長話
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「カイ、…カイ!」 聞こえているのかいないのか、歩く姿に変化なし。こちらが少しは駆け足をしているのだが一向に差が縮まらない。というか、相手に距離を詰めさせる気がないだけの話だろう。 意地が悪いなあ。 思わず声に出しかけたところでくるりと反転される。苦々しい表情。 「ここの連中は、どいつもこいつも他人不干渉の心得くらいはないのか…!」 振り向き様に受けた罵声は生まれて初めて。それが単なる八つ当たりというのが甚だもって迷惑千万。 「そうじゃなくて、朝飯食わないのか」 まだ大分二人の間には距離があったので声を張り上げる。村にある小さな丘へ続く入口。人目は少ない。 「食わん!」 金輪際口を利く気もないとばかりに吐き出し際、またも顔をそむける。完全にお冠だということはわかるのだが、全部が全部、カイの激昂の理由が自分にあるわけではないのだから、李もそのまま易々と取り逃がしたりはしない。 しばらく言葉もなく。怒りに任せた鬼ごっこ。 どちらかが妥協すれば自然と消滅する児戯。 やがて追う側の李が、何の前触れもなく突然膝を折った。 草の上にうずくまり、動かなくなる。ついてくる気配がなくなったのを怪訝に思った視線が、ちらりと後ろを一瞥する。そこに呼吸を荒げ、片手で荷物を抱えたまま片腕を地面についた姿を認め、息を呑む。ざらりと落ちた前髪の隙間から額の汗が流れ落ちるのが見えた。 尋常ではない相手の苦痛の状態と、声にならない苦渋。 「か、体が…」 くぐもった悲鳴に、すぐさま地面を蹴る音が耳に届いた。あっという間に駆け寄り、その肩を掴む。目を見張るような素早さだった。懸念したような、叫び。 「おい、しっかりしろ!」 双眸は真摯で、表情は強張りさえ見せ。力強い指先が双肩に食い込む。痛覚はない。安心感さえそこにはあった。李の身を案じ、何とかしようとする意思が、頭上に輝く静かな紅い色に反映する。驚いた。 「嘘だ」 顔を上げ、猿芝居だったと種を明かす。半ば呆然と。もっと冗談めかして終止符を打つはずだったのに、完全に気勢を殺がれた形になってしまった。 別に体は健康そのもので、空腹が辛くはあったが今まで大病を患ったこともない。ちっともこちらのことを意に介さないカイに業を煮やしての最終手段。まさかそこまで本気で心配するとは思わなかった。 台詞を言い終えた後の半開きの唇が、次に何と声をかけるべきか惑い、瞳に宿る光とともに揺れていた。見過ごすわけがない。そんな、鮮やかな変異。捉えたことに対するおのれの全神経への感謝と、カイへの釈明。騙したことは否めない。気を引きたくて、患った振りをした。 悪ふざけが過ぎてまた怒鳴り散らされることを覚悟した瞬間、期待を裏切りカイは声を立てて笑い出した。あまりに明瞭な笑い声だった。側で聞いた李の方が、何事かといぶかしみさえするほど屈託のない笑い。 肩から手を放し、腹を抱えてまだ細い体躯を揺らす。顔を隠すように屈みこんだ相手の後頭部見下ろしながら、それでも表情が気になった。片膝を立て、覗き込む。慎重に、これ以上カイに刺激を与えぬようひっそり。 細められた眼に涙が浮かんでいたことで、李の危惧は去った。愉快だという反応なら問題ない。あとから舌打ちされても文句は言えないが、とりあえず許容範囲の中か。こんな些細な戯れごときで嫌いだとのレッテルを貼られては悔やむに悔やめない。ひとまず最悪な事態は免れたかと胸をなでおろし思わず浮かんでくる苦笑に頬の筋肉が倣おうとした刹那。 声が降った。鼓膜に。視界の奥に。 カイの一言がまたしても現実につなぎとめた。 「馬鹿か」 滲んだ涙の深く。宿す影が一層深みを増して。 まさか自分の中にこんな人間味溢れるような衝動を興すものがあったのかとそれに対する驚きと、明らかな自嘲。カイの笑いはそうだった。あまりに惨めで、やる方ない笑みが他にあっただろうか。先ほどまで確かに、本当に純粋な感情だと思えたのに。 呟く。昏い、吐息。 「馬鹿か。俺は」 すまない、とか、悪かったとか。謝辞すら挟む余地がなかった。 そこにははっきりとした孤独が巣食っていて、誰にも解き放たれることを待たず、佇んでいる。手が出せない。今は。少なくともこの瞬間には。明確に陰影を分かつ、自身と他者の位置を侵し難く感じた。 カイには底がない。 見えているのに、遠い。 近付いていはいけないと戒めるように。 眼に映るのは、果てのない永劫。 |
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