■ Beyblade ■
長話 ■

 丘陵の端。木陰の下で足を伸ばす。良い天気だった。晴れ渡る空。すっぽりとそこだけ抜け落ちたように、穿たれた穴から光が遠慮会釈もなく降り注いでくる。こんなときひなたでねそべるのは阿呆だ。焼け焦げる。緑のベールに守られてこその快適。青の天蓋。高い峰峰が柱だつ光景。知らぬ者が見たら、別世界だと評すだろう。
 俗世とかけ離れている、というんだろうな。
 ただ、その住人にはそういった感動は薄い。ここが生きる場所で、追いやられることも引き剥がされることもない。自然という名前の城塞に守られている。
 感謝は日毎一定の範囲でなされているが、とりたてて大きな感慨はない。
 満たされていると思う。満ち満ちて、他に必要がないとさえ思える、慢心。だから体内にさながら絶壁でもあるのではなかろうかと思える他者を認識すると戸惑う。いや、引かれる。なぜだとか、ありふれた疑問を抜きにすれば沸きあがってくるのは非難や中傷。他人と自我を比較することで生じるものなどその程度のものだ。崇高なものはそこにはない。だから本当はしてはいけないことなのだ。包みこむように思うのではなく、真上から見下ろすように、横目で窺うように相手をなんとか自分の尺度で評そうと躍起になるのは。
 修行が足りないぞ、金李。
 眼下に置かれた食物。食欲などとうに限界に来ているのに意気が感じられない。馬鹿げたことに、カイを笑わせてしまったことへ滲み出るのは悔恨。覗きこもうと思っていた相手の内部を自分は誤ってえぐってしまったのではと懸念する。無理もない、のではなく、大げさな思考回路だった。実際、どうかしている。
 このまま村の小さな寺院にでも出かけようか。そんなことまで考え、視界に投げ出された果物と葛藤する。結局、生理的欲求と神聖な精神とのせめぎあいが繰り広げられての沈黙。わずかに間を空けて隣に腰を落ち着けているカイには知らぬ煩悶だった。
 目の前に枷付きの手が伸び、李が注視していたまだ青い果実を拾う。
「食わないのか」
 現金なことに首は忠実に返答を返す。二度振る。横に。そして決定打。
「貴様の腹の虫がうるさいぞ」
「食う」
 やはり考える頭は今はどこかへ置いておこう。しまえる代物ではないが、どうにもあらがいきれない。そういう生態。間断なく実行に移す。あまり品が良い摂食の仕方ではないが、そのままむしゃぶりつく。カイはぶつりぶつりと遅い咀嚼を繰り返す。妙にリアルだった。先のことに関して何か思惑があるのだろうか。双眸は食べることに集中しているわけではないようだ。やはり、ここは。

「すまない、カイ」
 胡座をかいたまま両膝を掴んでこうべを垂れる。片手には太い腸詰を持ったままだったが、体裁を気にしている場合ではない。少なくとも、その時だけは。
 やけにゆっくり、相手の視線が注がれる。次いで、台詞。
「言う意味がわからん」
 謝罪の目的格。主格かもしれない。
「俺はカイを傷つけるつもりじゃなかった」
「俺は貴様に『傷つけ』られた覚えはない」
 はっきりとした口調。余談のない会話。矢継ぎ早に応答が帰るので、怒っていると思った。ますます恐縮が募る。握った拳の下に汗が滲む。顔を上げられず息を呑む。いやだ、と。このまま嫌われるのはご免だと理性が答えをはじく。
「俺はカイを知りたかったが、あんな顔をさせるつもりはなかった」
 だから。
 今度はカイが押し黙った。どこを拾うべきか考えあぐねるように、眉間の皺が縦に刻まれる。鼻の付け根にも若干。しかめっ面のまま、唇だけが開閉。
「俺を知りたいだと?」
 不機嫌な声が返った。もしかしなくても、地雷を踏んだだろうか。さっと青ざめる。大して相手の人となりを理解しているつもりはなかったのだが、下手に自身を詮索されることを厭うのは短い間にもわかっていたことだった。プライドの高さというか、傲慢さがそこにはある。
「つけあがるなよ」
 吐き捨てるように続く言葉。予期していたものだったが、かっと頭に血が昇った。下手に出つづけて事無きを終えたことなど一度もない。自慢することではなかったが、本来我の強い方だった。でなければ人の中心に居座ることなどできはしない。主張する『自分』にはある程度自信がある。それを否定されることを見過ごせるほど、視野は広くなかった。昂ぶった先の展開など考えもしない。
「思いあがっているのはどっちだ」
 面と向かって叩きつける。珍しく頭に来た。無理な忍耐が祟ったのかどうかは今までを振りかえってみなければわからなかったが、こうなれば子どもの喧嘩だ。大人ぶったものなど何一つ存在しない。ただ、売り言葉に買い言葉。買いの一手に徹しなかったカイの器量が見えた気がした。同時に気を荒げることが如何に不毛であるか、躾られてでもいるかのように口をつぐんだ。言い分を聞いてやる、と。
「カイにはわからないことが多すぎる。知りたくても聞いてはいけないんじゃないかと、俺は随分気にかけたんだぞ」
 強張ったように張り詰めた顔を見たくなかった。もっと自由に動かせただろう瞳の表情の強弱。険しさだけではない何かを持って、持って生まれているべきだろうそれを見たかった。すればいい。ああ、すればいいのさ。なんでそこでためらわなきゃならない。何がおまえをそうさせてるんだ。知りたくはないが気になる。わかる必要もないのに、わけもなく焦りを覚える。こんな、こんな馬鹿げた話があっただろうか。一方的な憤り。それはすべて、単なる自身の興味でしかなかったのに。わかっているから性急に息を詰めた。これ以上喚いて、余計な恥まで掻きたくないと自己防衛が暴走を阻んだ。どうやらそう簡単には化けの皮が剥がされないように出来ているらしい。感謝しなければならないだろうさ。存外お硬く真面目な気性であることを、生んだ親か育ての師に深深と頭を下げて。
 暴発したものを自分の思考の中でどうにか受け流すように、ぐるぐると渦巻いているものを処理せんと詰めた息を吐き出した。激情のいなし方なら心得ている。平素の呼吸を思い出し、それに体が倣えばいい。おのずと思考も引きずられ、普段の冷静さを取り戻せる。沈着すれば、さらに後悔がその身に積まされることになるだろうが。 
「すまん。勝手な言い分だ」
 わずかに恥じて、唇を噛んだ。すべて受けとめて相手の目が細められる。
「わかっているなら、もういい」
 正当性を主張しようと、いわばヒステリーだ。一方がまともに受けなければ喧嘩とは言えない。いつか逆にたしなめる役になってやると復讐さえ誓うほど惨めなものだった。悔しい。今まで他人に不満を爆発させたことなど多くはない。それも、ものわかりのいい大人に限られている。その都度諭されもし、励まされもした。素直に感謝した。目上の者に教え説かれることは屈辱ではない。年老いた者がどれだけ貴重な知識を与えてくれるかわかりきっているから、おのれの未熟さを痛感することがあっても苦ではない。
 なのに、これではあまりにカイと自分との落差という『距離』を認識させられるようで、また新たな怒りすら呼び起こしそうだった。対等であるのが当たり前だと錯覚した驕者には相応の末路か。
 握った拳が小刻みに震えているのに気づいているのか、風に揺られてさまよっていた布を首裏にばさりと退ける。眼前には憤然とした相手の表情があった。
「だったら俺も貴様に言わせてもらうが、虎になれることをどうしてもっと説明しない。俺が相手じゃなかったら確実にどこかのイカレた研究所に売り飛ばされてるぞ」
 え。
 驚愕が、次に喜悦に変わる。
 受けとめてそれで終止符が打たれるはずだった騒ぎに、最後でカイが乗ってきたことに対する、したたかな歓喜。
「だって、カイは言わないだろ」
 思ったことを口にする。正体を密告するような卑屈な人間ではないと。
「貴様の理屈はどこかおかしいぞ」
 憮然と機嫌の悪い声が返る。無条件の信頼が、底冷えするほどカイには理解しがたいものらしい。おかしいと言われても、自分の勘だから仕方ない。それこそ相手が指摘する根拠のない理由でしかないのだろうが。
 聞く振りをして、本当は真っ向から受けて立っていたという事実に、自然笑みがこぼれる。賢者は当事者にはなりきらない。絶対に遠くから物事を捉えて吟味し、双方に納得のいく解決策を提示する。カイは、大人びているがそれじゃない。無性に嬉しくさせる結末だった。
「カイはいい奴だな」
 機嫌良さげに眼をほころばせる。自分がまだ、相手と対等であることに素直に感謝し。これから先の成長などこの際無視した。必ず追いぬいて見せると内心豪語しながら。
「それは貴様に『都合の良い』奴だってことか」
 逆説に取るのはカイの性癖だろう。だが当たっているから否定はしない。
 もしおのれに都合の良いものだとしても、そんなものはよほど運が良くなければ巡り会えるものでもないと承知している。幸に恵まれている。実感する。知覚する。嬉しくなる。
「ああ、そうだ」
 にやり、と今度は隠すことなく笑って見せた。多分、カイの神経を逆撫でした。自覚はあるだけに手に負えない。それこそがこちらの強みでもあるように。
「すまん。俺はカイが好きだ」
 間違っても謝りながら言う台詞じゃないだろう。
 それでもわかってほしい。相手を尊重しこそすれ、譲れない思いが確かにある。カイにとって害でしかないかもしれない感情でも、好意だとわかってほしい。到底その思念の末端も汲み取れない者にとっては、突拍子もないことこの上ないだろうが。忌々しげに、カイが表情を歪める。そんな顔をされても、認めてしまったのだから宣戦布告する他ない。
 理解した。これは理屈ではないのだと。
 清しい気持ちが何よりの証拠だ。
「本当に、すまない」
 駄目押しの一発に、相手は舌打ちもせず顔をそむけた。

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