■ Beyblade ■
長話 ■

 夜着はとりあえずあるものを。上等ではないから肌に合わないと嫌がられるかもしれなかったが、ないものはないと主張すれば折れてくれるだろう。カイは無理を通すような無知ではない。暴君、との印象はあるがひとまず賢君の類。とはいえ、古来よりそれらは紙一重と思われてきた。古の大国の王よろしく。賢明なる君主と崇められてきた者が、一夜のうちに人倫を踏みしだく暴虐の限りを尽くした例などいくらでもある。理由など、知ったところで彼らの悪行のフォローにはならない。結末がすべてだと、害を被った人心は思う。でも。
 カイが悪い王様になってもいいさ。
 そのときは自分が止めよう。
 悪徳を広めた君主には止めることのできる身近な存在がいなかったのだ。らが滅んだのは、諭す者さえ侍らせられなかった王の自業自得。憐れだとの感慨はない。殺されたのは、例え血はつながっていなくても同国という身内だ。王がたとえそこの出身者であっても。
 なぜか浮かんできたその例えに薄く笑いを忍ばせて、井戸の周りで体を拭う姿に視線を向ける。夜中、人の家の灯りも絞られている時間に姿形を知覚するのは至難だ。無論、人間には。夜目が利く自分にはあまり関わりのないことだった。
 都会などの人工的な灯りの場所しか知らない者は、真の暗闇に本能的な恐怖を抱く。慣れてしまえばどうということもないのに。見えざるものに怯えるというが、李に言わせれば自分の姿が見えている状況の方が空恐ろしい。格好の標的になるだろうし、獲物を狙う場面では邪魔なだけだ。むしろ、窮地に陥る。餌を一向に捕まえられないでいたら、目の前に迫るのは本当の死だけだ。そんな真似を好んでするのだから、人間はほとほとおかしな存在だと思う。華々しい文明の推移を自身の進化なのだと胸を張るが、反面、いや、それ以上に不便を強いられていることがわからないのだろうか。
 そんなことは確かにどうでもいい、まさに他人事ではあったが、わずか十数年だけだとしても、彼らを眺めてきてその不思議は尽きない。
 カイは面には出さないのか、真っ暗闇に動じることはなかった。一瞬手探りでもわからなさそうな村の夜の景色に、ぎょ、としたようだったが、それ以後露ほどの動揺も見せない。闇夜に慣れているのか?と問えば、慣れていないと。ならばただの強がりなのか。
「闇は知ってる。深さまでは知らないが、そいつがどれだけ意味のないものかも」
 ないものだと思いたかったのではないだろうか。
 口調に、ふとそんな印象を覚えた。カイの知るその”闇”とは、近くにあって自らを苛んでいたもの。戦っていたのではないだろうか、迫り来る、自分の知らないものと。
 つい、それ以上突っ込んでしまいそうになって頭を振った。
 正体の知れた好奇が、また”理想”と葛藤を始める。無様な真似はよそうと欲求と理性がせめぎ合う様こそが不恰好この上ないことであるだろうに。
「カイ、寝着だ」
 物思いから逃れようと一歩踏み出す。ほのかに浮かび上がる肢体の前に。無言で渡されたものを受け取る手を見る。はずされることのない枷が傾きに倣って滑る。良くないもの。自分でそう評したが、一番強く思っているのは自身だ。カイを縛る悪い奴。
 目線を心持ち上に上げれば、首根にも、大分余裕のある大きさだったが、手首にあてがわれたのと同色の鈍い光沢が光っている。今まで人目を避けて、白い布の内側で鎖骨を傷つけていたもの。手と足と首をどこかへ縫いとめるように施された戒め。まるで罪人だ。
 視線に宿っていたものを咎められ、思わず口を滑らせる。浮かんだ言葉そのままを。罪、の文字に皮肉な笑みが薄く拓かれる。自嘲を含んだような表情は好きじゃなかった。カイを傷つけていることを実感するから。原因はもっと別にあるのだろう。いるのにわからない、見えぬ”敵”に憎しみすら覚える。
「誰が、裁かれるのをわざわざ待ったりするか」
 主導権は自分自身にあると主張する。断罪されるのも、逃れるのも、すべて自らの意思だと。らしいな、と思うと同時に沸き起こるのは、なぜ。重金属をはめられる理由はどこにあるのだと。視界に映る細く伸びた四肢。肉付きも良く、鍛え上げられていることが淡い陰影からも知れる。鋼というにはまだ幼さのある皮膚。ほの白くて、とてもじゃないが美味そうには見えない。冷たい、という感想を受けるわけではなかったが、変化に乏しそうな表情のない彩り。自分のはっきりした血色の良い肌と比べると、お世辞にも健康的とは言えない風情だ。子どもも大人も、内面の患いや健やかさが表面に出る構造は同じ。カイは自分とは対照的だった。抱えているものが健全であるかそうでないかは一目瞭然。踏みこんでいいのだろうか、その、深部へ。
 けれど、今なら明確に思う。カイに害を為すものは、例えどんなものであろうと排除してやりたい。恩着せがましい思いからではなく、率直にそうしたい。戒めが、強がりながらもあてがわれているカイ自身にはどうすることもできないものであるなら。
「俺が噛み砕いてやりたい」
 その、固くて重い金属。願わくば、それに連なる諸々までも。
 本音が洩れた。中身を解すまでやけにゆっくりと時間は流れ。刻むリズムが窺えるように、スローモーションでカイの目が見開かれた。驚き。驚嘆。声もない、噤まれた口元のままで。だがすぐさま、冗談め化した冷笑に変わる。
「やめておけ。自慢の牙が砕けるぞ」
「試してみるか?」
 ざ、と草を踏む。前に進んだ動きに喉が鳴った。伊達や酔狂で本心は語らない。それを証明すべく、一歩。
「やめろ」
 今度は、明らかな拒絶。
 わかってる。自分は暴走しかけてる。また、カイを追い詰める。
 足を引いた。距離を詰めようと踏み出したものを退かせる。はっきりとした制止によって幾分焦りは去ったに見えたが、昂ぶりはまだ内側にある。頭上よりももっと、奥深く熾烈を極める自我の中に。突然取った無礼に謝罪もないまま、止めていた息を吐いた。
「こんな思いを患ったことがないから、どうしても」
 どうにもならない、と。
 弁解。悔恨。惨めさだけが募る。
 好意を持っていると宣言したときはあれほど晴れやかだったのに。なんでだろう。こんなどろどろとした思いは。綺麗も汚いも、出所は自分以外の何者でもありはしないのに。嫌悪し、恥じる。師に誤りを正されたときよりもずっと悔しい。
「そうじゃない、レイ」
 なおざりではない、真摯な声。瞬間、どきりと心臓が引き締まった。怯えによる衝動ではない。虚を突かれた、どちらかといえば喜ばしい類いのインパクト。眼差しは静かだが力強く、闇夜の中、おのれを見つめ返してくる。そこが好きだ。そんな、強いカイが。
「俺に関わるとおまえが不幸になると言っている」
 眉を寄せ、不可解な顔をする。だって、そうだろう。不幸ってなんだ。カイといることで幸福から遠ざけられるというのはなぜだ。間違いだ。正しくない。
「買い被りだ」
 即座に否定される。自惚れるつもりがない、のではなく、身を案じる気配。カイが、俺を。自分をただ一人の君主か何かと思っている、それも含めて好意に思っている、カイが。
 沸きあがるのは、どうしようもないほど、膨大で際限がない思い。喜悦であり、哀しみであり、寛容さ。許しと妄執と欲求。全部、全部だ。
「俺はいつまでもおまえと一緒にいられるわけじゃない」
 勘違いするな、と。語尾はほとんど悲鳴に近かった。
 そんなのは知ってる。誰だって永遠じゃない。どちらかが先に逝って、取り残されるなど当たり前だ。天命に、決め事などできない。だけじゃない。それに限らず、すべてにおいて、万象でもないただの身が定められることなど。
「永遠は望まない。カイといられればそれでいい」
 そっと、伸ばした先にある温もりを包み込む。掌でかごめられた空間。夜風に吹かれていた体を温めるように。両手で包まれた拳に力を込めて、カイが苦渋の色を刷く。険しく寄った眉間に、物言いたげに歪む唇。拒否を口に上らせることもできないのか、ためらわれるのか、その内面など知る由もないが。
 近付けた顔を避けもしない耳元に、音のない言葉を落とす。
 とてもとても、側にいたい。
 思いだけが伝われと。
 口付けた眦は、なぜか汐の香りがした。

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