■ Beyblade ■

雑文 ■

「本当に風邪引くぞ、カイ」
 炬燵の布団から姿を現した少年は、白く長い上着をずるずると下から引きずり出した。その様を一瞥してからすっかりそこを占領しきった相手は再び卓上に頭を投げ出した。よほど眠いのか疲れているのか。はたまた心地良いのか。大きい虎張りに横柄な態度を主張している様子を上から見下ろしつつ、レイは再度語りかけた。体のことを気遣っているのは言わずもがな。両肩が覗く薄いシャツの上にタオルを羽織っているだけでは、凍死は免れてもやはり病を引き寄せる。懸念を示して即答された答えに心中嘆息した。
「好きにさせろ」
 しょっちゅう物臭だと指摘されるのはこちらの側だが、今となってはカイの方が『それ』だ。要は一人でいたい時間のようなものなのだろうが、見過ごしておけるほど融通の利く質ではなかった。ならば、と腰を降ろす。
「俺も好きにさせてもらう」
 相手の背後から身体を密着させ、素肌の覗いた肩に顎を乗せる。後ろから人間襦袢のように覆い被されば、脱力していた身体の主が嫌そうな目を肩口の顔に向けた。予期していたことだけに、李は些かも動じなかった。むしろ、勝ち誇った気概さえある。
「文句なら聞き入れないからな」
 鼻を鳴らして勝ちを宣言すれば、嘲笑うように小さく口元を歪める。眼を細め、引き絞った目元を緩めれば意外に長い睫毛と知れる。
「利用してやる」
 ありがたく思え、と。
 お互いが負けず嫌いであることを認識しているのでひと悶着など起こるわけがないが、敵も去る者。口論になればどちらに軍配が下るかわからない。力づくでも采配が分かれるのだから、今更何が最も相手より秀でているのかなどさしたる問題ではないように思える。そのことが障害どころか『認知』という形で存在の承認を行わせているのなら、ありがたみを感じても苛立たしいとは思わない。
「すごく有り難いぞ」
 揶揄を含んで言い返せば、耳にしたきり目を伏せカイは再び休息の体勢を取った。剥き出しになった両腕は卓の上で内側に折り曲げられている。辿るようになぞるように、李は自身の腕も同じようにそれに重ねた。肌の表面は一瞬で冷えている。上から包み込むように掌を拾い上げれば、皮の薄い内部の血流が覗いた。拳骨は鍛えられているが、生まれつき丈夫な肌ではない。むしろ爪は道具を使って日々整えている者でも羨むだろうほど形良く細い指をしている。几帳面に切りそろえられた爪は、持ち主の性格を模して余りあるものだった。すぐ側にある耳の形は沈着に見えて内面は荒荒しい本人を裏切って純朴だ。大き過ぎず小さ過ぎずだが、かわいらしいとの形容が最も近い。それを当人に言ってやれるだけの覚悟はないが、威勢を張っても結局のところカイは暴利を貪るような悪人には程遠い観があった。
 火渡の一門は財力でのし上がり数々の権力を手にした豪族だ。会長を兼務する祖父とは火と水の如く毛嫌いしているようだったが、李自身は恐らくそれが同族嫌悪なのだということを理解していた。似すぎているからこそ、主とした目的のたがえていることを憎く思う。どちらも信念に対して固執し、誇り高くいつまでも同じことを固持しようとする。火渡老人が恐れられるのは彼が手にする実権だけではない。若い頃から武道で馴らした実力が、気迫に武人の魂を宿す。相手を呑むことで勝敗を決して優劣を明らかにするというやり方は、少しでも武術に心得のある者であればよく使う手法だ。試合でなければ使用しない手管を社会の中で実践するにはそれだけ精神的根幹の強さが必要とされる。そこまでのレベルに辿りつけるのは師範並みの力量以上のものがなくては適わない。人間としても武人としても、火渡老人はカイにとって究極のライバルであるらしい。それは、多分老人にとっても同じなのだろう。
 悲しいとか淋しいと思うのは、少年の周りには人が溢れているのに、最も欲するものだけが彼に背を向けている事実だった。誰もがカイを好きになれば良いと思う。愛されて、愛してほしいと思う。今はまだそれが叶わない時点で辛いと感じる。当人はそんな感慨など持ち合わせていないかもしれない。本当に芯から強い人間は、些細なことには囚われはしないのだろう。それでも、本当にしなやかな強さを持ち合わせている者なら、小さなことにも心を砕き、その上で他者にも自身にも強さを体現するだろう。だから、すでに痛みを感じているのかもしれない。こちらに悟らせないだけの厚みをカイは持っているのかもしれない。不運にも生来兼ね備えていたのだとしたら、不幸以外の何ものでもなかった。誰にも気づいてもらえず、強さの裏に隠された敏感にして儚い部分に触れてもらえない。知られることは屈辱だろうが、誰もが持つべきか細く繊細な部分を見過ごされることは同じ人間ではないと言われているようなものだ。王であれば良い。支配者であれば、神と名を偽って人の上の者を主張し君臨すれば良い。でもカイは人間で、自分たちの側にある。特別でも優しく、真実人として必要な部分において他人を庇護することを辞さない。周囲に影響されることなく、正しいと思ったことをいつ如何なる状況でも実行できる。
 自分が最も心を動かされるのは信念の人間だ。それに従い、傷つくことも倒れることも怖れない。薄っぺらな上辺だけの気分だけの勢いなら誰しも持ち得ることが出来る。そんな浅はかで容易いものではなく、もっと、魂の奥から響く真実がたまらなく心を突き動かす。そんな存在を守りたいと言ったら、おこがましいと叱責されるかもしれない。こちらに咎などあるはずがないのに、誇り高さを汚されたと憤慨されても頭を足れるしかないくらいには、気持ちの大部分を明け渡している節がある。『惚れた弱み』では補いきれない大きく温かなものが身内に流れている。それをくれたのはカイだ。もともと眠っていた竜脈を、呼び覚ましたのはカイだ。この思いを形にするにも行動で示すにも、あまりに膨大過ぎて持て余すのが精一杯だった。大人になれば可能になるのかもしれない。そう在るためにこれからも前を向かねばならない。人生の目標など人の巡り合わせで如何様にも変異するだろうけれど、根本的な”きっかけ”だけは恐らく長い時を経ても大きく変化することはないだろう。そう、それくらい好きなんだ。相手に感じる悲しみや淋しさは大いなる愛情と通ずる。自己愛のためならば涙を流せばそれで終わるが、生み出されるのは深く切ないまでの慕情だ。年老いた人間が、若かりし頃目にしてきた故郷の変貌を思い出しては悲しみと懐かしさに暮れるような、時の郷愁と似ているようにも思える。
 間に続く廊下からきしりきしりと小さな足音を聞き咎め、李は器用に耳だけを動かした。音だけで知れるのは、それが何者によってもたらされたかということ。用件もおおよそ見当がついているので取りたてて不意の来客ではない。相手の温もりから遠ざかることに若干の名残惜しさを感じつつ、ゆっくりと体を起こして上着の袖から腕を引き抜いた。
「レイ、お風呂が空いたよ」
 襖を開いて覗いた顔はすっかり茹で上がった赤い顔だった。金髪が乾いたばかりでくるくると巻きあがり、小さなひよこを連想させたが当人は至って気にした様子もない。短く返事をすると、脱いだ上衣を眠るカイの身体に覆い被せてやった。袖にもわざわざ腕を通させ、これで自分が戻ってくるまでの間も寒い思いをせずに済むだろうと確信する。
「カイもここで一休みだったんだね」
 故意にではないとはいえ、寝顔を見てしまったことに罪の意識をわずかに感じているのか、浮かべた笑みは緩やかな苦笑だった。
「僕も寝てるよ。テレビの時間まではまだあるからね」
 どうせそのうち自分たちがいないことに気づいたタカオがけたたましく探しに来るだろうから、とさらに歪めた苦笑とともに告げた。
「今はあっちで何をしているんだ?」
 ここから大分離れた場所に、大きな日本邸には珍しくたった一つのテレビが置いてある。他の仲間たちがいるのは恐らくその居間だろう。
「どこかの親父さんみたく紅白見てたよ。毎年恒例なんだって」
 自分のところは年末はよく海外の母親に電話をかけて実父にお金がかかると怒られていたなあ、と懐かしそうに呟く。去年は母親のもとで家族一緒に新年を迎えられたのが嬉しかったらしい。ただ、仲間同士で、というのも悪くないね、とマックスははにかんだ。
「俺もいつも仲間とだったからな」
 故郷のいずれの場所でもベイの仲間には巡り合えた。すぐさま打ち解けたし、時間の都合で牙族の村には帰れずそこで旧正月を迎えたこともあった。日本の正月はこれで2度目だが、タカオの一緒に新年のカウントダウンをするんだという提案は悪くないものだった。除夜の鐘が鳴るのを聞きながら蕎麦を食べて、テレビの時計を眺める。年が明けたら一斉に皆と向かい合って『あけましておめでとうございます』と頭を下げるのだ。馬鹿馬鹿しいとは誰も言わなかったが、気恥ずかしさは若干ある。が、それもみんなでやってしまえば同じことだ。今年もよろしく、と定例句をつなげればどっと場が沸く。よろしくされたくない、と揶揄の篭ったツッコミが入ったり、早速祖父にお年玉をせがんで叩かれたりととにかく色々あった。
「でもお年玉は確かに楽しみだよね」
 父親が自分たちのために小さな袋に包んでいたことを目撃していたのか、少年の小さな笑みが一層深くなった。
「何と言っても新しいパーツが買えるからな」
 無償で金銭を受け取るのは少々気が咎めるが、祝いの場であれば罪の意識も薄い。人が集まる祝儀の場所では子どもであるからこそ受ける恩恵というものが些細な幸福だった。
「不謹慎だけど、それが嬉しいんだよね」
 お金を目的に駆けずり回るわけではないが、本気になれば色々なところからお祝いをせしめることが出来るかもしれない。ああ、でも。とマックスは羽織ったカーディガンの上から腕を組んだ。
「タカオは本気で大転寺会長のところまでお年玉を貰いに行くと言っていたよ」
 もちろんヒロミちゃんがとめてくれたけど、と肩を竦めて話す様はかなり他人事ではないようだった。
「ベイのこととなると節操がないからな」
 呆れ果てて嘆息すると、炬燵の中の住人が胡乱そうな目をこちらに向けてきた。話が長かったのでどうやら起こしてしまったらしい。
「そんなところで立ち話をしていたらおまえたちも風邪を引くぞ」
 頭を一向に卓上から上げず、それでも機嫌はあまり損ねていないのは聞いていた話題があまりにも下らなかったせいだろう。
「お正月早々風邪引きは縁起が悪いね」
「俺もさっさと風呂から上がってここに戻ってくるか」
 そしてまた一緒にいるんだ。
 言外にささやかな誓いを込め、やれやれと好きではない風呂場に足を向けた。襖を閉める直前、その背に小さな声が聞こえてくる。
「できればタカオに見つかりたくないと思ってたりもするんだよね」
 くすくす、とマックスが笑い。
「やって来たら奴もここに引きずり込めばいい」
 居心地が良過ぎるのは不可抗力だ。よほどの意気込みがない限り誰も抗えない。
「コタツでハッピーニューイヤーてのも結構オトクかもね」
 その場合誰がカウントダウンを取るのか。
「レイの奴の腹の虫で数えられるかもな」
「それはしょっちゅう過ぎるよ、カイ」
 たしなめられて憮然とした口調が返る。
「だったらキョウジュのパソコンでカウントダウンしてもらえばいい」
「あれは便利だけど日本の情緒に欠けると思うよ?」
 外見はもっともらしい欧米人なのに、趣向は全くの日本贔屓。さすがのカイも静かな物腰ながらぞんざいなしゃべり方になる。
「だったらどうしろと言うんだ」
「みんなで爆睡。これに決定だね」
 ウインクひとつと完璧な自己完結の親指が眼前で主張。
「…おまえも結構ワルだな…」
 どこかの時代劇のような会話が展開されていた。

 その後、何かの危機を悟った李がお風呂場の水を頭から被って早々に炬燵の間に帰還したというのは、言うまでもなかった。

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