■ Beyblade ■

雑文 ■

 雨が終わったと思ったら、今度は猛暑。
 自分が育った大陸もここに負けないくらいの暑さだったことを思い出しても、何の手助けにもなりゃしない。いうなればお手上げ状態。いや、まだ手を上に上げられるだけマシなのだろうか。

 ここ最近。同じ年頃の仲間たちと顔を合わせても、毎日同じような会話の繰り返しだ。異口同音にのたまうことといえば、身体中に張りつくような湿気と熱気と、じりじりと照りつける陽光への罵詈雑言。他者に対するものなら別段気を悪くする類いのものであるはずがないのに、それを毎回聞かされ、且つ口に出しているといい加減食傷気味だ。何をそんなに腹を立てているのかと、相手に対して逆に虫の居所が悪くなったり。
 悪循環だ。
 本気の喧嘩ではないと互いにわかっていながらの、苛苛する心地。如何ともしがたい環境のせいで機嫌が悪いのなら、人に会わずに暮らせば良いだろうと思うのだが、そんな隠居じみた真似事がまかり通る世の中ではない。対人関係は人間社会には絶対不可欠。子どもながらに不運だ、と思っているのは多分自分だけではないだろう。
 そういえば口数少なくなっている仲間たちの中で、影すら見せなくなった者がいる。静かだな、というより、上手く隠れたな、という感想の方が強い。無口で、無言で。行方を晦ますのが得意なのか、それとも自分たちが注意散漫なだけなのか。一日を振り返ってみれば、姿を目にしたのは朝食と夕食の時間だけだ。昼飯時は揃って食事をする決まりになっているわけではないので、各自腹を空かせたとき台所にあるものを勝手に物色する。
 夏の主食はほとんど素麺。自分もすっかり、その細い糸のような麺に慣れてしまった。作るのも簡単だし、考えなくて良い。いい加減飽きたという声もちらほら聞かれるが、率先して食卓事情を改善させようという勇気と余裕のある奴はいないらしい。かく言う自身もその一人だが。
 そう。それで、カイは。
 和室の開け放たれた障子から顔を出す。今の時間はまだ日陰だから、この廊下は暑いというほどでもない。無論、夕刻に近くなればそそくさと北の方へ避難する。それまでの休戦場。幸い、宅の主以外にはここが涼を得るに最適な場所だとの情報は洩れていない。
 目下、日の大半を寝て過ごせる快適なベッド・ルームといったところだ。とはいえ、6畳ほどの畳みの上に布団が敷いてあるわけでもなく、ごろりと直接横になっているだけだが。
 木ノ宮邸は外から見るとそんなに大きなところではないように思えるが、実際はその維持費もどれくらいかかるのか、予想も出来ないほど”客室”が多い。客室、と言っては老年の当主が気を悪くするかもしれないが、要は”使っていない”部屋がかなり多い。祖父ひとり少年一人が住まうには広過ぎる観もなきにしもあらずだ。すべての部屋をくまなく探検したら面白いだろうな、と思うのだが、まだそれは実行に至っていない。というか、誰がするんだ。もう子どもじゃない、という気持ちが勝っていたためだろう。

 そろりと襖の間から伸ばした足先を、日の陰った薄い墨のような空間に落とす。気分はもう、探し人の元へ誰にも悟られず辿りつきたい盗人よろしく。違う。例えがよろしくない。つまりその。週末の夜にテレビでやっていた”ろーどしょー”の正義の泥棒、みたいな気持ちだ。
 こっそり。陳腐ながらも綿密な計画を頭の中で描きながら、捜し求める人物の姿を脳裏に思い浮かべる。
 灰、蒼、黒、と紅。
 頭のてっぺんから爪の先まで。色の連想から始まるのは、少しおかしかっただろうか。それに、カイが聞いたら『これは黒じゃない』と怒り出すかもしれない。でも、やっぱり遠目には少し黒ずんだ服だと思う。カイには白が似合うのに。誰の趣味かは知らないけれど(本人の趣味かもしれないが)、身体をくまなく覆ってしまった窮屈そうな服は、傍目から見て苦しくはないのか心配してしまう。ファッションに頓着しないのはこちらも似たり寄ったりなので、正面から言及はしないけれど。
 最後の『紅(あか)』は、ただの思い込みかもしれない。なんとなく、カイは”あか”だから。その漠然とした先入観だけで、そうだと結論付けるのは浅はかだったろうが、それでもカイは、それ以外の色ではないように思えた。
 渡り廊下を横切り、いつも夕食を食べにどこからか戻ってくる方角を辿る。大体の方向しか覚えていなかったが、カイはいつも東の方からやって来ていたような気がした。
 恐らく、自分が誰にも知られぬ寝場所を確保してあるように、カイも独自に”秘密の隠れ家”を見つけ、そこで日がな一日を過ごしているのかもしれない。きっと、そうだ。
 他人に干渉されることもすることも好きではないなら、一線を隔して別のところに身を潜めるのも無理はない。本人に問い質せば隠れているわけではないと反論されるかもしれないが、要は独りが楽なのだ。その点は、同じ。ただ異なっているのは、大勢の周りだろうが独自の”枠”を作ってところ構わず眠りこけることができるかどうか、だ。カイの場合、例え寝たとしてもフリだけで、かなり細部にわたって周囲に意識を張り巡らせている節がある。人の輪の中では安息を得ない。それでも、確かに随分昔よりは”預けて”きていると思う。
 進んだところで見なれない小さな階段に突き当たる。裏口に備えつけられた簡易のものらしい。様子から察するに大分古めかしく、材料となっている木が全体的に黒ずんでいた。裸足のままそこに足をかけるのを束の間踏みとどまったが、意を決してこの先にあるのだろう上の階を目指す。斜面が急で、足場も細く登りにくい。壁に片手をついて身体を支えつつ、バランスを崩さないよう爪先から体重を落としても、ぎしり、とかすかに階段は悲鳴を上げた。
 辿りついた先は屋根裏のような場所で、畳みは敷いてあるが掃除らしい掃除がなされていた形跡はなく、暗がりの中でも足元に埃が堆積しているのがわかった。ただ、処所光っている部分は、人の足が踏み入れられた痕跡だろう。カイがいるだろうことはわかったが、結局お目当ての人物は姿形もなかった。日の当たらない、それでも窓を締めきっているので生ぬるい空気を吸いながら、部屋を見まわしふと歩を進める。
 小さなガラス窓のところ。窓枠が妙に綺麗だ。
 触れてみて手に汚れがつかなかったことから、誰かが先に拭っていたのだろうことを察する。その誰か、に思い至った瞬間、勢い良く戸を横に引く。がし、と一瞬どこかにひっかかり、次いでぎしぎしとぎこちなくそれは開け放たれた。
 途端、涼しげな風が吹いてきて驚きのあまりかすかに目を見開く。顔をそこから突き出し、反射的に周囲に目を走らせる。多分、近くにいるのだろう。
 どこに。
 最初は左。そして、右。
「…………」
 見つけたのは、靴下を履いたのまま投げ出された白い足先。そこはどう見ても屋根の上で、家の壁にもたれかかるようにして背を預け、両腕を脇にだらりと放り出しているカイがいた。
 正確には、『寝て』いた。
 思わず乗り出した身体を、少ししか開かなかった窓の隙間から鉄棒に乗るように腕だけで支え、器用に両足をまとめて外に出し、次に窓枠の上部に手をかけて上体を押し出す。屋根に敷き詰められた瓦の上に降り立った際、かすかに軋んだ音がした。それでも、カイは気づかない。
 こっそり息を潜め、忍び寄る。
 全身の力を抜いて眠りこけているのだろう、唇はわずかに薄く開かれ、鼻筋を通って浅い呼吸を繰り返している。
 屋根とはいえ、外なんかに出て暑くはないのかと思ったが、北に近い東は太陽の死角であり、心地よい風だけが表皮を優しく撫でていた。自分の後ろに蓄えられた”尻尾”もゆらゆらとそれに倣っているのが良い証拠だ。なるほど、適所を見つけたといったところか。
 不意に、眺めていた風貌に何かしらの違和感を感じる。
 顔形は普段と変わり映えしないように思えたのだが、どうしてだろう。何度か首をひねって眺めるも、そのなぜか、というのに行きつかない。仕方なく距離を詰め、間近から観察する。
 カイが眠るすぐ脇に腕をつき、じっとその様子を推し量る。
 匂いがする。
 匂い、ではなく”薫り”なのかもしれない。
 カイの存在感。かすかなようで、一度嗅ぎ慣れると離れがたくなるような懐かしい感じ。かといって、誘われるように面を近付かせ過ぎると長い髪が触れて起こしてしまうかもしれない。幾分慌てて離れたとき、正体がわかった。
 腕が、露なんだ。
 道理で白い、と思った。
 白、と言っても決して漂白された紙のような色ではなく、白色に近い肌色の様相を意味している。普段は布で隠されている両のかいなが白日の下にさらされ、居場所が日陰であるにしてもやはり薄い色素であるということを眼下に知らしめる。
 カイが素肌を見せるなんてことは滅多にない。
 やせ我慢か主義なのか。どんなに暑い日中でさえ、外出の際にもあまり腕を見えることがない。もしかして、日に焼かせないためなのかもしれなかったが、正式に尋ねてみたことはない。尤も、聞いたが最後『貴様には関係ない』の一点張りで、納得の行く答えを得ることのないまま、終止符を打たれそうな気もするのだが。
 なぜか、どきどきする。
 それがカイの生身の部分だと意識し出したら、急に首を流れる頚動脈の動きが頭といわず額といわず。目の中や口の中にまで影響し始めたような錯覚が襲った。喉にまで心臓が昇って来たのではないかと思えそうなほどの狼狽ぶりは、恥ずかしくもあり、同時に嬉しくもあった。わかっているのは、性急でとりとめもなく、そしてぐちゃぐちゃな心理状態になってしまっているのだということ。ただ、良くも悪くも昂揚しているのだということだけは理解していた。
 カイが布を取り払って二の腕を見せている。それだけのことに、何か”許された”気になるのだ。
 触れても良いのではないか、と。
 相手に気づかれないよう、すぐ隣に気配を殺しながら腰を下ろす。瓦の上は音がしやすい。細心の注意を払って動く。落ち着く。体重を全部下ろし終わると、自然とわずかに開いた口から細く息が吐き出された。
 カイは身じろぎする様子もなく、小さな寝息を立てている。よほど気持ちが良いのだろう。確かに、暖かい空気の中を風が動いているというだけで体感温度は変わる。しかも日陰ならば絶好の状態だ。カイも、よくよく自分に合う場所を探し出すのが巧い。
 色んなことを思いつつも、盗み見るようにして眺めた顔は安心しきっていた。気の抜けた顔というのではなく、眉間の粗が取れ、どこにも力みが見られない。話すとき、威嚇するようにわざと口を歪めることも稀にあるが、無表情であることの多い唇は、今は何の枷もはめられておらず、緩やかな呼吸に彩られている。金色の視線は口元から頬を伝い、喉元を通って肩口からなだらかな筋肉に覆われた上腕より下へ移る。
 恐らく、こんなことを感じるのは自分だけだろう。自覚もあるが、その誘惑には抗えない。
 嬉しい。
 触れられるかもしれない、という事実。
 実際、手を伸ばしさえすれば現実世界のものであるその部分に触ることなど当然可能だ。布で遮られていると、近付いては駄目なのではないか。触れることは禁忌なのではないかというプレッシャーがあった。思い込みも甚だしいと自嘲を浮かべても、やはり思いとどまってしまうのだ。拒絶されているのではないかとの、危機感すら感じて。
 だからこうして、さらけ出されていると安心する。腕に触れて、感触を温もりを確かめても良いのだと言ってもらえているようで。

 ゆっくりと。
 壁に背中を預けたまま、頭だけ、横脇の白き頂きに乗せる。始めは重みを感じさせないよう、重力に倣って無遠慮に流れる髪の先から。水の中に沈みこむようにして、緩慢な動きで頬から頭部を預けた。
 視界がわずかに揺れ動く。それがカイの呼吸だということに、重みを預けてしばらくしてからようやく気がついた。心地よい、気持ちの良い時間。触れ合った箇所は互いの微熱に反応し次第に湿り気を帯びてきたが、それすらも決して不快ではない。
 ゆらゆら。とくとく。
 伝わる呼気と鼓動が波よりもゆるやかに、確かな実感を持って届き、同調する。心地良い空間に、そろりと右の手を忍ばせ、太腿の外側に放置されたままの白い手を取る。
 探るようにして五指の間を見極め、カイの左手をおのれの指を絡めて軽く捕える。この時だけは、この生身は自分だけのものだと言い張るように。
 触れて気持ち良い。
 許されて嬉しい。
 独断と偏見の至福。
 覚醒後の怒れる様を脳裏に描きつつ、瞼を下ろす。
 わがままなのも気分屋なのもすでに承知済み。開き直る確信犯。
 最初の弁解は、そうだな。
 嬉しかったから。

 呆けられること間違いなし。

Copyright(C) PAPER TIGER(HARIKONOTORA) midoh All Rights Reserved.