駄話
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あまり笑えない気持ちで天を仰ぐのは、上におわす神に祈りを捧げるためではない。ましてやここには、小さな恋人と肩を寄せ合いながら見上げたいような星空が見えるわけではない。 だが実際、首が痛くなるような時間を天上を睨んで過ごしているのは紛れもない事実で、なおのこと当人を不満な面持ちにさせていた。 「カミュー」 傍らの椅子で小冊子を片手に持ち、読み耽る者の名を呼ぶ。口調は闊達だが、声音がなんとなく詰まっているのは気のせいではない。 「いつまで俺はこうしていれば良いのだ」 問いには答えず、隣人は椅子の外へ投げ出されていた腕を膝の上に戻す。その長い指に携えられていたのは、白くて柔らかいもの。尖指によってくるくると巻かれ、立派な尾ひれを備えた小さな紙縒りになっている。硬くなり過ぎないよう、細心の注意を払いつつ作られた塊を相手に放り、美貌の団長はにべにもなく断言する。 「その流れ出る物体が止まるまでだな」 その直後、かすかな身じろぎとともに栓がそろそろと抜かれるような音がする。そして定位置に戻った場所で、途端に祈り人は顔の表情を歪める。わかりきっていることではあるが、他人に改めて言われれば従わないわけには行かない。もうしばらくこの体勢を維持しなければならないか、と寄越された『詰め物』を睨む。 短いため息とともに、するすると先ほどより幾分小さめの塊を、その物体がお役目を果たせる場所に改めてあてがう。抜き取ったものを屑入れに放ろうとして、再度上を向いてしまった手前、どの方角に投げやるべきか見当もつかず、手だけで右往左往する。と、何かにぶつかったかと思うと、指からその物体をさっさと奪われたことだけがわかった。誰に、というのは暗黙の了解なので追求はせず、素直に上を向いて安静にしていることを努めた。 屑入れ直行と思しき物の端を指で持ち上げ、感慨深げに眼前に晒す。無論、先刻までの持ち主である人物には窺えない事態である。もし視界に収まっていたら、苛立たしげに手の内から奪い取っていただろう。人がゴミだと判断した汚物にまみれたものを、吟味するように眺める奴がいるか、と。実際その通りだが、鮮やかに染まった色には何ら不快なものが付着している節はない。それどころか、奇妙な感嘆すらある。 鮮やかな、新鮮な色彩だ、と。 すぐ先ほどまで体内に収まっていたもの。堰を切って溢れだし、柔らかい白を重たい真紅に染め上げた生命の色。それを抱えていた者が自分にとって興味深い対象であったのなら、また格別の意味を持つ。排泄物ではないにせよ、他人の身体から放出された物体が染みこんだ代物を観察しているなど、如何に天下に名立たる玲瓏な風貌を備えた主がやっているとはいえ、あまり正視したい場面ではない。が、当人は結構神妙だった。 自身の団長服も、このように重い色をしていれば良いのに。 充分に染みこんだ色相は、奥深いほどの落ち着いた色合いを見せる。時間が経つにつれて錆びた銅のような色になってゆくのだろうことは明白だ。いや、だからこそこの瞬間が惜しいとの趣が存在するのか。 死んだような鈍色に変色する過程を見るに忍びなく、カミューは突如として眼前に持ち上げていた腕を下ろした。机上に置かれた箱から同じような白い紙片を取り出し、鈍い赤なる物体を何重にもくるみ終えると、興味を失したかのように遠くの屑入れに放り投げた。壁にぶつかることなく優雅に曲線を描き、目的地へと落ちる。それを確かめると、まだ椅子にもたれたまま上を仰ぐ青年へと視線を戻した。 祖国の人間特有の大柄な身長であるがゆえに、本来なら後ろ頭に椅子の背が当たり、首への負担が軽減されるはずが、持たせるべき縁は肩甲骨の辺りだ。哀れだと思うと同時に、滑稽な恰好を崩すことなく実行し続けている姿勢には脱帽する。いい加減だるいのであれば、少しは楽な体勢を見つければ良いのに、と思う。自分自身に融通という折り合いをつけられない人間には、そんなことは考え付きもしないのだろう。他者に対して寛容で、自身に窮屈だというのはどうにも矛盾している。ただ、そのことに本人が苦しんでいる事実がない以上、詰め寄るだけ無駄というものだが。 「早く止まると良いのだが…」 鼻の詰まった好聴音が届く。片方だけなのでわざとらしくはないが、わずかな声音の変化とともに息苦しさも感じているらしい。まるで猫のように口で息が出来ないのか、律儀に鼻腔から呼吸を繰り返している。おまけに体勢が辛いのであれば、当人にしてみればちょっとしたダブル・パンチなのだろう。耐えられない代物ではないようだが、不恰好であるということは少なくとも自覚しているらしい。 がたり、と椅子をずらす。 身動きする気配に驚いたのか、天井を見上げる顔が少しだけ強張った。何をするつもりかと、あまり視界の利かない目線だけを動かして問う。 横脇から後方へ回り、全く死角になってしまったあとでは声で問い質すことも忘れてしまったらしい。そのまま、椅子の後ろと前をくっつけるようにして間を跨ぐ。前に倒れ込むように無防備な後頭部に顔を寄せれば、ようやく見つけた相手の姿に再び双眸が大きく見開かれた。問われるより早く、唇を横顔に近づける。腕を回し、首から上を抱えるようにして包みこむ。まさに流れるような動きだった。 「ご感想は?」 無償で提供されたサービスの評価を問う。 相手に任せたことによって、頭の重さは感じなくなっていた。悪いわけがない。そう言おうとして、だが閉口する。すぐ横にある端正な表情から、相手の呼吸が直に接するからだ。放たれ、体温よりも低くなった、冷たくて少し鋭いものが、頬を流れて首筋に辿りつくような感覚を妙に意識する。錯覚だとの理性が打ち出した見解は間違ってはいないのだろうが、想像はリアルで生々しい。その効果を期しての行動ではないだろうな、と内心訝かしみつつ、マイクロトフは半ば諦めたように頬に苦笑いを浮かべた。 「暑苦しいのが難点だ」 それ以外は。 先を言わず、ほ、と全身の力を抜く。 ずしり、と綿が体内に沈みこむような重みを捉えながら、カミューは片頬だけを器用に歪めた。 「それは上々」 団長、力み鼻血事件簿。 |
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