■ Beyblade ■
長話 ■

 実際、李の機嫌はすこぶる良かった。それは、闘いによる昂揚が興す精神的麻痺の類いとは別の。
 普段よりカイの近くに在れる。そんな、他者よりも一歩先に進むことが出来たという優越にも似た陶酔が、上機嫌にさせた理由だった。
 恐らく、自分以上にカイと親密になり得る手段を持つ者などいないだろう。案外身近に大勢いるかもしれないとの懸念もあったが、今だけはそれを打ち消した。こんな、心躍ることなどこれまでの人生にだって数回、あったかどうかも忘れたくらいだ。湧きあがる喜びを抑えきれず、まただらしのない相貌になっているのだろうと頭の隅で思いながら、押し隠すことすら大儀に思えた。出し惜しみや躊躇など、カイに不審を抱かせるだけだ。かといって言葉にして思いを告白したところで、眉根を吊り上げて否定するのだろう。到底、わけがわからない、と。
 無理もないことだ。思いを抱く李自身にでさえ、不可解極まりないことを自負している。しているからといって、素直に手放せるような代物でもないことも、もはや知り尽くしている。
 随意にならない”我”。それこそが根源に潜む自我であると主張するように、一歩も譲らないのだ。ならば受け入れよう。すべて、認めよう。この時という好機に、身も心も躍動しているという事実を寛容を持って受け止める他はない。そして、それが決して敗北感から来るものではないことも承知している。それどころか、達観に近い。学んだ末に得ることが可能になった知識。であるならば、驕りも謙遜も不必要なものでしかない。
 再び緩やかに口元に笑みが履かれると、間を取った相手がわずかに緊張したような面持ちを見せた。なんだろう。翳り、だろうか。常に誇らしげに天上を見上げて伏せることのない紅い双眸に不釣合いな薄暗い影が差す。
 カイにはどこかの武術に通じていると推測できるような、特定の構えはない。それすなわち武芸に覚えがないのかと言えば、あながちそうではないらしい。現に、先ほどまでほぼ互角とも思しき攻防を繰り広げられたことからも、防御に関して申し分のないほどの『心得』を会得しているらしい。
 だが武術の”型”は攻撃にこそ顕れる。一方的に受け手に回るだけであったのは、対峙した者の力量を見極める意味と、カイ自身がどのような攻めに移るべきかを思案している節があった。カイの内心の駆け引きを大雑把にしか捉えることは出来なかったが、李と同じく肉弾で攻めるべきか、それとも。
 もう一つ、どうやら選択肢がありそうだった。カイの中には、未知数のものがある。それは少年自身が秘めている、おぼろげにしか掴めない境遇なのか、あるいは外に知られまいと隠している『真実』なのか。
 ただ、その選択が如何なるものであれ、李は甘んじて受ける覚悟があった。カイが見せる、どれもが少年本来のものであるならば、もっと内面を掘り下げる意味でも、思いを深くする意味でも、知る必要があると思ったからだ。少なくとも、成り行きとはいえ”知る”場を与えられたのなら、それを利用しない手はない。目の前に吊り下げられた餌を見逃せるほど臆病ではないのなら、自身の技量を引っさげて果敢に飛びこんで行くしかない。なぜなら、その欲求に後ろめたさなど微塵も感じないからだ。
 知りたい、と思う。
 掴みたいと思う。
 誰を、ではなく、すべてを。全部を。
 手に入れたあらゆるものを残さず取捨選択するのではなく、対象ひとつひとつを手にして受けとめる。ぶつける側であるカイにとっても見逃してしまうようなものすら、一つ残らず手に入れる。そうする努力を、今惜しむべきではない。単純に、そのことだけが念頭にあった。
 偽らないでみせる。
 誰に対してだけではなく、自分に対してさえ。そのことは曲折することなく直接カイのもとへ届くだろう。度量に見合わぬ所業であるかもしれない。それでも、努めて力を注ぎこめば、果たせぬ願望でもない。カイにより近付くには、触れるには。多分こうすることが最も難く、最短な方法であるだろう。そして、それを躊躇する意思は、ここにはない。
 万象の前で対峙する”対”なるを得た者にとって、引き下がることのできる謂れはない。

 一瞬垣間見えたかに思われた翳りが、急に四散する。目の錯覚かと何度か瞼をしばたいたが、どうやら気のせいではなかったらしい。暗いものが、後頭と頚の丁度付け根の部分から肩口に広がる様を見る。
 影、ではない。日が若干傾きを得ているとはいえ、昼間と評するに問題はない時間だ。強い陽射しの下に物の影が生じるのは珍しいことではない。だが、明らかに違うと知れるのは、立ち昇る陽炎のようにゆらゆらとそれらが閃いていることだ。温度がある、と咄嗟に知覚する。目に見えるのであれば、ある程度の高温を保持しているのだろう。カイは熱くないのか。直感的にそう思った。
 しかしカイに変化があるとすれば、眉間の溝がさらに深められたことくらいだ。構えもなく、両腕を脇に固定させたまま、拳だけを握って草の上に立っている。そこから動きを派生させようとするなら、もっと相応の体勢が必要なはずだ。まるで精神を研ぎ澄ますかのように、じっと、神経を集中させている。
 何か来る、と思ったのは、自身の眉間を強烈な熱が焼いたからだ。ちり、と前髪が焦げついたように、ただならぬ雰囲気を察知する。しただけでは遅く、気がついたときには数歩飛びすさっていた。
 突如距離を取った相手を不審に思うのでもなく、口を開いたカイの表情は先程までよりも幾分穏やかになっていた。が、口調は硬い。言い様のない塊がその全身を包んでいるのがわかったが、その均衡を保つためにカイが粉骨砕身しているのが手に取るように知れた。危うい、と感じたのは、一体どちらに対してだったのだろう。
「やはり貴様にはわかるのか」
 大仰に胸を喘がせ、呼吸を整える。それほど尽力しているのがわかるなら、どうしてそこまでする必要があるのか。李にはそのことだけが気がかりだった。
「木ノ宮たちなら見えるかもしれないと思ったが、そうか、貴様もか」
 かすかに自嘲を滲ませ、口端を歪める。醜くはなかったが、それはなぜか胸に突き刺さる光景だった。良くないものだ、と瞬時に感覚が訴えたのは、相手に好意を抱いているからこそ感じる、身に覚えのないものに対する警戒のためだけではないはずだ。
 そして、おかしい、と思う。
 同じ、という木ノ宮、つまりタカオたちには、悪いものがあるようには認識していなかった。研究のために牙族の村を訪れた外部の人間だったが、彼らにはおおよそ場違いな空気というものを感じなかった。行動も思想も平凡で、村で暮らす一族とかけ離れていたという印象もない。ごく普通の少年の思考で、自分たちと寝食をともにしたり、時には互いに稽古をつけ合うこともあった。無論、カイとて初めは近寄り難さこそあれ、打ち解けてみれば『違う』者ではないということがすぐに知れた。
 なのに、今、この場に充満しつつある悪意は何なのだろう。これが、カイにとって真に味方足り得るものであるはずがない。絶対に、ない。
「よくわからないが、その力を使うのは良くない」
 力、と評したが、その表現が適切なものであったのかどうかは自信がなかった。たちこめる気配はカイのものであると同時に、どこか異質な感じがする。溶け込んでいる様で、憑依しているような。まるで、別の何者かが相応でない場所に寄生しているかのような違和感がある。本来宿るべきではないものが、間違ってカイの中に入っている。あるいは、故意にそうされたものかもしれない。まるで不当に領地に侵入し、カイを侵しているかのような錯覚にとらわれ、あからさまに李は顔をしかめた。不快だった。何が、というのを適切な言葉で表わすことは出来なかったが、不愉快だった。理由は、相応しくないから。それは全然、『カイらしく』ないものだった。場違いだとさえ思えた。憤然は、率直に全身に顕われる。実戦経験の豊富さを盾に、余裕を纏っていたはずの相手の構えが臨戦に転じたことを読み取り、カイの目が薄く細められた。
「そんなことは百も承知だ」
 知っていながらそのままにしていることを告ぐ。矛盾を抱えているからこそ、冷笑がその白い表情から拭えなかったのだと、今更ながらに李は理解した。
 だが、と小さな独白が二人の隙間にこぼれる。
「これに縋る以上、俺に道はない…!!」
 轟、と頬を掠め鼓膜に届いたのは、疾風と暴風。
 勢いのある熱量が眼前に広がり、周囲を黒く染め上げた。
 両手で正体不明の猛威から身体を庇おうとした、狭められた視界の中。瞳に映ったのは、スローモーションで散り行く常しえの深遠に佇む宵闇の羽。そして、鋭い切っ先を地面に突き立て突進する太く、虚無を模したかのような黒い刃。
 庇いようがなかった。ただ、全神経を盾と変えた両腕に集めることだけで精一杯だった。剥き出しになった頭部以外の部分がこれによってどれほどの被害を被るのかはわからない。今は、予測すら立てられない。
 一発で決められるかと思われた衝撃のあと、追撃すら知覚できないまま正体を手放していた。打ちつけられた岩壁の、風圧によって抉られた穴の下に崩れ折れ、昏倒したのだと知ったのは眠るように落ちた意識の底でだった。

Copyright(C) PAPER TIGER(HARIKONOTORA) midoh All Rights Reserved.

**