■ Beyblade ■
長話 ■

 大きな机の椅子に座る男に、発言の本意を尋ねる。思わず、いた場所から一歩踏み出しかけていた。それほどの動揺。あり得ないと、脳が言葉を知覚した直後に判断した。大きく見開かれた目。普段であれば、滅多に拝むことの出来ない表情だったろう。驚愕のあまり、唇すら重力を忘れたようにその戒めを解いた。
「心外と言わざるを得ないね。6年近く付き添ってきて、まだ私のことを信用してくれていないとは」
 抜けぬけと。
 呆けた口は、いつのまにか片頬にひどい歪みをこさえ。
 引き吊れたように醜い形を露呈したまま、カイは昂ぶる心身を叱咤して畳みかけた。
「俺をここから出すだと?気でも違ったか」
 思わず皮肉が口を突いて出る。
 今までどれほど懇願しようと、領内だけしか自由に歩き回らせてくれなかったものを、今更外出の許可を出すなどと、正気を疑う。無論、わけありだということもすでに了解済み。裏なくしてこちらに都合の良い展開を、わざわざ相手が与えるはずがない。自分がいるのはそういう世界だ。向こうの性根を熟知しているがゆえに素直には踏みこめない。真意は当然、別のところにあるのだろう。そして本心を明かすか否かを、こちらの采配ごときでは促すどころか突きとめることすら不可能だということも。
 なぜなら、この狭い空間で対峙する相互の間には、どう足掻いても足りぬ、時間と経験という明瞭な垣根が存在しているからだ。どれほど聡明でも、実体験の少ない方があらゆる面で形成不利。そこらへんを歩いているような平凡な大人ならばやりこめる自信はあったが、大きな組織を牛耳っているような人間を意のままに操ることは、幼い身にはまだ無理だった。これから先のことなど知らないが、今の時点では勝率など無きに等しい。
「私はいつでも正常だよ。猜疑心に囚われているのは君の方じゃないのかい、カイ君」
 ”疑心”を悪魔の囁き、と男は評す。宗教者らしい、第三者的表現。
 優しい声が鼓膜に響く。口元の笑みが神経に障る。目元の皺さえ、憎悪を呼び起こす無礼者にしか映らない。
「よく言う…」
 やっとのことで嘲笑が、震えながら喉から表面へと滲み出てきた。平静を保てないのは、眼前にちらつかされた、自身の本懐が遂げられるかもしれないという期待感による武者震いだったのかもしれない。
 ずっとずっと。果てのない闇の中に思い描いていた、欲望の権化。
 野望、というには汚れすぎて、切望というには激し過ぎる。
 こんな、血も凍るような寒国で軟禁される屈辱を甘んじて受けていたのは、すべては手を伸ばした先にある忘れもしない面影のため。何を目的に泥をすすりながらも生き延びてきたのか、すでに男は理解している。いや、あるいはユーリすら、どこかで耳にしていたかもしれない。
 自分をこんな牢獄に押しこめた張本人。
 その人間の首を獲る。
 何度願い出ても許されなかったことを、今更許可すると言うのか。
「ここから出たら、俺は真っ先に奴を殺しに行くぞ」
 ゆっくりと深呼吸をしたまま、低く答える。動揺は去った。あるのは、くすぶる炎を身の内に宿した復讐者の怨念だけだ。双眸を彩る緋が、真昼の光に照らし出された室内で殊更鮮やかさを増す。と同時に、一瞬部屋の温度がわずかに上昇したようだった。か細いはずの肩から、全身にかけて立ち昇る黒塊の影。
「その件に関しては、我々は一切感知しない」
 おもむろに席を立ち、”院長”は背を向けた。少年の仇が彼らの支援者であることを承知しながら、ついには黙認しようというのか。その命を断たんと狙う刺客を前に。
「はっきり言ったらどうだ、ヴォルコフ」
 声を張り上げ、名を呼ぶ。
 男は肩越しに、にやりと笑ったようだった。凄惨な、そして歪みきった本心が見え隠れしたかのように、柔らかく収縮を繰り返す黒い瞳孔に捉えられる。
「君の望むままにさせてあげよう」
 手を貸すことはできないが。
 ヴォルコフの目元から上は、逆光で表情が窺えない。礼拝堂での説教のように、強い声がそのままの張りを持ってあとに続く。
「ただし」
 カツ、と。
「それに見合うだけの成果を挙げられれば」
 長い毛で覆われた黒い赤毛の絨毯の上。
 振りかえり見下ろす視線には、灰色の狂気が宿っていた。

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