長話
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始まって数分でわかったことは、互いに一歩も引かぬ攻撃型であるということ。 所属する流派に依ることも多いかもしれないが、当人の気質によって”戦人”のタイプを分けることができる。 戦況の是非を判断し、その間ずっと反撃の隙がないかどうか窺いつつ攻撃に転じるタイプと、真っ向から勝負を挑んで問答無用で攻め倒す者。どちらが優位かという論は、実戦では一切されない。机上の論理ならば、スタミナを過度に消耗する攻めの一手に専念するのは長期的な視野から見れば愚策と取れるが、電光石火で勝敗を決することが可能ならば省エネルギーであるとの見解もあるからだ。ゆえに、どちらの型に依存していようとも、戦う本人たちには大した差異はない。言うなれば、より実戦を多く経験した者が勝敗の糸口を掴める、ということに尽きるかもしれない。 カイの思考の中では、却って同じようなタイプであればあるだけ戦いというものを楽しめるという理念がある。どんな手管で来るかわからないような相手より、真っ向勝負を挑んでくる者の方が好く。とはいえ、ここで感じる『やり易い』、という意味は、イコール『勝てる可能性が高い』、ということにはならないのが勝負事の妙ではあったが。最低でも、自分が好もしく思っていない部類でなかったことを戦う以前から肌で感じていたとはいえ、それを実感できたことを幸いに思った。 だが実際、不遜に腹の中で笑っていられるほど状況は芳しいものではなかった。 踏み出した一瞬で感じたこと。 強い。 幼少の頃より歳の数以上の功夫を積んできたのだろうその動きには、流れというか勢いがある。一つ一つの動作に無駄がなく、速く、そして重い。それは修練として身につけたのではなく、本当に李自身の体質に合ったものなのだと直感した。思わず防御に回らざるを得なかったのは、動き自体にこちらがついて行けないからだ。あるいは本場仕込みの気迫に、精神がどこかで尻込みをしていたのかもしれない。どちらにせよ、この攻撃をいつまでも両腕で受け続けることは不利だった。重さのある拳、というのは、それだけに厄介だ。 長期戦になれば、体力の消耗はこっちの方が早い。 寸分の誤差もなく動き続けられるということは、身体にかかる負担が少ないということだ。間を置かず攻め続けるのなら、いつかは相手に著しい体力の消耗が訪れるだろう。だが、その前に攻められている側の方がつぶれる。それだけ、防御に回った受ける側の負担が激しいということだ。 繰り出される攻撃の際、李の拳は独特の形をしていた。恐らく、これが世に聞く『虎拳』という流派のものなのだろうと推測する。 名前の通り、型は猛虎を模している。 両のかいなの先。指を内側に折り曲げ、親指から1、2、2の数に揃える。そのまま掌抵として繰り出すことも可能だが、本来は打撃ではなくその爪のように曲げられた指で、対象を抉るのだ。虎拳では、両手という部所が示す通り、虎のたくましい足に備わった鋭い爪だと思われがちだが、本来の例えは『顎』だ。爪と手は引っかくための武器だが、自然界では威嚇程度にしか役には立たない。そして、虎自身もそれを見越している。では、何が必殺の一撃になるかといえば、太い喉元から上に備えられている強固なあぎとだ。爪以上に太く生え揃った牙と、強靭な顎の力によって頚動脈にぶつりと歯を立てる。抉り取ることで、肉を引き裂き骨すらも切断するのだ。 虎拳とは、華国に数多ある拳法の中でももっとも残忍で、そして力に溢れる禁断の拳術と言われている。戦い方が獰猛で、野蛮だとの批判から、対面を気にしてか、好んでそれを身につける者は多くない。稀有な武術家のみが伝えるだけに留まった。 戦いというものが実践から離れ、芸術や健康維持のための手段として認識されるようになってからは、この拳法に対する崇高な意識は薄れ、記憶の底に追いやられることになったのだろう。古代皇帝に、その戦い振りがあまりに目を覆いたくなるものだとして、伝承を禁じられたとの言い伝えもあるほどだ。 両腕に次々と打撃による赤い痕が出来て行く。 間断なく技を繰り出しては押してくる者の目には、狂気にも似た闘争本能しかない。戦前、手加減はできないと言ったのはこのことだったのだろう。腐乱に目の前の獲物を仕留めることしか頭にない。それは実に自然で、そして当然の動きだった。 本来、生物は生存本能を脅かされるのを阻止せんとするときに戦いなどしない。脅かされることに被害妄想を抱き、ヒステリックに反撃を試みるのは生身の人間だけだ。 生き物はもともと、自分を守るための牙は持たない。糧を得る狩りをすることだけに、彼らの身に備わった”武器”は使われるのだ。それ以外には無用の長物であるし、時に瞬間の威嚇や優劣の決定のために使用することはあっても、息の根を止めるのはおのれが食すべき獲物に対してだけだ。だからこそ、一色即発の力を発揮できるのだとも聞く。動物の動きというのは、決して鍛練によって身につけられる代物ではないのだ。それでも目指したからこそ、彼らを至高としたからこそ、この拳法は生まれ、現代にも使う者が残っていたのだろう。 それも、相応し過ぎる者の力として。 いや、もしくは金李に使われるために虎拳は存在したのかもしれない。 コイツは虎だから、な。 合点する。 野生の一部である身には、まさに用意されていたかのように肌に馴染んだことだろう。身体に合っている、というか、動きが的確かつ正確であるのは、その理由によるところが多いのかもしれない。要は、自分が今ここで戦っている相手は野生の虎なのだ。それを、人間の身である自身がどう足掻こうとも攻撃を回避することはできない。本来の力で押してくる相手を、か弱い人の力でなんとかしようと、できるだろうと思うこと自体が傲慢なのだ。下手な小細工を弄さない限りは、か細き五体では彼らに太刀打ちすることさえ出来はしない。 そう判断したあとの動きは実に迅速だった。 もうこれ以上攻撃を受け続けるのは限界だと悟った瞬間、かっと火照るように内側から沸き起こった熱気を散らすように相手を身体ごとなぎ払っていた。 そこで初めて、李が一歩後退する。今までずっと前進を続けていたのだ。同じく後ろに引かなかったカイによって、彼らの位置がぶつかり合った場所からずれなかったのは、辛うじて力が拮抗していたことを意味している。それでも、カイの足元の土は、受けていた力の大きさをそのまま表わしているかのように、不自然に抉れている。連続する猛攻を防ぎきっていたとはいえ、ダメージがなかったわけではない。むしろ、実力のほどを、おぼろげな輪郭だけでも見定めようと観察していた手前、受け手に回った者の方が本当の意味で体力を消耗したことになるのかもしれない。 そして、気づいたことがある。 至近で睨み合うように対峙していた二人の間に距離を設け、ようやく離れた場所から互いの目を見た瞬間、同時に察したことは、”本気”ではないということだった。どちらが、というのではなく、両者ともにまだ余裕を残していたことに、一方は眉間を寄せ、そしてもう片方は唇を吊り上げた。 嬉しげに、さも喜喜として目元すら歪める。 だが、言葉はなかった。 火蓋が切り落とされたときから、彼らの間に寸前まで交わされていたような会話はない。必要なかったのだ。それとも、話をする間すら無意識に惜しんでいたのか。 いずれにせよ、先程までの攻防を手習い程度と認識していたと知れたのなら、暴いていない部分をぶつけるまで。奥の手ではなく、本分を見せ合う。隠し立てしたところで、絶好の機会であるこの好勝負に水を差すだけだ。それだけでなく、敗を喫すことになるかもしれない。それだけは、互いに露ほども望んではいないことだ。一様に、自身が勝つことを信じて疑わない。 大層な奴だ、と思う。 正確には『奴ら』、だろうか。 そして、ギャラリーが自分たち以外誰もいないことを幸福に思う。 こんな絶好の相手を得て、介入してくるような『他人』など不要なだけだ。互いの他に何者の呼吸も、今のこの場には不釣合いだ。まるで一本の道筋が、まっすぐ目の前の相手まで繋がっているかのように、対照以外の存在を容認してはいなかった。 絶対不可侵。 理解しているからこそ。 同調したように捉え、飲みこんでいるからこそ。 それこそ、これ以上の至福はあり得ないだろうとさえ思える。 白の虎は、鷹揚に笑うのだ。 |
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