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空の民草の民 ■

 傷痕が浮き上がる。薄い、かすかに血が錆びたような色の中、盛り上がった部分が白い峰を作る。
 傷跡というものが、そういう代物であると見知ったのは、いつの頃だろう。怪我を負った理由というものもすでに忘れている、指のそれを見つけてからだ。
 ほの赤い部分は”腫れ”で、傷がふさがるまでには色は失せてしまうだろうと思っていたもの。それが一向に色彩を失わず、左の人差し指の腹と背のちょうど境目に今も端座している。
 大きさにすれば糸ミミズが這ったような程度の些細な『勲章』だが、これが熱を帯びると花が咲いたように”目立つ”ものへと変化する。だが、内側からの発熱にはあまり反応せず、外からの刺激によって鮮やかさを増すことは、おのれが信頼する者の中で至高の存在である男によって知らされた。
 遠い北のロックアックスの、浴室で仲間たちと談話するその勇姿。腰に長めの白いタオルを巻き、長時間、異常に湿度を高めた部屋の中に居続ける。マチルダでは珍しくもない。いや、生粋の生まれである彼らにとっては、入浴とはこういうものなのだ。
 焼いた石を水の中に大量に投げ入れ、視界がほとんど利かないかとさえ思えるような多量の蒸気によって汗をかく。汗腺が開き、中から汚れを排出した上で体を清潔な布で拭うことが『体を洗う』ことだ。苦行とも思しきこの風習に、最初は面食らい、何度も眩暈を起こしてそこから運び出されることも少なくはなかった。
 彼らがもっと幼かったときには、身体を蒸気で充分に熱したあと、外に降り積もった雪の中に飛び込ぶなどという娯楽もあったのだそうだ。現に、十代半ばまで、浴室からこっそり飛びだし、冷たい井戸までタオル姿で我先にと走り込んでいた姿も目撃している。当時はよくやる、と思いつつ目の端にいれる程度だったが。
 そう思えば、故郷の入浴とは全く異なるものだった。
 グラスランドの大地自体、水に潤った土地というわけではない。無論、場所によりけりだが、そのほとんどが荒野と砂塵に包まれていた。大きな集落になれば、水資源を確保することも可能だが、やはり稀少だということには変わりはない。ロックアックスのように、冬にも夏にも山から水の恩恵が与えられる摂理でもない。
 ゆえに、もっぱら身体を拭う程度にしか、身を清めることはできない。だが、手立てがないというわけではない。少しだけ贅沢をしたいと思えば、温めた水を張った浅いバスに浸かることもできないわけではない。ただ、それは割と上位の官僚の家でしか行われないことであって、夏の水浴びの季節でなければわざわざ濡れに行くということがなかった。
 だから、最近、見ていないな、と思う。
 全身を、それこそ至るところまで剣という鞭を浴びせられたかのような傷痕の数々。モノによっては星型をしていたり、綺麗な一本線だったり、削がれたような大きなモノまである。
 そのどれもが、マイクロトフという人間の肌の上に施された刻印のようなものであるというだけで、別の生命が刻まれているような錯覚を覚える。本来、まっさらだったものの上に、幾重にも散りばめられた無数の戦跡。そこへ何度も手を這わせ、唇を辿らせたというのに、まだ味わい足りないという飢餓を彷彿とさせる。
 そして思い至るのは、どうして彼は故郷と同じような入浴が取れずに、不平のひとつも言わないのだろうか、という疑問だ。与えられたものならば文句も言わず甘受し、困難と捉えれば打破する気概はよく知っているとはいえ、理不尽な苛立ちがここのところ落ち着きを見せない。
「ロックアックス流入浴というものをここでもやってみないか?」
 持ちかけたのは、そんな鬱憤が溜まりに溜まっていたからに他ならない。当然、言われた本人にはわかりもしないもので。
 頭から何を言っている、と呆れられ却下された。望郷の念の欠片もないのかと思わなくもないが、そうではない。
 郷に入りては郷に、というのが堅物マイクロトフの理念だ。そのことに時折苦痛を感じてはいるものの、普段は欠片も見せない。本気で大丈夫なのか、それとも外見だけなのか。あるいは、平気だと自己暗示でもかけているのか、カミューにだとて区別のつけようがないときがあるが、大体は『気にしていない』のだろうと思う。むしろ、生活面で不平を積み重ねるというよりは、対人の面で積んでいる気がしないでもない。結局『人の好い頑固者』という定評で終わるのかもしれないが、そのことを少しも引け目に思っていないのがマイクロトフが”強い”所以だ。
 単に図太いのだということは、当然の認識過ぎて改めて確認する必要もない。
「カミューが『マチルダ式』を気に入っていたとは知らなかったぞ」
 私が入るんじゃない、とつい本心が出そうになり、咄嗟に押し留める。こほん、とわざとらしく咳払いをして真正面からその端正な相貌を見詰めた。実際、穴が空くほど眺めても飽きない造形だ。
「いや、そろそろ疲れが溜まっているのではないかと思ったんだよ」
 善意からだということを照れもせず前面に押し出す。知能犯だ、との自覚はあるが、だからどうした、という態度だ。内にも外にも。
 カミューに変わって今度は遠く故郷を離れたマイクロトフには、それらを懐かしむ感慨にふけることはないのだろうか。あまり傍目に匂わせていないので捉えにくいが、恐らく心のどこかにはあるのだろう。かって、自分がそうだったように。あるいは、その強い思いを超えて存在し得る”何か”があるのか。昔、自分がロックアックスに居続けることを押し留めていたもののような。
 その想像は、自惚れが過ぎているとは思うのだが、マイクロトフ自身に揺るぎが無いのが良い証拠とも思える。では、好きなように思いこませてくれ。
「もしかして、俺は何か、臭いか?」
 突如怪訝な表情をしたかと思うと、おもむろに自身の服の袖に鼻先を押しつける。しっかり拭いているつもりだが、と呟く様をカミューは呆気に取られて眺めた。それは当然だ。行為の後、執拗に身体を清めているのは自分だ。汚れが残っているわけがない。というか、そんなはずがないではないか。
「違うよ、マイクロトフ。言い方が悪かったかな」
 困惑したまま落ちてきた前髪をかきあげる。嫌味な動作ではないが、何某か色気のある仕草だと良く言われるそれだ。マイクロトフは、極力視線を合わせないようにしている。どうやらお気に召さないらしい。
「ただ、私が見てみたいと思っただけだよ」
 勝手にマチルダを懐かしんでいただけだ、と吐露する。何よりも慣れ親しんできた土地だ。マイクロトフの姿を通して、その背後に山の峰が連なる風景を見る。第二の故郷に対する望郷の思いは、もしかしたらカミュー自身の方が強かったのかもしれない。
 友人の台詞に、よくわからんが、とマイクロトフはぼつりと洩らした。
「確かに一緒に風呂に入る機会はなくなっていたな」
 どこにいても、自分たちが入っていたのは大衆浴場だった。ロックアックスの城の内部でも然り、デュナン城の銭湯然り。立派な設えの中で、仲間や部下とともに芋洗い状態であったことを懐かしく思い浮かべる。
「裸の付き合いは毎夜しているけれどね」
 瞬間、得も言われぬ形に、マイクロトフの顔面が硬直した。かと思われた途端、どす黒い色に染め上げられる。それは見るも鮮やかな変貌振りだった。
「毎晩ではないっ!週に2、3回だ!!!!」
 律儀に今までを振りかえって、情事の数を数えてくれたことに感嘆を覚え、心底から称賛する。ぱちぱちと、絹の布地で覆われた手の上から拍手を送る。
「当初の予定では『月に』、だったけれど?」
 呆気に取られるとともに、次なる台詞を言い出せず、腹の底から唸るような声が黒髪の青年から洩れる。くくく、と身体を折り曲げて笑いを噛み殺しつつ、カミューは満面の笑顔を与えた。
「いいんだよ。私は果報者さ。その自覚があるんだから、良いんだよ」
 何が。一体どれを根拠にしてそう言い放ってしまえるのか。
 おのれの幸運をよく理解しているから、そのことを僻まれてどんな罰を与えられようとも甘んじて受ける、と、そういう意味なのだろうか。おおよそ不敵だ。自信過剰とも取れなくもない。それでも微笑ってしまえる。飾り気のない笑みに含まれた純粋な本心が、見る者に威圧を与えるものでは決してなかった。
 ふん、と幾分不満そうに鼻を鳴らし、マイクロトフはそっぽを向いた。いやがって、というのではなく、態度で不承不承だということを表わしたかったのだろう。
「だったらいつか、また。マチルダ式でも何でも、自分たちで風呂を作って入ればいい」
 カミューは自身の微笑を指で支えた。
「それは、この上ない誘い文句だね」
 自分一人に手掛けさせるのではなく、一緒に、と言ってしまえるマイクロトフの魂に束の間感じ入る。
 ”おのれ”を絶対に恥じない。言外に含まれているのは、存在に対する自信でもある。そして、そんな言葉を歓迎してしまえる自分自身にも。
「俺も、ロックアックスの風呂に入りたいからな」
 ぼそり、とぶっきらぼうに呟く。
 襟元から少しだけ覗く首筋が、ほのかに染め上げられていることを見つけ、カミューはさらに破顔した。
 手を触れなくても、咲かせられる『花』があるのか、と。
 彼の全身は、今どんな色を見せているののか。
 ふと、知りたくなって腕を伸ばす。
 指先が獲物に到達するまで、あと、数秒。

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