■ Beyblade ■
長話 ■

 緑の色。青の色。
 それがただの色ではなく、光と影に彩られている、”生きた風景”。懐かしい、と思うのは、古き時代にそれに馴染みがあったからだ。遠く隔てられても、記憶が薄れても。風を忘れても。確かに手にしたという知覚から来る感覚を思い起こすことは、想像以上に容易であるらしい。
 拓けた景色。眼下に収めた景観。
 急な崖の上だというのに怖れを抱かないのは、視線が前方を捉えているからに他ならない。真下を臨むのは悪趣味だ。目を見張らせ、心を鷲掴む眺望を目の前に、興を削ぐような真似がどうしてできようか。
 天と地。この世に二つだけ。
 対になるものの狭間に。それに溶けこむように、自身がいる。錯覚する。この眺めすべてが、すでに自分のものであるかのように。

 前方を歩く影が振り向いた。
 長い毛髪の先が、地面すれすれで跳ねる。逆光ではあるが、見えない表情ではない。
 村の者たちとひと悶着やってしまったのだから、彼らの若き長として何かあるかと思ったが、裏切るようにしてそこには笑みが佇んでいた。
「気持ちがいい。今日は一段と風が心地よい」
 そう思わないか、と問われ閉口する。
 いきなり何を言ってやがると心中毒づいてみるものの、応答と取られたくないために、わざと口を噤む。やがて穏やかに向けられていた笑みは苦笑へと姿を変えた。
「カイは、怒ってもらいたそうだ」
 かすかな含みとともに洩れる。
 見透かされているようで思わず反論した。
「自惚れるな」
 貴様にそんな権限はない、と。
 責める口調がどこへ向けられたものか熟知した返答が返った。
「ああ。カイが一番自分を責めているからな」
 だから、改めて自分が諌める必要はない。
 李は断言した。それこそ、いやになるほど真摯で。屈託もなく。
 癪に障ると思う。何も知らないくせに、何の手がかりも得ていないくせに、堂々とした態度。どれほど威圧を込めて見据えても、動かしかねる心情。いや、動揺を起こせというならこれほど簡単な相手もいないだろう。なぜなら、奴は自分に何かしら感じ入っているらしいからだ。
 好意を持っている、と。
 心がこちらに傾いて、気にかけて、真実を露にしてしまうような油断があるのなら、たった眉一つ動かすだけで相手を陥れることも可能かもしれない。だが、悪意を潜めた行動を起こさせないのは。
 忌々しい、と舌打ちする。わかっている。自分は、思っている以上に人が好すぎるらしいことを。信頼を込められたら覆せない。もどかしい。自分はこんなに囚われている。無償の、優しさとかいう独り善がりなものに。
「カイ、俺たちは」
 不意にかけられる言葉。瞳孔だけを動かし、捉えた先には瞬きせず広がる金色の地平がある。
「俺たちはお互い、経験が足りない。だから、深め合って行けると思うんだ」
 何を。
 李の言わんとすることを飲みこむ。
 経験が足りない。功夫を積んでいない。
 時間が足りず、まだ若過ぎるということを言っているのか。だからこそ村の人間を含んだ自分たちは互いに補い合い、支え合って行けると。
 意味を取り違えていないことを確認すべく、相手の顎が下がる。頷き、李はまた口元の笑みを深くした。目も、頬も、表面全体で笑っている。あからさまではなく、届け、と念じるような強かさすら含んだ武器。当人は意識しているわけではないのだろう。自然と浮かぶ、自信のようなもの。絶対の確証。ああ、そうだろうさ。
 望まずとも手に入っている自由の空間。
 空間、ではない。この目に見えるすべてがそれだ。空ではなく、実際に触れられるものが、ある。手を伸ばして拳を作っても、ただ虚無を掴むだけに終わるのではない。踏みしめたものは陽光の温もりを一身に受けた土であり、天に伸ばした掌には透かされた血の色が浮き上がる。何をしなくても。ただ、いるだけで。
 明日などというものを顧みない。考えもしない。そうであれることの贅沢さ。知っている。わかっている。その物思いがただの僻みだということも。それでも。
 富む者は分けんとする。陽の当たらない者へ。自身の培われた才能を如何なく彼らのために発揮しようと。偶像であるその諸々を分け与えようと。確かに、その義務はある。そして、ない者は受く権利がある。李の立場が自分であっても恐らくそうするだろう。傲慢、且つ驕慢に。強制ではないにせよ、わが身のわが持ち物を少し削ったところで痛くも痒くもないと主張して。
「ああ」
 知っている。その優しさが当然のもので、与えられる自分も普遍的に許されるべき立場であることも。
 憎しみはある。妬みも、嫉妬も。だがそれだけでは終わらない。終わらせたくないと思うのは、なぜだろう。歪んだ口端を悟られまいと俯き、長い前髪の影に隠す。相手は見えない。見えたとしても気づかない振りをする。そういう、おかしなところで気を遣う、純朴さを持っているらしいから。
 自嘲が洩れる。自分はこんなにも、醜くひしゃげている。自覚のある憎しみは、目の前の存在にではなく、向けられるのは。
「もしそうなら、本当によかっただろうに」

 憎悪の矛先は。
 やはり、自分自身。

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