺に気配を走らせながら行動していたが、カイを捜索しようとする連中の影もないのが気に入らない。見てくれからもどこかの御曹司だと思っていたのに、単なる思い違いだったのだろうか。
 心配する奴の一人くらい、いたっていいだろう。
 子どものような顔。実際子どもなのだから当たり前なのだが、意思の強い双眸が隠された姿は印象よりももっと幼く見える。両頬の化粧も落とせば素のカイが見られるかもしれない。
 湧き上がるのは、不幸なのか、幸福ではないのか、無事なのか。
 どれもが身を案じるだけで、おおよそ普段の自分らしくない心境だった。
 危うい。
 下手に足を突っ込んだらそれこそ巻きこまれてしまうのだろうが、わかっていても拒めないものが確かにあった。それが引力のようなものだろうと問答を許さぬ星霜の流れの一種だったとしても、抗いがたく、そして引かれたいと願う。
 横顔を見る。
 寝息を吐く。
 胸が倣う。
 不意に、カイの呼吸が浅くなる。
 首が傾いて気道を塞いだためかと思ったが、歪む眉間と薄く滲んだ額の汗が、尋常でないことを示していた。
 うわごとのように薄く開いた唇から言葉の端端が聞こえてくるのだが、何を意味するのか知覚することはできない。
 違う国の言語なのかもしれない。カイがいたという北の。
 苦しげに寄せられる眉にいたたまれなくなり、頭を持ち上げて長い前髪を鼻先ですくった。一瞬硬直し、そして落ちついたのかまた再び意識が、混沌と虚無に放り出される。
 耳につく。
 詰まったような息から吐き出された声。
 眠るつもりはなかった李の心を更に冴えさせるほど、か細く不確かなものだった。


 翌朝、何事もなかったかのように山道を歩き始めた。
 李を信頼しているのか、後ろをついてくるカイの歩調に迷いはない。行き先を問わないのは昨夜目的の場所を告げたから。終始無言で二人は山道を登った。
 朝の挨拶を交わしたとき、ひとつだけ尋ねられた。
 人と虎と。どちらがおまえの本当の姿なのか、と。
「どちらも」
 おかしなことを聞くとは思わなかったが、李に答えられることなどその程度だ。双方いずれの形をとっていても、自我は自分のものであるし取りたてて心情に変化はない。食らう食物でさえ、生肉だろうが調理された豪勢な食事であろうが味覚に差こそあれ、特に身体に悪いということはなかった。
 だが確かに、凡人から見れば特異体質と言わずばなるまい。
 というか普通、もう少し驚かないか?
 無防備だった昨夜のことを思い出し、背後のカイをちらりと振りかえる。変わった様子もなく、足場を見つめながら進んでいる。大器とかそういうのを通り越して、奇妙な感じがする。人間不信だから、動物には優しいのかと思ったが、やはり内情を尋ねるのは憚られた。なぜなら李自身、自分が畜生の類いであるとはあまり認めたくはない事柄だったからだ。
「虎憑きなのか?」
 興味を剥き出しにしているわけではないが、畳みかけられる。その表現の仕方に苦笑は禁じえない。まるで、病気持ちだ。
「さあ。家系だろう」
 肩を竦めて自嘲に頬を歪めると、相手はそれ以上追及してこなかった。李は話す。自身の一族の中では、ときたま自分のような人虎が生まれるのだそうだ。呪われているわけでも、本当に虎の血が混じっているのかすらわからない。村のただ一人の長老は生き抜くための自然の変化だろうと言う。人が増え、森に追いやられた生き物が、血を絶やさないために自らの身体を適応させたのだと。では、もとは虎なのかと問えば、答えを濁す。結局、真実など誰にもわからないし、李自身もあまり固執してはいなかった。
 なったものはしょうがない。あきらめるしかない。
 投げやりや現実放棄ではなく、処世術。不便がないなら、そのことにとらわれて道を見失うべきではないだろう、という信条がそうさせた。進むべき『道』が何であるかということについては言及を避ける。まだ、若いうちにはおぼろげで形状と認識するには明らかではないから。若干の照れも、そこには含まれていたが。掴みかねるものを言葉を濁し濁し形にするなど、まだできない。もしそれが鮮明になったら、誇らしく宣言できる。仲間の前で、そして多分カイの前でも。


 絶壁を前に、李の足が止まった。
 上に登るにつれ突き出た岩山とまでは行かなかったが、長い崖が目の前にあった。しばらく見上げ、判断を任せていたカイに、今度は真正面から振り向いた。紅の目が前髪の間から覗く。
「ここを登ったところに俺の村がある。牙族の村だ」
 一族の名を明かすには理由がある。これ以上知るか、それとも避けるかを選ばせるため。なぜなら、李を代表した人とは微妙に異なった者たちを総じて呼ぶ名称だったからだ。
「入るには条件がある。俺たちのことを決して口外しないこと」
 予測していたのか、妥当だな、とカイの頬が片方吊り上がった。小さな動きだったが、李は見逃さない。
「もし守れなかったら、俺はここでおまえを八つ裂きにしてこの場所に埋めて行かなきゃならない」
 カイの唇が動く。音として吐き出されることはなかったが、物騒なことを、とつぶやいたのが見て取れる。だが李は真摯で、できることならそれは回避したいと考えていた。すがるように凝視する目線に現れていたのか、カイはやがて諾と頷いた。
「こんなところで捨てられるのはご免だ」
 よかった、と心底感じた。
「俺もカイの返り血なんて浴びたくはない」
 そして、手を差し伸べる。何事かと体の前に伸びたそれと李を口語に見つめ目的を尋ねられた。意味がわからない、と。
「この崖だからな。おまえを抱いて登って行く」
 途端、カイの表情に緊張が走った。硬直、というより明らかな怒り。どれに反応したのかは、火を見るより明らか。次に続く台詞は恐らく。
「ふざけるな」
 やっぱりな、と李は眉をへの字に垂れる。困ったというよりは、どうにもならないという観だ。同じ男をわざわざ抱いていかなければならないことをあまり丁寧とは程遠い口調で説明する。
「本当は虎の姿で駆け上がりたいんだが、いつでも好きなときになれるわけじゃなくてな。仕方がないからこのままおぶって登ることにする」
 大丈夫だ、落としたりしない、と付け加えると、何か言いたげに口を開きかけそしてやめた。多分、読みが外れていなければカイは馬鹿か、と呟いた。相手に、というより、自身に対してだろう。それほど衝撃を受けるようなことだったか、と心中苦笑いをして李はさあ、と催促した。広げられた両腕にしばし黙考して、カイは唐突に腕を首に回した。
 ただ、片方だけ。
「崖登りくらい俺にも心得がある。おまえに任せるのは不安だ」
 二人で登るのも危険だろうと思いながら、李はカイの申し出を承諾することにした。自分の力量から言えば、本当に抱き上げて足だけで登れる自信があったのだが、相手の気持ちも汲み取っての行動だった。それに、カイにも根拠があるのだろう。心得と言うくらいなら。
「とりあえず、落ちたら死ぬからな」
 脅しではなく、事実。
「安心しろ。貴様を蹴落としても俺は落ちたりしない」
 本当にやりかねない口振りに乾いた笑いを残し、二人は二人三脚で岩山を制覇しにかかった。登り始め、カイの腰に回した手に力が入る。
 鍛えているけれど、確かに細いな。
 女の細腰などまだ知らないが、確かに人よりもくびれたような印象が苦笑いをさらに深める。密かな驚きに遅まきながら生じた邪念を無意識に振り払い岩の突起の一つに足をかける。
 腹が減ったな、と一言洩らし、間近に迫った朝餉の匂いに引かれるように掴んだ腕に力を込めた。

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