■ Beyblade ■

雑文 ■

 雨。
 大粒でも小雨でもない普通の雨。しとしとと。けれどざあざあと。耳に邪魔にならない程度に、けれど確かに存在を主張して。
 そういう日は決まって本を片手に読書を決め込む。内容はなんでもいい。伝記、探偵、図鑑。片手に納まる大きさなら、何でも手にとって眺めていた。そうすることで、落ち着く自分がいる。容易に手に入るだけにちゃちな”安息”だと思わなくもないが、取りたててそこに執着することもない。固執する意味が見つからないのなら、素通りするに限るからだ。
 居候の身の上で客室など持たない身であるならば、自然と足は道場へ向く。そこにうんざりするような面々が陣取っていようと、頭から無視を決め込むつもりで。
 踏みこんだ場所には、むくむくの白い毛の塊がうずくまっていた。
 踏み潰してやろうか。
 思わず物騒なことが頭をよぎるが、目を伏せて黙認することにした。誰でも静かでありたい日くらいあるものだ。
 小さな窓がある隅の空間にとりあえず腰を落ち着け、胡座を掻いてその中に本を携えた片手を下ろす。ページはここに至るまで何枚か過ごしている。つまりは読みながら歩いてきたのだが、幸運にも人身による接触事故は起きなかった。そのささやかな幸運が日頃の行いによるところなのか何なのか、本人には当然知る由もない。
 もぞ、と他人が身じろぐ気配がする。
 あらかた予想がついているので目もくれない。紙面に没頭したまま、瞬きすら忘れて食い入るように文字面を読む。集中しているときというのは誰もが無愛想だ。通常以上に輪をかけて、というわけではあるまいが、没入している先には他のことは思い浮かばなかった。
 途端、不満をあらわにした声が頭上から降ってきた。
「無視することはないだろう」
「黙れ」
 即座に取って返す。声をかけたのが当人でなくとも用意してあった一声は変わらない。頭から存在と行動の両方を否定され、機嫌が急下降したらしき声音が耳に落ちてきた。
「先に領地に侵入してきたのはカイだろう」
 何を持ってテリトリーだとか称すか。
 人の姿に戻った”顔見知り”にようやく一瞥を送る。ただ、顔は依然として本の直線上にある。
「いつからここはおまえのテリトリーになった」
 客人として木ノ宮邸に招かれていながら、私室をあてがわれていないとはいえ甚だ傍若無人だと指摘する。ただでさえこちらも他人との接触ばかりの毎日を持て余しているというのに、相手の不平にわざわざ頭を下げるようなことはしない。
 何より、相手が臍を曲げているのはほぼ八つ当たりだと認識する。普段から陽気を前面に押し出すように人当たりの良い面が、今は見る影もない。いつどこでなりとへらへらしていろとは夢にも思わないが、険しい表情に歪んだ目の下の隈を見ているだけでこちらとて気分が悪くなる。機嫌を害し合うことこそ不毛だが、確かにそれは飛び火してきている節がある。言わずもがな、不本意なことで、だ。
 純粋に自分の非を挙げてひるむことのない紅い双眸に見据えられ、観念したのはレイの方だった。ごりごりと後頭部を掻き、どんより曇ったため息を吐く。もしかしたら3歳近く歳をとったんじゃないかと思しきやつれ具合に、不審が鎌首をもたげる。自然と問いが口を突けば、げんなりと疲弊したような表情が降りてきた。
「こうも雨が多いと、気分が悪くて仕方ない」
 吐かれた台詞は、事実に相違ないことを主張するに余りあるほど陰鬱なものだった。いつもの個性を知る者であれば想像だにできない消沈振りだったろう。実際、カイの目はわずかに見開かれている。
 ああ、と嘆息する。
 そういえば猫は水に強くない生き物だ。嫌い、と言った方が無難かもしれないが、濡れるのも寒いのも毛嫌いしているところがある。相手をそんなかわいらしい類いのものに当てはめるのは無謀だったかもしれないが、レイの顔色の悪さを見るに内情は察するに余りあるものがあった。
 どうやら本当に具合が優れないらしい。どかり、と脱力するようにその場に座りこんだ身体は、すでに崩れかかった土砂に近い。真っ当な姿勢を保つのも億劫らしい肢体は、しなだれるように自身に重みとなってかかってきた。
 肩肘でどくように牽制しつつ、中断された読書に再び意識を戻す。相手が連れないと思っているかはともかく、カイには厄介事には首を突っ込みたくないという信条の方が勝ったようだ。ただ単に”趣味”に意固地だというべきか。
 抵抗が治まったことが知れると、レイはぐったりとした身体を大きく伸ばした。領域を広げるように、胡座の上にどさりと乗せられた腕に視界を遮られる。カイは一点、レイの掌の下を見ていたのだ。読み解きたい部分を隠され、瞬間、眉間に鋭い皺を刻む。
「邪魔だ。退け」
 低く言い放つが、相手は悪びれた様子もない。ただ気だるげに、ゆっくりと深い呼吸を繰り返しているだけだ。これでは虎ではなく、ジャングルに居座るナマケモノではないのか。確かに印象は似ていなくもない。が、前者と後者では見栄えという点でまったく異なる。それはつまり、良い意味で。
 ぴりぴりと嫌な刺激で摩耗して行く神経をなだめることを忘れず、同時にカイは口を開く。何かを吐き出してしまわなければ、ぐるぐると自分の中に嫌な物を残しそうで口惜しかったからだ。せっかくの自由の一時。邪魔するものを排除できなくても、視界から切り取ってしまいたい。せめて、この穏便という名の最後の砦を守っているらしい理性だけでなんとか。
 だらりと身体を弛緩させ、上を向く金の楕円はぼんやりと紅い対の瞳を映している。
「気分が悪いのなら、布団を被って寝ていろ」
「布団は暑いから駄目だ」
 寒いのが嫌なのではないのか。湿度が高い以上、密閉した空間に閉じこもろうとすれば逆にうだるような暑さに見舞われるかもしれないが。
「だったらそこら辺で寝転んでいろ」
 だからこうしているんじゃないか、と視線で訴えられ、思わず空いた手で拳を作る。いつのまにかレイの頭部は胡座の縁にまで及んできて、それはもしかしたら膝枕と言えなくもない状況だった。無論、双方にその意識はない。
「俺は雨は苦手だ」
 わざわざ呟かれなくとも見ていればわかる。気だるげな思考回路の中、張りのない声が続く。
「カイは、どうして…?」
 喉をのけぞらせ、青い視界に遮られた白い表情を仰視する。両頬に描かれた蒼い模様は、色白な面をさらに際立たせるようで不吉な感じがする。
 言わんとする先を飲み込んだのか、無表情の唇が動いた。
「俺は雨は嫌いじゃない」
 目線は、居場所を主張する顔の脇に無事避難した少し日焼けした小さな本に釘付けになっている。それに対する嫉妬は、今のところない。
 疑問符が再び唱えられ、先ほどと寸分たがわぬ声が降る。
「雨はベールのようなものだ。俺と周りを隔ててくれる」
 だから気が楽なのだ。
 視覚を、聴覚を実感を。小さな雨粒が降り注ぐことで麻痺させ、霞ませる。薄れさせてくれる、日々の雑音。明らかになるのは、おのれの呼吸。ひっそりと息づく、息づいている自身を身近に感じられる一時。余人の騒音に苛まれることなく、ゆったりと自我に浸ることができる時間。
 気兼ねがいらない、のだろうか。レイはカイの言外に含んだ思いを読み取った気がした。いつも距離を置いているから。同化したくないとばかりに集団から一歩離れているような態度は、奥ゆかしいのでも謙虚なのでもない。許さぬものがあるのだ。カイにとって、彼を形成するものにとって、何者かと近しくなるという行為は、許容することのできないもの。
 もしそれを譲ることがあれば、簡単に崩壊してしまうのだろう。カイと、カイを成り立たせている諸々のものが。
 つまらない、ちっぽけなものだとは思わない。それも確かに狭量と称すものかもしれなかった。大器の人間であれば、そんな一切の雑念をすべて取りこんでもさえ、自身を保てる余裕がある。とらわれない、というか、別の次元に”自我”が根付いているからだろう。
 けれど、カイの心の機微はずっと孤独で。孤独で、強い。太く、長く続く道しるべのような。そこに他人が手を加えることは冒涜だとの錯覚さえある。
 ちっぽけだと思う。却って、惑わされない自分の方が広いだけで浅いのではないかと思わされる。人と比べることこそ愚の骨頂だが、カイは広くはないがとても”深い”のではないかと思う。辿りつけない温もりまでの距離が、深く、容易には悟らせない、触れさせない孤高さがある。
 そんな些細なことに理由を見つけてしまう。広い者と深い者。決して相容れない理想同士。反発しないのは、認めている証拠だろう。それも”道”だと。本来自分も歩むことが出来たはずの、と羨望するのではない。そんな立場があっても悪くないが、自身が歩むのはこの道理だと。
 ああ、そうだな。
「カイといられるなら、悪くはないかもしれない」
 口の中で呟く。音にはならず、吐息とともに空気に溶ける。
 水を含んだ大気。

 しっとりと、物思いに滲むように。

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