長話
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まだ身体に重苦しい倦怠感が残っている。手の痺れは引き出した力が、肉体に無理を強いたことをつぶさに示していた。 内心、カイは舌打ちした。たった一本の刃を地上に繰り出すだけでこの負荷だ。確かに組織内部の研究所では本来の実力の半分も出せなかった。なぜなら影響力が強大過ぎて、建物自体を破壊してしまう恐れがあったからだ。 無限とも思しき力の流れは、ともすれば自身の破滅すら導きかねない。自覚はある。遠慮なく出るに任せて身の内から涌き出した熱を放出していたら、もしかしたら自分の体をからからに干からびさせてしまっていたかもしれない。 だが、この感触は、その無限の能力を解き放ったときに感じる反動などではない。 これは、その身に抱くべきではない神を宿させ、無理に力を引き出しているために過度の負担を受けて肉体が悲鳴を上げている証拠だ。まるで、流れるべきではない型の血流を押し込まれて動かされるときと同じように、何かが体内で異を唱えている。叫んでいる。わかっている、その共鳴は自業自得だ。 身に宿すべき聖獣をたがえている。選んだのはカイ自身。投げ捨てたのも自分自身だ。明確に言えば、自分はそれを憎んでいた。忌み嫌っていた。自身から愛する者を奪った力。これさえ目の前に姿を現さなければ、死なずに済んだのに。 噴き出してきそうな熱い水量をぐっと堪える。誰が見ているわけではない。放置して、流れるに任せても良かっただろう。だが、できなかった。挫けそうだった。挫けてはならなかった。ずっと前を見据え、これからも歩いて行かねばならない。どんな坂でも、途方もない崖も、谷も。そびえたつ渓谷を超えて、行かねばならなかった。独り、ひとりが痛くとも。凍てついていても、望外な野心がある。人はそれを健気だと称すかもしれない。罵倒もするかもしれない。愚かなことだと嘲笑されても。 すべてを終わらせてやる。終止符を打ってやる。この手で、血筋の根源を叩いてやる。そうすることが、まるで虫けらのように抹消された”人間”の供養になるとは思わない。恐らく叱咤するだろう。馬鹿げていると涙を流すだろう。けれど、そんなものはすでに遠い。どんなにむせび泣かれようとも聞こえない。もう、いない者が、どんなに誠意を尽くして真理を説いても。存在しない者に、一体何ができるというのか。 亡失した側の苦鳴の、何がわかるというのか。 じゃり、と地面を踏み、倒れた男の前に立つ。 完全に意識を喪失し、呼吸をしているのかも定かではない。 カイは身構えた。聖獣を引き剥がす、とにべにもなく言って退けた、よく知る顔を思い出す。その、硬質な声音さえも。 しかし、具体的にどうすれば良いのか。カイは思案に暮れた。聖獣を自分のものと同じように、他者のそれを感じ取れば良いのか。湧き出すものを『掴み』、『抜き』取ることができるのか。じっと、自らの拳を開いて見つめる。紅い視線に晒された掌は、今だ小刻みに震えている。平素に戻らない。カイは今一度苦々しく口元を歪めた。 一旦膝を折り、頭部の近くに片膝を突く。日が翳り、色の濃い影が黒髪の少年の額を覆った。痙攣の続く利き手を、相手の側に向けて広げようとして、一瞬動作が止まる。 果たしてこれで本当に良いのか。疑問が、なかったわけではない。 秘密組織の首領の命じるままに目的の聖獣を掻き集め、どんな実験に使用しようとしているのか。あるいは、使い手を組織の内部で新たに作り上げるのかもしれない。そうして最強の”兵”を作り、部隊を編成して戦地あるいは敵国内部に送りこむ。 あの国がどのような使命の下で軍事的な行動を起こそうとしているのか、それはおぼろげにしかカイ自身も知覚していない。他国の出身であれば、内密な事情を知り得るべき立場にいないということも理由になるのだろうが、それにしても知られざることが多過ぎる。あの、ヴォルコフの顔を思い出しただけでも腑に落ちないことは山とある。自分たちを後押ししている男の首を取られても良いのだと仄めかし、カイの復讐を半ば肯定したも同然だった。では、彼らを金銭面で後援する者の”代わり”が決まっているとでも言うのか。あり得ないことだった。国家でさえ貧困に喘いでいる現状では、軍事にばかり金を割いてはいられないだろう。いずれにせよ、ヴォルコフが露国の軍部に顔の知られた人物であっても、組織を維持するだけの財を工面するのは限界がある。表立って教会の信者らから寄付を募るにしてもそれなりの上限があるだろう。 では、何が目的なのか。真の狙いというものを、億劫だというただそれだけで突き止めずに本拠地から離れたことを、カイは少なからず後悔した。 工作員の訓練を受けたこともある。そして、その実力が群を抜いていることも自負している。恐らく、聖獣を使う兵士として最強を冠する『ユーリ』よりも卓越していただろう。おかげで組織のきな臭い噂や実験の類いについても、同じ少年兵の中では最も情報に精通していた。自分たちがどの程度、『奴ら』にとって有意義で”有効”なのか。訓練を受け、修道僧として世間の目から隠れているヴォルコフの配下の実力というものも、おおよその見当はついている。彼ら一人一人。いや、それが数十人集まろうとも、自分や『ユーリ』の敵ではないということくらいは。 ならばなぜ、わざわざ奴らの世話になっていたかといえば、その組織に送りこみ、他国からの流金に目を光らせている国家の裏で金銭で彼らを支援している”大元”が、自分が狙っている人間であるからだ。 幼少の頃に家を出され、孤児院に押しこまれた挙句、今度は秘密組織の仲間入り。良い様に使ってくれている、と思う。手駒どころか、廃棄できないゴミをたらい回しにしている観がある。実際、間違ってはいないのだろう。 父が教えてくれた、ドランザーという名の大鳥。 受け継ぐ気はなかった。受け入れたいとも思わなかった。 火渡姓の象徴でもあり守り神でもあるという聖なる獣は、彼らが存在している限り、一族の永久の繁栄を約束してくれているのだそうだ。だから、”宿した”者を目の上のこぶとして排除することもできず、とりあえず生きてさえいれば良いという理由で様様な地獄に送りこんでいるのだ。こんなことを、恐らく、自身の代わりに”ドランザー”を継ぐ者が現れない限り延々と続けるのだろう。 そこに、自由はない。 自分があのとき。力を使わなければ、と何度思ったか知れない。無知で幼かった自分は、ただ驚きと歓喜とともに父にそれを見せに行った。暖かい、血の巡りと同調するような美しい大翼を携えた神々しいまでに凛とした姿。一瞬で心惹かれた。このままともにあれることを心の底から誇らしげに感じた。見せられた懐かしい姿に、父はしかし、うっすらと笑っただけだった。 そして、知っている、と。 会うことが絶えて久しくなった年月を越えて、再びまみえることができたことを嬉しい、と言った。それは、本当に幼い笑顔だった。物寂しさの残る顔だった。 そうして、自分は火渡の家から父親を追い出した。 才能らしい才能もなく、ごく平凡だった父。いつも夢見るような口調で物事を語り、時に屈託なく笑った。本当に釣られる笑みだった。その”拠り所”を完全にこの世から消し去ったのは、短期間だけの孤児院の暮らしから、急に外国の施設に入れられるという話を聞いてから。 いつものように夕食の前、一人の時間を持て余していた時刻。不意に来訪があった。人の目を盗むようにして、コートを纏った父親の姿が。屋敷を追い出され、孤独の生活を強いられていただろうことは、その頬を殺ぎ落として刻まれた鋭い影からも子どもの目には明らかだった。やつれた身体を引きずって、ここから早く逃げるよう手を引いた。 わけがわからず、ただ、その温もりが嬉しくて呆然としていた。引かれるままに駆け足に建物を離れ、父の住処らしきところまで連れられた。 あとは、何が起こったのかあまりよく覚えていない。 目の前に大きな車が止まり、父の足を止めた。そこから何人かの男たちが出てきて、自分と、自分の大好きだった大きな手を無理矢理に引き剥がした。それが、最後だった。父を見たのは、それが最期だった。まるでゆっくりと。自分はただ、静止画を見るような心地で、父親のかけていた細い眼鏡が地面に落ちるのを見ていた。 車に押しこまれ、日本の地を飛び立って待っていたのは、暗い石と氷の世界だった。 |
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