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無題007

 途端に意識が冴える。
 リミットがこれ以上負荷を受けぬよう、強制的に覚醒させたと言う方が妥当だ。瞳孔が開く。呼吸が止まる。目という目、喉という喉、あらゆる粘膜が乾きかさつく。
 広げられた眼球に、刻まれるのは空気の穴。暗紅い星が干からび死に絶えるがごとく。無意識に停止していた呼吸をゆっくり、肩からつま先まで巡らせる。視界の中に、人影があることに気がついた。
「大丈夫か」
 案じているのは声音を聞かなくてもわかる。外から洩れる逆光を背に、白い服の主が見下ろす。両手首を頭の脇に固定され、押さえつけられていることにようやく思い至り、もう一度相手を見据える。
「うなされていたぞ」
 遠くから見下ろすように視線を加減しているのは警戒してのことだろう。普段であれば、拳のひとつでも飛ばすところだ。触るな、と。生憎、その元気は今のところない。
 小屋。木々を走る風さえも声を潜め、蒼い闇が落ちていた。起こしてしまった詫びもない。上体を起きあがらせる気力もなく、茫然と天井を見上げる。張り巡らせた蚊帳を束ねた箇所が映る。
「悪い夢だったか?」
 身体が覆い被さり、抱きしめられる。悪くない。
「…匂いがする」
 え、と顔を上げる。正面に、拓けた黄金がある。
「ちゃんと洗ったぞ?」
 ふんふんと鼻を利かせて自分の夜着を探る。動物じみている。いや、実際畜生だ。半分は。侮蔑ではなく、多少うらやましくある事実。
「貴様のは洗っているとは言わない。烏の行水だ」
 そっぽを向けば、熱いのは嫌いなんだと愚痴がこぼれる。寒さにも弱いわで、ろくな身体をしていない、と毒づく。
「苦手なものは仕方ないさ」
 結局これだ。オチはすべて同じ。進歩なしだ。風呂があまり好きではないと言っては頭を洗ってやるような手間をかけさせ、挙句の果てには濡れたまま服を着ようとしやがる。どういう育ちをしていると、責任者を咎めようにもすでに相手はなし。一族はみな聖獣に選ばれ、短命で終わる。物心ついたときには李は一人であったらしい。不憫な、とは思わないが、苦労が知れるというものだ。だが、それとこれとは意味が違う。
「臭いと言ってるんじゃない。良い匂いがすると言っただけだ」
 聞き間違いだと訂正する。あまり、明確にしたくなかった部分を言わせやがって、と理不尽な怒りが沸く。案の定、いい気分のしない顔が覗いた。だから濁したのに、それも策の内ってわけか。
 腕に力がこもる。抱きしめられ、相手の白に鼻先が埋まる。全身を駆け巡る他者の体臭に、薄く目を閉じる。悪くない。夜露が薫る、葉の匂いがする。今まで知ることのなかった、森の残り香。
 ぼう、と疲弊した精神が再び安住の地を得て沈みこむところに下肢に違和感を感じて瞼を持ち上げる。
「何」
 首を起こせば、股間に手が忍び寄ってくるのが目に入った。
「おい?」
 声で非難しても悪びれない。首根っこをひっ捕まえて噛みつく。捉えた頭にはにやり、と底意地の悪い笑いが浮かんでいた。
「カイはやらしい」
 反論しようとすると、手の中にあるものを誇示するように見せつけられる。
「こんなにしなってるぞ」
 揶揄ではなく、実証。ち、と鋭く舌打ちした。隠すつもりもなかったが、見つけられれば厄介なのは明白だ。
「不可抗力だ。触るな」
 命じたところで意に介すような輩ではないことは十二分に承知。だが言わずばなるまい。
「どうやら悪い夢じゃなかったみたいだな」
 さも愉快そうに月が笑う。言っていることは下卑ているのに微塵もない。その手の卑屈さが。
「悪夢だ。それ以上でも以下でもない」
「そうなのか」
 一瞬。呆気ないほど簡単に、笑みは解かれた。今度は本当に心配している口調だった。表情も、先とは打って変わって思案げだ。よく使い分けてやがる。
 手を放し、見つめる。子どもの癖に父親か兄貴面するのは面倒だ。思い煩わせるというより、純粋にいやだった。とうとう本格的に戯れをやめてしまった相手に投げかける。
「来ないのか?」
「やめとく」
 臍でも曲げたかと錯覚するほど、真摯。苦笑いがこみ上げた。
「そうか。俺はセックスしたいがな」
 やっぱりそうなのか?と声を張り上げる。夜には響く。うるさい。咎める様子は、心配して損をしたと訴えているようで。
「俺は嘘はつかん」
 顔をしかめれば、再び覆い被さる影が差す。不満が興ろうが、要求されれば応じる、といった風情だ。否も応もないのだろう。嬉しさが、滲む。
「貴様も好きだな」
 上着の裾を割って距離を詰める手のひらを、今度はまともに皮肉った。憮然とし、次の瞬間やはり意地の悪い笑みが片頬に浮かぶ。
「俺にセックスを教えたのはカイだ」
 若干、拗ねてでもいるかのように口先を尖らせる。責任逃れも甚だしい。どういう根性してやがる。
「俺も初めてだからあいこだろ」
「嘘だな」
 取って返される。間断もない。さっき偽りは好かないと言ったことを聞き流しやがって。憤然と怒りが沸くが、腹を立てても仕方ない。初めて行為に及んだとき、未経験の相手に手ほどきしたのだろうと問われれば、その通りだと答える以外にないから。
「勘違いするな。奴らとしてたのはセックスじゃない」
 とはいえ、ここで懇切丁寧に言葉の中身を説明するのも馬鹿らしい。
「じゃあ、何なんだ」
 わずかに頬を膨らませ、上に重なった者は問う。逆光だったが、光は淡く、影も薄い。濃くて明確な眉の筋や瞳が見える。避けるように口が歪んだ。吐き出すのは汚物と大して変わらないもの。
「ファックだ」
 一時停止。思考。妥当。納得。李はこくんと頷いた。なんとなく、わかったという合図。
「クソと同じ。他人の穴にスペルマを垂れ流しただけだ」
 自意識と一緒に両腕を外へ投げ捨てる。自分で言い出したことだったが、胸糞悪い。気分は最悪だった。小さく謝罪の声が届く。
「すまない。カイを傷つけるつもりはなかった」
 曲者だ、とつくづく思う。そうやって、下手に出る。非を感じたことには従順に気持ちに従う。しおらしい、を通り越して純粋に腹が立つ。流される自分がいるから。
 うなじに腕を回し引き寄せる。熱が絡まり、呼吸が止まった。弾むような吐息と、リズムよく跳ねる音。容赦のない口内の交合にもつれ合った肢体が夜の波に横たわる。




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