■ Beyblade ■
長話 ■

 びくり、と体が振れた。少しの動き、微細な振動。
 呼吸を忘れていたことに気づき、は、と息を吐く。
 地についていた膝の痛みに、今更ながらに身じろぎをする。つと、動きを妨げる障害があることに目を見張る。
 ズボンの裾、足枷の辺りに指が絡みついていた。横たわったまま、意識を手放している影から伸びたそれ。驚き、慌てて足を動かして手を振り解こうとする。簡単に捕えられているだけかと思ったが、動かない。一体どこにそんな力があるのか、カイには見当がつかなかった。怪訝に思いつつ、腕を伸ばして力任せに戒めを解こうとする。
 目的の場所に指先が到達するより先に、耳に届いたのは小さな呟き。
 行っては駄目だ、と。
 カイ。
 小さく口を動かしただけだろうに、鮮明に鼓膜に響いた。動揺が、ざわり、と背筋をあわ立てる。今から身の中に巣食う聖獣を奪い去ろうというのに、他人のことに気を留めるのか。李の思考がわからない、とは思わなかったが、カイはあからさまに眉をしかめた。どうせなら、自分の身を心配した方が良い。抜き取られた瞬間に、自身がどうなるかまだわからないのだ。肉体には負担がないかもしれないし、あるいはもっと奇妙な因縁で何らかの障害をもたらすかもしれない。
 お門違いも甚だしい。なのに、とても『らしい』と思った。
 自分より相手が大事なのだと。好きだ、と好意を口にした。言葉だけではなく、滲み出る態度でそう示した。気になって、心を砕いて、怪我をすることも顧みない。とても、そっとして、大事にしている。お仕着せではない、ごく自然な。そう。大気が周りを包むような大らかさと寛容さでもって確立している。力強さも底にはあるが、決して無理強いはしない。
 案じ、望むならば手を貸す、と。それこそ、際限のない助力を与えるつもりだろう。思い浮かべる平素の姿の中の、強固な意志を主張する双眸が無言でそれを訴えていた。
「本当に、おまえ、は」
 カイは手を伸ばした。白い、日に焼かれたこともない淡雪の印象が、そっと黒髪に乗せられる。静かな時間が流れた。時の過ぎる感覚も忘れたようにそこにあった。
 ふと、手の下の温もりが変化する。浮かび上がる靄のようなものが体を包み、淡く、白く少年を包む。おのれの持つ”黒”とは違い、見慣れない色彩に一瞬目を奪われながら、カイは黙ってその様子を見守った。何が起こっているのか、本能は見抜いていたのかもしれない。警報はならない。危険なものではないということは端からわかっていた。
 徐々に光輝が小さくなり、形が捉えられるようになったと思った頃には、掌の下には何度か顔を合わせた白い大虎がいた。寝息を鼻でたて、とても安らかな表情をしている。しっかりと先が揃えられた爪の先に、カイの服が引っかかっていた。元の姿になっても離さない、ということなのだろう。いや、どちらが正統な姿形なのかはわからない、と言っていたか。
 緩く、撫でる。
 ふっさりと蓄えた、時々ちくちくする感触もある、つやのある毛皮。白と黒のコントラストが鮮やかで、緑の敷布に明瞭な存在感を示す。頭から首の後ろを通って肩から腹へ。往復を繰り返し、生き物が生きていることを知る。息をし、鼓動する。やわらかく、しなやかで逞しく、そして温かい実感。
 自分は知っていたはずだった。これと同じ息づいていたものを。物言わず、穏やかで。自分が体に触れることを許してくれた優しい気配。敷き詰められた細かい氷柱の毛皮ではない。もっと、ちゃんと温かみを持っていた青の肢体を覚えている。覗き込んでくる目も雪を覚えるような色彩だったが、凍てついた感覚など微塵も感じられなかった。その頃は。
 確かに、生きていた。
 今度こそ涙が出た。たった一粒。黒い溝を避けるようにして、白の上に。ひた、と小さく音を立てて。
 おまえたちは、どうしてそんなに穏やかなんだ。まるで、荒れ狂う自分自身が道化のように、醜く汚い。なのに、こんなに薄汚れた自分にどうしてそこまで優しく在れるのだろう。
 手を広げる。掌の腹の前面で。ゆっくりと撫でる。存在を、確かさを、何度も何度も記憶に刻み付けるように。触れるだけで、殺ぎ落とされる。ささくれ立った焦りや怒りや悲しみも。
 いてくれるだけでこんなにも愛しい。
 名残を惜しむように頭に手を軽く押しつけると、カイは今度はためらわず立ち上がった。首に巻かれた布が、音も立てずに後ろへ翻った。
 何者かがここに来る気配がある。それが誰であろうと、見逃すわけには行かない。そして、あちらもそのつもりだろう。
 冷静に、精神を研ぎ澄まし、沈黙のうちに迎えた。

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