■ Beyblade ■

雑文 ■

 こつこつと。
 心地良い気分が全身に満たされる。
 頭部からやってくるその誘惑は、一向にそこから這い出そうという気にさせない厄介なものだ。いや、これらの表現をすること自体、自分の中に巣食う”偏屈”を表しているだけなのかもしれない。
 人というのは、誰しも快楽に弱い生き物だから、快いものから離れ難いと思うのは当然だ。そこから抜けだそうだとか、中断させようだとか。まるで禁忌に近い感慨で持って跳ねつけようとするのは、決して素直な心根からではないだろう。無論、そんなことは言われなくてもわかっているが。
 うーん、と夢の中で伸びをしてみる。
 正確には『つもり』だけで、実際には体は少しも動いていないことを自覚している。それでも、若干現実に意識が戻り始めている証拠か、上向いた顎の先、嗅覚が通りぬける風の匂いを察知した。
「…………」
 束の間、沈黙。
 黙らざるを得なかったというのが適切かもしれない。薄く見開いた瞼の間から覗いた風景は、とても優しく、そして静かだった。
 視界に映し出される人物は、勿論カイだ。自分が寝こけていたのは、彼の居場所を訪れその領地を侵害してからだ。だったら、自分の側にはカイがいるだろうし、もしかしたら怒鳴り起こされるのではないかという懸念すらあった。
 若干、後者の方が確率が高いと踏んでいただけに、目が覚めたときに飛びこんできた光景はかなりショッキングだった。この場合、良い意味合いでの衝撃なのだが、もう、そんなことをいちいち注釈できる思考回路ではない。なんだか、本当に軽く眩暈を起こしかけて、夢うつつのはずであるのに妙に半分は現実の世界で混乱しているらしき様相があった。
 ああ。俺はちょっと、幸福者かもしれない。
 このまま土に還ったとしても文句はないなどと、不謹慎なことまで考えてしまう今の状況はかなり危うい。すでに危険を通り越して達観した覚えすらある。
 みんな気のせい。
 わかってる。でも、自惚れさせてくれ。
 カイは何も言わず、風景の先を眺めている。
 時間はすでに正午を過ぎているのだろう。大分長く足を伸ばしてきた陽射しが、屋根のすぐ近くまで差し迫っている。
 それでもここは涼しいし、風が止むことなく身体を撫でている。
 カイの表情は穏やかで、太腿に上体を預けた侵入者のことなどまるで感知していないような風情だ。脱力して身体を明け渡している人間など重い以外の何者でもありはしないのに、壁にもたれかけた身体を起こさず、黙したまま視線を前へと投げかけていた。
 見上げたまま、薄く目線を開いてその様子を盗み見る。気づかれないからこそ得られる至福というのはある。好意を寄せている者のふとした趣。自身の手によっては作り出されぬものであるという嫉妬を差し引いてさえ、見ていたいと思わされる風貌。雰囲気。何でも知りたいと思ってしまうのは、傲慢ではなく率直な欲求だっただろう。そう、自惚れてもバチは当たらないと確信できる。恋をする者は常に臆病であると同時に驕慢であり続ける。
 嬉しいな、だとか、寂しいな、だとか。強く苦い妬みも、それらをすべて混合した郷愁よりも辛い思いが体内を駆け巡り、吐息となって吐き出される。無我夢中で見入っていた証明とばかりに、慕情を吐き出したときにはすでにはっきりと覚醒していることが相手にも知覚されてしまっていた。それくらい、魂を鷲掴みにして気づかせない力を秘めていた。いや、隠されているどころか、理解していた。
「いい風だな」
 このまま何も言わないのも場の雰囲気を悪くするだけだろうと踏んで、差し障りのない言葉をかける。態度を改めるまでに至らないのは、この『膝枕』の境遇が思いの外強い吸引力を持っているからだ。正直にカイに理由を説明しても『馬鹿げている』の一言で一蹴されるだろう。馬鹿だから仕方ない、とは、相手の責めを巧くかわす手立てと本音。適切な言葉の応酬と言っても、実際は本心を語っているに過ぎない。どんなに意思の疎通を見出せなくても、虚偽や虚栄から発されたものでなければカイは真実不快な思いはしない。だから、どんなに自分の考えを否定されてもいつも強気でいられるのだ。
 自分を保てるのは、カイのおかげ。
 ものすごいことだ。自覚はある。だからこそ、無駄に傷つけたり、打ち捨てたり、見逃したり、忘れてしまわないよう心を丹精させる。気兼ねが要らず、それでいて大切にしようという気概を起こさせる者、というのは、やはりどうにも多くはない。多くなくて良いと思う。
 獲物はいつでも一つに限るものさ。
 また妥当とも絶妙とも取れない言い回しが思い浮かび、内心苦笑する。取って食らいたいわけではなかったが、追い求める”目的”ではある。獲物は、いつか手に入れるか逃すかの2通りの結果しかないが、カイとは永遠な気がする。めくるめく自然が繰り返す生命と死の万象と同じ、永久に得られない、相容れない。それでも求めることがその行為に対する答えであるという確信があった。
 迷信、の間違いかもしれなかったが、敢えて正確な答えなど欲してはいない。
 カイはカイで、俺は俺だ。
 その事実、現実に、醜い僻(ひが)はない。
「満足の行く涼が得られたのなら、そろそろ場を明け渡したらどうだ」
 遠くにあった灯火が、弧を描いて手元に戻って来る。そんな錯覚を覚えながら、火よりも赤い紅(あか)の軌跡が辿るのをどこか夢見心地で眺めた。
「ああ。でもここを離れたいという気にはならない」
 肯定と拒否。同じ言葉の線上に繰り出された内容に、それでも言われた側は不快感を見せはしなかった。ただ、口数少なに呟く。
「…どけ」
 この場所に居続けることを承諾してはいるが、どうやら行動の妨げになっているらしい。こうして、カイの膝で寝転がっていることが。
「どこへ行く」
 このまま居座っていてもどうにもならないと珍しく簡単に結論を出し、譲歩するは良いが何をする気かと問う。回答は、果たして得られず。
 無言のまま窓から家の内に入ろうとする背を追った。
 視線を合わせてこないことから察するに、その行動が示すものを探ろうとする挙動を押し留める気はないのだろう。であれば、黙して続く。カイの進路の先にあるものを知る。
 狭く傾斜が急な階段を、壁に手をついて身体を支えることなく容易に降りて行く。慣れているのか、物怖じしないのか、その差はとても曖昧だ。カイの場合、両方という見解が妥当かもしれない。当人は意識しているのか知らないが、どうにも目の前を進む影には『万能』という先入観がある。ぱっと見から他人にそう思わせるだけ横柄な態度であるという理由からかもしれないが、カイの力強い一挙手一動を目にするたびに、そう思わせるだけの根拠が確かにそこに存在しているのではないかと思わせられる。行動力から得られる信頼、というのだろうか。言葉を交わさずとも、容易に相手に”知られてしまう”ということは、逆に誤解を解くことを難しくさせる。
 投げかけられる無償の信頼。何かを期しての友愛。
 多分、カイ自身はそれを欲しているわけではないのだろう。けれど、煙たがっていないわけでもない。あっても邪魔にならないと考えているが、それが自分の行いによって恩恵を得ようとするものならば、あからさまに眉間に皺を寄せる。価値が下がる、とでも言うのだろうか。人の思いにランクをつけるのは少々問題があるかもしれないが、自身に対してプライドの高いカイにとっては、含みのある思いほど汚らわしくも浅ましいものはないのだろう。
 それは、とても難しいことだった。目的もなく何かを欲するのだとしたら、間の抜けた奴か、考えのない非現実主義の輩だ。それこそ夢の国にでも暮らしている、心ここにあらずな人種だろう。
 だとしたら、期待するなと跳ねつけるのは、カイの独特な照れのようなものなのだろうか。
 照れ、と評して、あまりにも現実のカイにはあり得ない、あまり目撃例のないものであったために、ついつい想像して笑いがこぼれる。ごく小さなものだったが、空気にそれが混じったか、前を闊歩する人影を振り向かせるのには充分であったらしい。
 顔だけこちらに、わずかに角度をずらして睨みあげる。
「何がおかしい」
 またいつもどおり勝手な妄想の類いだろうと見当をつけているのか、口調に刺はない。本気で咎めていないと知れれば、正直に答える義務もない。
「大したことじゃない」
 片目をつぶって何もないことを示す。いつも笑っていると言われるが、それはカイを前にしてだけの話だ。今も両の口端が頬を持ち上げて階の下段にある相手を見下ろしているが、大分免疫がついたのか余程のことでなければ目くじらを立てなくなっていた。怒りが免除・免罪されたというよりは、ごく単純な諦めだったのかもしれないが。

 返事をせず踵を返し、再び途に着く。進行方向は屋敷の縁側を回って、どうやら使われなくなって久しい台所の方へ向かっているらしい。木造の鄙びた場所で、普段は使われていないという知識は家の主から得ていたが、そこが一体全体どういう状況になっているのかなど想像もつかない。時折角を曲がる度見え隠れする先導者の表情を見て取ろうと上目遣いに機を狙うものの、うまく行かず要領を得ないまま目的地まで到着した。
 先ほど窓から家の内部に戻る際に通った屋根裏部屋と同じ、黒ずんだ木によってあつらえられた水場。古い竈(かまど)などがあって、懐かしさはあるが故郷のそれとはまた違う。窓からはどこにつながっているのかもう目測すら立たない緑が見える。
 カイは”台所”に一歩足を踏み入れると、すぐさま左の口に消えて行った。狭いだけの『離れ』かと思ったが、どうやら奥があるらしい。
 訝しみながら消えた先に首を突っ込み、覗きこむと、何やら井戸らしきところから水を汲んでいるのが見えた。
 文字で表現するならば、クエスチョンマークが三つほど。横に並んだ状態で首を傾げつつ、身を乗り出してその影に近付く。
「丁度いい。手伝え」
 鬱蒼と茂った木を、要塞に見たてたようなところにある割と小さな古井戸。
 カイは戸口で立ったままの人物に片言で指令を出すと、足元に積んである桶を手渡した。分厚い木の板を湾曲させただけはあって、ずっしりと重い。何をするのか今一つ行動の根拠を見出せぬまま、カイに倣って井戸水を汲む。石で仕切られた内部は冷たく、どこからか風が通ってきているらしかった。
 天然の冷蔵庫、といった感じだな。
 手を突っ込みながら実感し、その場にあった木桶のすべてに水を汲み終えると、カイが顎でしゃくってそれらを運び出すよう命じる。なんでこんなに唯々諾々と従っているのかと自身を怪訝に思いつつ、樽を三つ、頭と肩と手に乗せて移動すると、どうやらそこは台所の隣の風呂場らしかった。
 まさに担いでいる小さな桶を人一人入れる分だけ大きくしたような風呂桶を前に、カイが次々と運ばれてきた水をその中へ流しこむ。長年放置されてきたのだろうと思わされるほど黒いカビが木の表面や中にまで浸透しているのが見ているだけでも知れるというのに、水を満たすことに専念している当の本人はそんなことはお構いなしだ。それとも、カイのことだからすでに何度か洗浄しているのかもしれない。
 まるで何度も経験があるとばかりの手際の良さに、この場所の正体というものがおおよそレイにも掴めてきた。
 カイの涼は、もう一つあったということか。
 納得する間にも、残りの桶を全部持って来いとの命令が下る。
 ここは素直に従って、一緒に涼ませてもらうしかない。
 腹を決め、今度は器用に5つばかりの桶を運びこむと、呆れたような笑いがその頬に浮かんだ。
 蒼い影が差しこめる両の皮膚に、ふわり。

 手伝った分は、それに見合う報酬が約束されるはず。期待でもなんでもない、当然の権利だとばかりに要求すればきっとカイは快諾してくれるだろう。それくらいの、度量の幅は持ち合わせているはずだ。

 一緒にいられる時間が嬉しい。
 カイといられるこの空間だけがいとおしい。
 狭い幸福はやがて外にも広がりを見せ。
 こうして在れることへの感謝と喜びと愉悦が、全世界を覆うだろう。

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