■ Beyblade ■

雑文 ■

 こういう場合、いいか?とか駄目か?とか、どういう質問の仕方。もとい、権利の主張をすれば良いのか少し悩むところだ。
 偉そうな態度で接しようものなら、鉄拳が飛んできても文句は言えないし、おずおずと申し訳なさそうに尋ねるのもカイの機嫌を損ねそうで怖い。
 やばいぞ、完全に尻に敷かれている。
 例えがおかしすぎて一抹の将来への不安さえ感じ、内心青ざめる。そこまで飛躍しなくても、と注釈をつける理性もあるにはあるが、それを頭から無視できるほど心臓の動揺の具合はすでに最高潮。誰かどうにか止めてくれとも思うのだが、このまま天に昇っても一向に構わないとのたまう奴もいるくらいだ。
 カイと、風呂場。
 正確に表わすならば、まだ服をきっちり着こんでいる状態なのでドキドキもワクワクもない。
 ないはずなのに、想像が先走り過ぎて鼻孔から血を噴いて昏倒しても不思議はないだろうところまで来ている。さっきから頬の辺りが熱いのは、恐らく気のせいではないだろう。
 心頭滅却すればなんとやら。先人の言を思いだし、深深と深呼吸する。何度か繰り返していると、酸欠状態だった頭に酸素が行き渡るのと、冷静になってなおのこと現在の状況が未知に近い境遇であることをまざまざと全身に知らしめた。
 そうだ、別に、一緒に入らなくてもいいんだ。
 急を告げる心理状態に待ったをかけるべく、打開策を打ち出す。
 何を最初からともに風呂場で戯れようという気になっているのか。無理もない気もするが、おかしな前提を頭の中で仮想していたのかもしれない。なんだ。そうだ。普通のことなんだ。ただ、冷たい水風呂に入るのがカイより遅れるだけのことで。
 ようやく解決を見出したかに思えた途端、いきなりカイがその場で無造作に服を脱ぎ出した時点で鼓動がまた一回り大きくなる。
 背後で驚いてあわあわしているところに、背中から肌をはだけさせようとしている体勢のまま、胡乱な目つきが寄越された。
「さっきから騒々しいぞ。何がしたい」
 落ち着きがないことを見破られていたらしい。というか、あれだけ百面相を繰り返していれば当然か。純粋に不信だけが浮かんでいる紅い目に晒されただけで、ああそうか、と妙に合点する。
 広い場所で戯れることに対しては何の気がかりも得ないのに、こういう個室で二人きりになると緊張するのは、自分が自意識過剰である所為だ。つまりそれらの原因は目の前のカイにあるわけだが、不純な動機の悪因はやはり自分だ。
 まるで用意されていたかのように、ああ、と嘆息する。
 自分は汚い。カイは綺麗なままなのに、物思いする自身はなんて醜いのだろう。
 カイがカイの物差しで美醜を測っているのは、他一般の人間と同じでごく自然のことだ。
 人にはそれぞれ枠があり、そこから逸脱したもの、もしくは定められたものを見難いものだと判断する。それらが安直に『悪』と評されるものにならないのは、心の機微がそれぞれ異なり複雑に構築されているからに他ならないが、少なくとも眼前の相手には『無様であること』がその『見難い』ものだとの見解がある。潔くない、という決定的な現状。
 いや、待て。
 カイは狭量だが、知識としての常識はある程度兼ね備えているはずだ。殊恋愛に関してそのボキャブラリーの幅が保証されているわけではなかったが、恋するなんとかは見栄えが悪くて当たり前。むしろ、何かにつけて狼狽する様が愛しいだとか、そうでないとか。曲がりなりにも、通念的なことには理解があるかもしれない。そういう、許容範囲がなければ本当に今すぐ切って捨てられそうな気がする。
 だが良く考えてみれば、これこそ自意識過剰の病的症状であるような気もする。
「入るのか、入らないのか」
 強い口調で叱咤され、何のことかと一瞬体を硬直させる。
 台詞の主要を表わす前半部分を聞き流したのではと慌て、眉をへの字に垂れて上目遣いに困惑の表情を作る。媚びを売っているわけではなく、とちらかというと『もう一度お願いします』の意。
「風呂に入るのか、と聞いている。入らないのなら早く出て行け」
 いいのか、と思わず洩れた嘆息を聞き咎め、あからさまに眉間に皺を寄せる。
「その気がなければとうに追い出している」
 憮然と吐き出される言葉の語尾を待たず、ぱっと表面が明るくなる。なんだ、最初から許されていたのか。突然の許諾に犬が喜んでするような、尻尾ぶんぶん気分になる。ルンルン気分で面をほころばせていると、急に冷水を浴びせられた。
「おまえのことは木石と思うからな」
 だから全然問題はないと。
 何の問題なんだ。
 さっと瞬時に顔面神経痛のように顔が強張ったのは言うまでもない。


 遅れるようにして服を脱ぎ散らかし、そっと戸口に手をかける。きちんと脱いだ衣服を丁寧に畳み、先に入った人影を探す。
 決断が良過ぎるのか評価に迷うが、カイは別段気にした風もなく腰に布の一枚もない。かく言う自身もそういうこと、つまりは公衆道徳というのだろうか。水浴びに際し、肌を見せ合うことに頓着しない質なので構わないのだが、本当に石や木のように思われているのだと主張されているようで、わずかながら面白くない。
 こうしてともに入浴できるのだからあまり贅沢を言うものではないだろうが、それでも無視されるのを黙って容認できるだけの器はない。少なくとも、こういう空間では。

 背を向け風呂場にある小さな椅子の上に腰掛ける、白くなだらかな線を追う。
 カイは北欧の血を引いているのではないかとつくづく思う。いつもは秘された部分が露になると、途端にアジアとは別の地域の人種ではないかと錯覚させる。異様とさえ思える抜ける白。赤子の肌だと言えばそれまでかもしれないが、いい加減成長過程のたくましさくらい備えても良さそうなものだと思う。とはいえ、カイは決してたくましくないわけではない。
 筋骨隆々というほどではないにしろ、自身に負けず劣らずの筋力と二の腕、しかも腹筋や足腰に至るまで鍛えてある。日頃から腑抜けた生活が余程嫌なのだろうと思わされるほど、カイは自らに課題を課す。
 両腕両足に重りをはめ、慣れて行くに従って徐々にグラムを増やすというトレーニング方法を取っていることは、出会った当初から知っていた。この場合、何のためにという問いは愚問で、カイにはごく当然の仕様でしかない。
 筋力を蓄えることがすなわち強くなりたいのかと質せば、その通りだと憤然と答える。見ればわかるだろうと目で訴える。自虐的趣味がある輩ではないのだから、こんなことをして苦痛を楽しんでいるわけではない。逆に、克服することに喜びを得ている気さえする。
 ままならなかった四肢を戒める重みから解き放たれたように、身体に筋肉細胞が蓄えられる。極端な鍛練ではなく、地道なものであるために目立ったものそのものがつくわけではなかったが、引き絞られたように削がれ、必要な部分のみが隆起している二腕が見える。同時に胸筋も鍛えられ、鮮やかにも痩身の上にわずかな丘陸を作っている。腹部はまだ肉が足りないのか、さほど引き締められてはいないものの、就寝の前に必ず無言で腹筋運動を反復している姿を見かける。
 成熟には程遠い観がある五体を鍛えるというのは、生半可なことではない。
 野山を駆け回って自然とついた自分の筋肉とは違うことは明白だが、カイの身は自身の高尚さを体現しているように思えて仕方ない。くじけることがあれば、瞬時に霧散する財産。それでも恐らく、カイはそれを手放すことはないだろう。そう確信できるだけの、やはりカイには力強さがあった。意思の強さ。強かさ。眼光や眼差しに宿ったそれらが、見る者の心を鷲掴むように得心させる。
 高慢であると同時に、なんて羨ましいのだろう。
 不敵に笑う頬に浮かぶはちきれんばかりの自信や、侮り。
 それらを卑下させないのは、カイの姿が自身の国に少なからず存在する”修行僧”と重なるからだ。一心に目的をたがえることなく修練を繰り返し前進する。精進する、と言うのかもしれないが、彼らは邁進することを決してやめはしない。飽くことなく繰り返される鍛練に根をあげることなく、そうして心身を完全に近い形に端正させる。並大抵のことではない。苦もなくそう思わせてしまうだけの迫力を、確かにカイは有していた。たとえ本人が否定するだろうことを差し引いても。
 ただひとつ違ったのは、僧であれば外界の者と接触する機会は少ない。ゆえに修行の達成とも言えるその身を余人に触れさせることもない。だが、カイは現実の存在だ。だから、触れてみたいと思う。
 きっと気持ちが良いだろうな。
 単純な欲求だけがある。
 手を伸ばしてみる。ほとんど無意識に。気配を察していたのか、タイミングを推し量ったかのようにくるりと身が翻った。
「先に入るぞ」
 桶に張った水とタオルで身体を拭っただけなのだろう。目の前の存在に絞ったそれを投げかけると大股に脇を横切る。差し伸べた手に見事にタオルが引っかかり、目的を果たすこともなく敢え無く定位置へ戻った。そこに至ってようやく自分が何をしようとしていたか察し、途端に赤面する。先ほどの昂揚感よりもずっと鮮明なそれは、もしかするとひどく質が悪い。見えている部分には興味をそそられて指先を近づけてみたいという衝動は、何か原始的で浅ましい気がする。いつもより、もっと細胞レベルで近くにありたいと自覚するだけに、尚更手に負えないとでも称せば良いのか。
 指が触れて、肌に触れて、それから如何。
 困惑してしまう。その続きがわかるだけに苦いものがこみ上げる。例えそれがちょっとの本音が入り混じった遊戯だとしても、カイは許してくれるのだろうか。
 抱きしめて触れ合えたらどんな感じがするのだろう。望郷の念に似て、なんて侵し難い神域。踏み入れることを強烈に望んでいるのに二の足を踏む。押し留まるよう促す理性がある。
 醜くても汚くても良い。本当の自分で相対したいのが本心。そして、理想。邪念はそれと寸分角度をたがえることなく同じ並行線上に端座し、微笑んでいる。目は逸らせない。それも、本当の自分だとすでに答えが見えているから。見えているなら、受け入れるものだ。おぞましい一面だから、背を向けて逃げて良いという理由にはならない。
 苦笑する。泣き笑いに酷似してなんだかやるせない。
 馬鹿みたいだ。今の自分は、常よりもずっと小心で無能だ。
 タオルを持ったまま微動だにしない影を不審に思ったのか、背後から声がかかる。
 名を呼ぶ。短く。それ以上の言葉は続かない。
「さっきからおかしいぞ」
 風呂桶の縁に手をかけてこちらを見下ろしている。返事がなかったことを訝しんでの再度の呼びかけも、振り向く気になれず前を向いたまま大様にため息をついた。聞かれて困るような代物ではあったが、抑制する意思が働かない。随分疲れているらしかった。それも、自己嫌悪に陥るほど自業自得的に。
 他に人ひとりおらず、相手に大きな息を吐かれれば誰だとて良い気分はしない。行動の起因はおおよそもう一方にあるのだと言われているようなものだ。自分といるこの時間に不満があるのか、と食って掛かられても文句は言えない。
 しかしカイは言わなかった。
 言わず、ざばりと水音がしたかと思った途端、頭からそれを浴びせられる。
 滝のように落ちてくる大量の雨に思わず目を見開き、次いで瞼を伝って染みこんでくる水滴を手の甲で拭った。
「何をするんだ!」
 反射的に怒声が洩れると、つらっとした表情が視界に浮かんだ。
「何も」
 嘯きながら、顎を上に持ち上げる。カイの甚だ見下す仕草に、む、と口が突き出される。機嫌を損ねさせたことを意にも介さず、相手は持っていた手桶を腰の位置に寄せた。
「無生物を相手に何をしようが、不平を言われる筋合いはない」
 木や石云々のくだりを思い出して、さらに眉間に皺を刻む。
 滅多に拝めない怒気をみなぎらせた面だけに、カイの目が嘲りの色を帯びた。
 ふん、と鼻を鳴らす。
「木石にも心があったか?」
 腰掛けから立ちあがり、相手と同じ目線になる。肩を怒らせ見据える。人の思い煩いなどカイには知る由もないだろうが、それにしたって思いやりの欠片もないのはひど過ぎる。なぜなら、無関係というわけじゃない。要因のひとつは、眼前で矛先をいなそうともせずむしろ挑発する人間にあるからだ。
 欲求を殺すのは平気だが、思いを抑えるのは辛過ぎる。即物的な本能の類いなら規制も働くが、相手に起因して沸き起こる衝動というのはどうにも手に余る。思いが強過ぎて、身に余る。わが身一つではもはや抑えきれないとわかるほど、大きく激しい感情。いや、心だけの問題ではないなら、それはもはや感慨とは無縁のものだ。
 情動。大きな流れを動かすだけの力を、絶対的に保持している。それが堪らなく辛い。意のままにならない自身が歯痒い。
 視線を落としてぐっと唇を引き結び、何かを堪えるようにして立ち尽くす。カイに、おのれですらどうすることもできない動揺をぶつけて何になる。それこそ良い迷惑だ。無礼千万とも取れなくもない。一方的な葛藤を、関係がないの一言で片付けてしまえる相手に押し付けるなんて。
 不意に髪が引かれた。
 ばらばらになった上に濡れて重くなった黒の束。
 引き寄せられ、すっぽりと納まったのは焦がれに焦がれたあの胸の中。程よい深さとかすかな弾力と、そして温もり。
 見たまま、肌触りの良い心地が頬に触れ、伝わるのはとくとくと揺れる心拍と呼吸する肺。リズム良く、だが若干速さを得ているようで不思議な安心感がある。わかっている。わかっていた。ここがどんなに安堵する世界であるか知りながら拒んでいた。求めて、抑えて。結局そうすることでしか自分の真心を伝えられないのがもどかしかったのに、単純にこうすることで難題を容易に解いてしまえるなんて。
 相手から。向こうから。
 ためらいもあっただろうが、強く引かれた瞬間、心身の患いは去った。カイはやっぱり強い。他に強く在れるのではなく、カイ自身に対してとても強いと実感させられた。
 だから好きなんだ。好意に根拠を持つことはあまり素敵なことではないかもしれないが、理由があるとすればやはりカイだからの一言に尽きる。
 嬉しい。ありがとう。大好きだ。
 全部の思いが一遍にあふれ出てきて、またもや思考はストップ。考えられない。他のことなんて全部耳に入らない。感じない。これだけで精一杯だから。
 それでも。
 言葉にならなくても表わす方法はある。こういうとき、つくづく自分が五体満足であって良かったと思う。
 ぎゅっと抱き返す。包まれている頭部をさらに身の内に押し付けるように。力を込める。両の腕は鉄の行使力を発揮する。
 痛いだろうな。
 自覚はある。噴き起こる思いの分だけ込めた加減が、尋常でないのはわかっているのだが。
 数秒黙したままじっと耐えていたが、とうとう我慢の限界が訪れたのか、持ったままだった手桶の底が張りつく後頭部を見舞った。
 痛い。ひどい。何も角で叩かなくても。
 ようやく離れた気配を睨みつけ、カイは肩で息をしながら顔を真っ赤に上気させ、思いきり吸いこんだ息で怒鳴り散らした。
「この馬鹿力野郎ッ!」
 掠れた声は普段通りだが、込められた怒りは明白。
 あ、と気づけば白い両腕にはくっきりと赤い痕がついていた。
 万力のようなもので束縛された痕跡がはっきりと。
「………………」
 すまん、とか、すまない、とか。
 こういう場合、どういったイントネーションで謝罪を述べれば良いのだろう。散々悩んだ挙句、出てきたのはやけに流暢な日本語。
「まあ、仕方ないさ」

 それから数日、カイは口を利いてくれなかった。

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