■ Beyblade ■
長話 ■

 村のふもと側に、大きな屋敷がある。
 李たち牙族の長老が住む建物で、中には広い修練場が設けられていた。心身の鍛練が主な目的だが、部屋の内部では読み書きと歴史を中心とした学問を学ぶこともできる。最低限、生活に支障ない程度の学力を得た後は、勉強とそれ以外の修行のいずれか好きな方を選んで構わない。自由放任が長老の方針で、食料の調達や畑仕事を終えた者のほとんどが日々ここで技の体得に勤しんでいる。
 齢12を数え、年長組に部類される李はライ・マオ兄妹とともに子どもたちの指導に精を出していた。基本的な型を覚えさせ、それを繰り返させる。正確な呼吸を覚えなければ、反復運動を繰り返すうちに関節などに余計な負担を強いるからだ。入念に一人一人、体術の基本形をマスターさせ、動作を逐一観察する。抜きん出た才能を発揮する者には次の型を教え、修得が遅い者には相応の手ほどきをする。単調な仕事だったが、一瞬たりと気を抜けない作業でもある。時として誤って大怪我をする者もいれば、手合わせの時、勝敗が気に入らないことが原因で、彼らの間に不和の種を作ってしまうことも少なくない。取り成し役は常に彼ら年長者だ。まだ自らも修行の途中あるというのに村の指導的役割に従事しつつ、少年たちの育成責任者としても奔走しなければならないために、二重、三重苦に陥っているのが現実だ。だが、誰一人として弱音は吐かない。
 通念ならば遊びたい盛りであろうに、自身の役目を担っている上は、それを放棄しようという考えは起きなかった。頻繁に仲違いする彼らの生徒に関して愚痴を洩らす者も時にはいたが、責任を放棄しようということはしなかった。問題があれば歳の近い者同士で相談し、解決法を模索する。彼らは少年ながらに、村を支える学校の教官でもあった。
 若年層だけが住む村。14になれば大人の仲間入りをして村を出る。別社会で活躍するためであり、伴侶を探す目的のためでもある。20代半ばまでしか生きられぬのは牙族の宿命。自身の血を絶やさないために、愛してくれる誰かを探す。一族の栄華繁栄のためではなく、生まれ出でた者として自然に働く思念。好く相手を見つけ、愛される相手を手にし、子を育む。そのことに疑念を抱くとしたら、余程のへそ曲がりか頭でっかちな偏屈の類いだ。これだけ村で伸び伸びと自由を与えられて育ちながら、社会悪とも呼べるそれらを身につけたのだとしたら、その要素がどこから来たものか首を傾げてしまう。
 性善説を唱える李には、純粋と程遠い思考を持つ者を昔からどうしても理解できない。
 どうしてわざわざ自分を”汚す”のか、貶めるのか。そんなにきれいなのに。罪だ、とまでは思わないけれど、それはひどく悲しいことだと思った。
 そう考える自分が特別なのか。いや、違う。
 俺たちが汚れていないんじゃない。みんな、同じに綺麗なんだ。
 そこから目を逸らすか、偽るか。人の出来方などどれも安直。すべては自己との対決だと思う。甘やかせば芯のない人間に育つし、厳しければ寛容さに欠く。他者に依存しすぎれば”個”をなくし、おのれを誇張すれば独裁に染まる。
 老荘思想は自然たれ、と人々に説くが、”自然”とは何も考えず過ごすことではなく『自然(じねん)』、と解釈する。すなわち、『然るべきおのれ』。何かに固執することなく手に入れられる”自身”こそ、本当の自分なのだということ。虚飾も見栄も脱ぎ捨てた、本来の姿がその思想の根本にはある。
 だが理屈として理解していても、現実にそれを果たしているかと問われれば、まだ修行中の身だと答えるしかない。根源にして究極の姿に立ちかえる、というのは、日々の積み重ねではなく心のあり方。気構えはある程度は修練で身につくが、目指すべき高みは意識しなくとも備わる姿勢だ。大なり小なりまだ物事に動揺を感じる自分には、程遠い”真理”の境地である。
 正拳を突き出す動作を声を出しつつ繰り返す少年たちの中に、色素の薄い頭が浮かぶ。黒い草原から抜け出したような、長身。正体を見極めて、ぱっと表情が明るくなった。目元だけで表した喜びの感情だったのだが、隣にいた少女は目ざとくそれを見つけたようだ。李が声をかける前に、子どもたちの列を割って、いきなり現れた珍客を引っ張り出す。
「鍛練の邪魔になるだろ。突っ立っていられちゃ迷惑だよ!」
 辛辣な物言いだが、言っていることは間違っていない。承知しているのか、カイの表情に変化はなかった。列から抜け出し、指導している李たちのいる上座へ、マオに手を引かれて移動する。
「戦士の卵、か?」
 挨拶の一つもなく、台の上に上がり、メンバーの顔を見比べる。ここに来た目的があったわけではなく、ふらりと立ち寄っただけなのだということは振るまいからして容易に知れた。随分村に馴染んでいるようで、李は素直に苦笑した。カイが鬱屈したものから解放されているなら、それで良い、と。
 背丈が頭一つ分くらい小さな子どもたちの群れを眺め、呟く。蔑みも自嘲もない、カイが目にしたままの率直な感想だろう。
「ああ。あと2年もすれば、俺たち年長組の立派な後釜に
 なってくれる」
 誇らしげに胸を張り、一心不乱に300回に及ぶ反復運動をこなす少年たちを一瞥する。彼らが一人前になるその頃には、自分もこの村を出ているかもしれない。不確定な未来ではあるが、子どもたちの成長が日に日に実感を強くする。時の流れを直に感じるということは、縮んでゆくおのれの寿命も知ることになる。役目を次に託すことには、若干の寂しさも付随した。
「辛くないのか、おまえたち」
 不意にもたらされた台詞は、李だけではなく牙族全体に及んでいた。一瞬誰もが不思議に思い、カイの言葉に隠されている意味を測り兼ねた。
「だって、あたいら昔からこうしてきたしさ」
 先に口火を切ったのは、マオ。やはり自己主張の激しい女の子らしく、ふんとふんぞり返って相手を見下ろす。それだけで、牙族というものに自信と誇りを持っていることが窺える。そして、次に続くのはライ。
「そう考えるのは愚問だな。現に俺たちはここで生きているんだからな」
 生命が燃え盛っている限りは、それに抗うことはしない。無駄な殺生や疑問で自らの生きる道を歪ませることは愚かなことだと信じきっている口調。思いこみの激しさではなく、はっきりとした自覚がそう断言させていた。
「辛くないといったら嘘になるが、俺はそれでもいいと思っている」
 最後の台詞に、少しだけカイの眉根が動いた。ぴくり、とわずかに振れ、瞳が上を向く。無論、吐き出した答えの主を前にしての微動だ。最後の台詞を吐いた李に対しての。
 答えは三人三様だったが、現状に異を唱えることはなかった。外部の者にとって彼らが短命で、隔てられた人種であり、人知れず隠れた生を生きていようと、それは内部の者たちにとって『不幸』と認識すべき事柄ではない。その事実を目の当たりにして興るものといえば、醜い僻目か。
 寄せられた眉間が、表情全体を陰湿にしていることに気づき、マオが心配げに近寄る。覗きこむように顔を近づければ、紅い視線が逸らされた。まるで触れてはならない氷のような印象に、少女もそれ以上追及できずに留まる。
 辛いのはカイか。
 本当に苦しんでいるのは、ここではカイ一人なのか。
 前触れもなく思い浮かんだ、眼前の少年を包んでいる”現実”に、李は無意識に声を放っていた。
「カイも、俺たちの一族になればいい」
 そうすれば辛いなんて思わずに済む。何がカイを責めたてているのかは知らないが、立ち向かう意味でも『仲間』を手に入れても良いのではないか。そうすれば、少なくとも一人だけで頑張らなければならないという責任がいくらか軽くなるはずだ。完全に背負う者を他人に転嫁はできないが、困難に向かう思いを強くすることは可能だ。そして、その勇気をくれる。
 仲間がいるのだという思いだけで。
「そうだな、やり直すということも出来るぞ。もし、その意思があるのなら」
 ライも腕を組んだまま横目で視線を送り、李の弁を擁護する。事情を知らないはずだったが、李が味方をしている理由を幼年の頃からの付き合いゆえに、動向をある程度察した風だ。自由気ままで、決して節介焼きではない兄弟が励まそうとするには相応の内情があるのだと。
 カイを牙族に仲間入りさせようと盛りあがる男たちの中、マオは心中穏やかではなかった。何でよりにもよって自分の嫌いな奴を仲間にしなくちゃならないのか。しかも、何を考えているのかさっぱりわからないような奴なんかを。
 だが、李の優しさを誰よりも知っているから、正面から反対はしない。嫌だけれど、李が言うなら。
「あ、あたいはおまえなんかどうでもいいけど、李やライ兄が言うなら村の連中に加えてやってもいいよ」
 精一杯、自分は相手に興味がないということを注釈づけながら言い放つ。好意を持っていないのに、つけあがらせるのは癪だからだ。
 親切にしたいのだが、好きでもない奴をフォローするのはご免だという本音が意に反して表情に出ることに四苦八苦しつつ、マオはぷい、とそっぽを向く。カイは静かにそれを見つめていたが、口元に浮かんだのは、やはり自嘲。見慣れていなければ、こちらを馬鹿にしたような態度だ。好意を抱かぬ者に敏感に反応するマオだけは、明らかなカイの嘲りを目の当たりにして憤慨を隠せなかった。
「なんで笑ってるのさ!」
 タイミングが悪いというか、相性が最悪なのか。尊敬する兄や李の誠意を無碍にされたと思いこみ、容赦なく襟首を掴んだ。ライが止めようとするのも構わず、ねじり上げる。背丈はカイの方が上だが、動作は少女の方が俊敏だった。
「ライ兄たちに謝りな、カイ!」
「マオ!」
 何事かと、訓練に打ちこんでいた少年たちの視線が一斉に前方の人だかりに注がれる。兄の制止を振りきるように、再度マオは叫んだ。
「せっかく二人があんたのためを思って言ったのに」
「よさないか、マオ!」
 次に来るだろうカイの台詞を予測して、李は反射的に目を瞑った。
「頼んだ覚えはない」
 耳にしたマオの握った拳が、空を切って襲いかかる。
 瞬間、白い額が輝きを放ち、加速した正拳を捕えて側にいたライに体ごと叩きつけた。放っただけなのだろうが、尋常な力ではなかったことが兄の腕の中で脱力した少女からも容易に察された。
 途端、周囲にざわりと殺気が走る。
 客人だからといって、仲間であるマオに危害を加えたことに対して、怒りの波動がみなぎる。不穏な表情でにじり寄るように彼らが距離を詰めてくる中をカイは暗い面持ちでそれらを視界の端に捉えていた。そこには敵意も悪意も、そして怯えすらない。集団心理に物怖じすることなく、事実をただ受け入れているようだった。
 ライも口を閉ざしたままカイを睨みつけていたが、反抗を宿した者の目線ではない。成り行きがかなり互いの深部にまで及ぶものであったことを本能的に嗅ぎ取った所以か、責めの手は、皆無。
 ライではない、もう一人もすなわち然り。
 不正を口々に質すように、ざわめきだす空気。
 その間を縫って、鋭い怒号が場内に響き渡った。
「静まれ…!」
 轟、と木々を揺るがすほどの凄まじい声量に、あらゆる人の動きが止まる。腹の底から張り上げた怒声。命令を下した先を振り返れば、き、と李が周囲を睨めつけて立っていた。
 仁王立ちのまま、腰の脇に据えられた掌は握られて、筋さえ浮かぶ。
 憤怒に近いものが、少年の鼻筋から眉間にかけて色を宿していた。
「先に手を出したのはマオだ。カイに非がないとは言わないが、争いは両成敗。異論のある者は今すぐここで名乗りをあげろ…!」
 李が一方ならぬ憤りを見せていることに、全員が固唾を飲む。
 ある一人に対して向けられたものではなく、全体を見据えての言。そこに、例外という抜け道は存在しない。
 事の仔細を釈明されぬまま呆然とする周囲にわき目も振らず、李はマオのところへ駈け寄った。波が引くように、静止を命じられた周りの人影が少年を取り巻くようにあとずさる。眠れぬ獅子ならぬ『臥虎』を起こした怖れからか、そこには次期指導者と目される者への畏敬すらあった。
「大丈夫か、マオ」
 伸ばした指を小さな白い額に当てて数秒、意識を手放していた少女の瞼が開いた。ほっと安堵する一同の中、義兄の顔を認めて何が起きたかを一瞬で理解する。言葉を話そうとして制される。主導権は、すでに少年にあった。
「カイに謝れ。弁解は聞かない」
 問答無用だと強い口調で命令する。他の追随を許さぬ、絶対的存在。今の李はまさにそれだった。風格、雰囲気、度量。すべてが族長の威厳として身に満ちている。否応は、ない。
「悪かったよ、カイ」
 仕方なく、ではなく、幾分悄然としたままマオは殴りかかった非を詫びた。無言で受けるカイは、そのことに関して何も口を開かない。頷きもなく、ただ少女を見守っていた。
 義妹の謝罪を確認し、おもむろに李が立ち上がる。
「カイ、おまえにも話がある」
 手を差し伸べ、道を促す。
 両成敗と宣言した手前、当然被害者でもあるカイにも咎がある。客分を大勢の目の前で叱責することは憚られると、場所を移動することを提案する。選択は正しいと、ライも頷きで肯定した。


 やがて二人が場を離れると、次々と仲間たちが倒れていたマオの側に駈け寄った。まだダメージから立ち直れないのか、普段の元気を取り戻せないでいる少女は、ぼつり、と隣の兄に力のない弱音を洩らした。
「あたい、カイに悪いことしたかな…」
「ああ」
 間断なく、ライは返した。余計な逡巡を見せれば、マオはまた自らを責めるだろうと見越しての対応だった。あらそい事に禍根を残さぬため、そして後悔という芽を早いうちに摘み取るため、責めは一瞬で終わらせる。つまずいたなら、立ち上がる勇気も同時に与えなくてはならない。
「だが、カイもわかっている」
 ぽん、と肩を叩かれ、少女は苦笑いをこぼした。
 泣き出しそうな、くしゃくしゃな笑み。
「そうだよね」

 その後、話を聞いて心配してやってきた仲間たちに、いちいち同じことを説明しなければならないという憂き目に遭い続け、マオがやはり畜生、とカイを恨まずにはいられなかったというのは余談だが。
 それでも、今回のことでマオにも李がカイに執心する理由も少しだけわかりかけた気がした。
 李兄は放っておけないんだ。
 なんとなく、そんな気がする。
 カイは苦しんで。そしてそれを、出せない。
 握った拳の先にぶつかった、熱のない掌を思い出して、少女はわずかに頭(こうべ)を垂れた。

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