空の民草の民
■
|
冷静なつもりでいた、とは、どちらの台詞なのか。 背後から圧し掛かられ、マイクロトフの頭はパニック寸前だった。 丁寧に時間をかけて施されていた前戯が一転して、なんだかわけがわからなくなりつつある。と思うのは、恐らく考え違いではない。そもそも、自分を押し倒しているカミューに、一体いつ如何なる理由で『余裕をなくした』のか。尋ねる暇もなく、こんなことになってしまった。 いや、これはなって然るべき状態だ。 頭の一方では状況に理解を示しながら、もう片方ではこれは違うのではないかとの異論が上がる。どちらが正しいのか、理性が審判を下せないのは、マイクロトフにとっても次にどんな衝撃が来るか予想も出来ないからだ。 おい、とか何とか。声に出してみようと思うのだが、いつのまにか長い尖指が後ろから伸び、唇を割っている。故意にではないにせよ、おのれの吐く息によってその先端から2関節まではすでに湿り気を帯びている。 左頬に当てられた形の良い口元からは、幾度となく熱い吐息が吐かれ、相手の携える長い前髪を揺らしている。余裕がないのはこちらも同じだが、それにしてもこれではあんまりだ。 あんまり、というからには、何か理想があったかと言えばそうではないが、普通男女の交合でもこんなに慌ただしいものなのだろうか。浮かんだ疑念に、自身の経験を振り返ってすぐさま頭を振る。 その間も下肢に及んだ繊細な指がしきりに蠕動して、マイクロトフ自身を追い詰める。後ろに当たるものの形から、カミューも興奮しているのがわかるが、膝立ちのまま背後から羽交い締めにされているような体勢では何も出来ない。 これでは一方的過ぎる、と思った瞬間、追い上げられるより先に相手の右手に歯を立てた。 小さな苦鳴とともに、隠れていた視線が持ちあがって射竦める。まるで野心にぎらついているように鋭さを増し、白い肌にはっきりと浮かぶ柳眉は率直な怒りを表わしていた。 「カミュー、おまえ、おかしいぞ」 それでも断続的に与えられる指の動きを止めることは叶わず、乱れる呼吸を抑えつつ懸命に言葉をつなぐ。必死の親友の問い掛けに、だが男は答えなかった。答えぬ代わりに、強く前を扱く。握りこまれ、根元から弄られ、思わずマイクロトフは目を瞑った。与えられるのが愉悦ではなく苦痛を訴えるかのように、ひどくしかめられた額に新たな汗が伝う。 わかっているんだ、と声にならない声でカミューは告げた。脳髄に直接届くような、蠱惑的な声音でおぼつかない舌を動かす。 ただ、今だけは見逃してほしい、と自らの負けを認めた。必ず自分を取り戻すから、と相手の意見を取り合わず指に新たな力を込める。 本能的に起こった震えで到達点が近いことを示すと、マイクロトフは間を置かずカミューの望むとおり手の中で吐精した。 恥じらいもなく、大きく胸を喘がせ、背後から体を支えられる形で息を整える。急に温度の上がった相手の肌に残った余韻を味わうように、そろそろと唇が上をさ迷う。昇り立つ匂いを嗅ぐように、鼻先が髪の中に紛れ、そして耳裏から目尻に移る。その間も何度も唾を嚥下する無骨な音が届き、ちろちろと唇の隙間から赤い舌が見え隠れしていた。 マイクロトフが冷静な判断がつけられるようになった頃を見計らい、歯型のお仕置きを受けた右手が胸筋を辿ってすでに興奮の名残も留めぬ前へと再び添えられる。動きの目的を掴みきれず、今度はおまえの番だと言おうとして言葉を飲みこむ。先ほど性急な愛撫を施していた相手の左腕が、今度は後ろから足の間を縫って明確な意図を持って進んできたからだ。 衝撃はなかったが、それがどういう意味なのかと聞かれれば答えられなくもない。陰嚢の裏をひと撫でし、柔らかい筋を通って目的の場所に宛がわれる。 ぞっと背筋が泡立った。 ただ、それは嫌悪だけではなかった。まるで何かを熱望し、切望するかのような呼吸を身近に感じながら、与えられた感触を、本能は受け入れようとしていた。 頭ではどう思考を巡らせたとて、行為に対する答えは是とも非とも出ない。ならば、良い、と。構わないのなら、享受しようと。わずかに身体を硬直させたまま、濡れた指が内側に食いこむのを待った。 思ったほどの、と言えば語弊があるだろうが、想像していたほどの痛みはなかった。代わりに、何かむず痒い感覚が入口から広がる。微細な動きの一つひとつにも、カミューが細心の注意を払って進めていることがわかった。瞑目したまま慣れない感触に耐え忍びつつ、無意識に口元を引き締める。それに気づいた相手が、詫びるように温もりを重ねてきた。 内部を侵しつつ、唇で語らう。 くらくらと当惑を覚えながら、半ば必死に柔らかい舌を吸った。完全な密着という形を取れず、はぐらかされたように時折離れるのを逃すまいと開いてはまた吸いげる。 自分は、もっと柔らかい接吻だけを知っていた。与えるにしても与えられるにしても、それはひどく優しい時間の流れる行為だった。互いが互いを認識し、ゆるやかな愛情の高まりとともに繰り返す。だから、カミューと交わすことはむしろ違和感を感じていた。 根本的に、女性に対して与える感情とは違う。おぼつかない知識だけで言えることは、ただ、遠慮は要らないのだという事実でしかない。意地を張る必要も、絶対的に強く在らねばならないという男の建前も取り払われる。それを怠慢だと評す者もいるかもしれないが、カミューほど容易く、そして動かし難い人間というのも他にはいないだろう。一つの事に偏って難しく考え続けるとドツボだということは、日頃から周囲の友人知人に指摘されていることなので、あまり深くは考えない。楽だけではなく、難いと思うのなら、それだけで対として存在する価値はあるのではないか。少なくとも挑む目標にはなる。そう、思うことにする。 また一段と刺激が強くなったと思われた瞬間、内をかき乱すものが2本に増えていることに気づく。止められなかったのは、浅はかな考えに思考を埋めていたからだ。それでも貪欲に唾液を貪りあっていたのは、如何に行為に没頭しているかということを示唆していたのだろう。 唇の交合の合間に洩れる吐息の都度、小さく名を何度も呼ばれる。その度に神経はどんどん麻痺して一切の考えがどこか遠くへ追いやられる錯覚を覚える。熱くて冷めたような感情だけが、意識に残る。 膝立ちの恰好のまま指の動きだけを追い、カミューの欲情を促す。性欲の達成に順番があるわけではなかったが、早く目的を達させてやりたいというわけのわからない使命感があった。こんなときにも真面目だな、と汗の中に微妙な笑みを浮かべ、緩められた視線が注がれる。 だが、マイクロトフは相手の台詞など聞く耳持たなかった。合図のように引き抜かれた指先を捕え、自分の方へと引き倒す。背中にベッドのスプリングが軋むのを感じた。 そこに言葉は必要なく、片方の腕を持ち上げ相手の首裏を引き寄せた。苦笑ともつかない微笑を湛えつつ、見慣れた美貌が近付く。 普段は柔らかい印象だが、二人きりの時は鋭い切っ先が覗く。鋭利な刃物が他者を切りつけてしまわないよう、処置を施しての表情ではない。素のままのカミューは、更に切れる名剣へと変貌する。剣を扱う者でなければ切れ味の鋭さに触れることにすら二の足を踏むが、慣れ親しんだ者に恐怖はない。手を伸ばしても、触れても、自身を傷つけることはないという自負があった。素顔のカミューと付き合うことが昔から不自然ではなかったのは、そんな単純な理由が起因していたのかもしれない。 ただ思うのは、自分も彼と同じ剣なのだということ。 どちらが使い手で、使われるものという判別はない。 互いが互いの刀身に亀裂を生じさせることになろうとも、ぶつかり合うことも、相対すことも、全く後ろめたいことがない。まるで、繰り返す戦闘によって刃こぼれを起こしても後悔がないような。飾られるためだけの鈍ら(なまくら)刀であれば、存在の意味がない。武具の中で最も個々の戦闘に適しているとされる”剣”であるからこそ、戦いのうちに輝き、滅びもするのだろう。そして、それこそが剣の至上なのだ。 最強ではなく、おまえと在れて良かった、と思う。孤高であれば、苦楽を知覚することなく、お飾りの紛い物と同じような終末を迎えていただろう。 不意に湧きあがった笑みが硬質な印象を与える口元にうっすらと履かれ、見る者を少なからず驚かせたらしい。 「余裕の顕れか?」 呼吸は正常な範囲だが、内包している淫靡な欲求は今だ下火になってはいないのだろう。開かせた体の上に圧し掛かり、腰に別の体温が触れる。 「そうでもない」 率直に事実を述べると、またしても相手の目が見開かれた。薄い褐色の、内側に黄色と緑の光が交差する色彩。 「では、お互い努力しよう」 白い頬にくっきりと、鮮やかな笑みが浮かぶ。目を細め、微笑う姿はどこから見ても美しい部類に入るのだろう。下心を留めた、改心の笑み。 返答を待たず、カミューは身体を進めた。一瞬目的の場所を探すように硬い先端が足の間をさ迷い、思わず心配したマイクロトフが上体を少し起こす。見計らったかのように熱量をそこへ宛がうと、息を呑むようにぐ、と唇が引き結ばれた。故意だったのかと理解してもすでに遅く、全身をを震わせて笑いを洩らす茶色の髪の男を恨めしく思った。せめて、と思った実行可能な”仕返し”は、まだ自由の利く足で背中を叩けた程度に留まった。そこでようやく相手から詫びが入る。でも本当に少し焦っていたんだよ、とカミューは屈託なく笑って見せた。 挿し入れられた体積はやはり想像通り大きく、ひどい圧迫を下腹に伝えてきたが、苦ではなかった。何が長じていたのかは知らないが、忙しなく体勢を整えようと意識的に呼吸を繰り返すうちに、重苦しい負担はわずかずつではあるが軽減され、むしろじっとされていることの方が体裁が悪かった。とはいえ、小さな揺れとともに相手が進んでくるのを知覚していたので、マイクロトフが自分から何かを催促することはなかった。 適当な姿勢というものを考慮していたのか、幾分身体と体の間に隙間が生じていた。その空白がたまらず、眉をしかめたマイクロトフが左腕で勢い良くカミューを引き寄せた。再び襲いかかってきた圧迫に荒い息が喉奥からこぼれたものの、構わず口を塞ぐ。舌先で相手の中を掻き回すと、束の間失笑した顔がゆっくりと破顔し、吸いついてきた。その間も、腰は動き続けている。小刻みに蠕動し、内部への侵蝕を果たす。全部納めきるまでには口内の唾液は全部飲み干されていた。 顔を離し、口元を拭う。幾分上気したような全身が、まだ日の明るい室内には眩しい。 カミューはマイクロトフの腰を支え、奥へ分け入った。穿つように数回上へ向けて曲線を描き、顔を寄せる。当然の仕草とばかりに背に腕が回され、互いの表情が近くなった。 挑むように見据え、口付け、律動が内壁を遠慮会釈もなく抉った。これが初めてであるとは思わない。最後の交合であるとも思わない。刻み付け、絡め取ることだけに全神経を集中した。 あとはただ、病的なまでに執拗な反復と、絡み合う唾液の音だけが空間を満たした。 間断なく、押し殺した声が突き上げられる度に薄い肌色の喉から洩れ、手を添えられたマイクロトフの中心が限界を告げるとともに、カミューも内部で吐精した。 互いの熱量を分け合い、束の間放心する。激しく喘ぐ胸元に耳を落とし、カミューは心の底から嘆息した。内側からはまだ枯れることを知らない貪欲な精神が声を上げているのだが、それに呼応することなく落ちついてくる相手の呼吸が今は愛しかった。激しい鼓動が、波が打つように段段とリズムを整える。その過程に酔った。マイクロトフの中から自身を引き抜くのをためらっていたのが、カミューの男のせめてもの”主張”だったのだろう。 納めたまま、だがしかしそのことに不平は言わず、マイクロトフが何かを見上げた。それが、机の上にちょこんと乗っかっている置時計であることは明白。 それから、戸棚。 何を言わんとしているかをカミューは的確に察し、くっくっと体を折った。拍子に、相手が身じろぐ。 「後始末が先?それとも、水の方がご所望ですかな?マイクロトフ殿」 笑いを口端に留めながら、執事がするように慇懃な態度で尋ねる。人の上に乗ったままでする姿勢ではなかったが、意図することがわかったのか、相手の顔が見る見る怒気に溢れた。 「おまえの手は借りん!だからさっさと退けろ!!!」 やれやれ、と余韻も覚めやらぬ身体を素直に離す。相手がバランスを崩して横脇に身を倒すと、内股に性欲の名残が伝うのがわかった。一瞬息を詰め、そして次の瞬間黒い瞳が睨み上げてきた。 「……………取って来い……」 「来てください、だろう。マイクロトフ」 白々しく要求を返すと、わなわなと震える額に青筋が走った。これ以上茶化すとどうなるか。我が身の危険を感じとり、カミューは肩を竦めて戸棚へ向かった。 実際、やった当人も中に出すつもりはなかったので少々同情した、というのが率直な本音だった。ギリギリまで理性が働くだろうという、これまでの経験を覆すような現実を、認めたくないという意思が勝ったため口には出さない。尤も、認めたら最後、居直るだけだが。 馴染んだ肌の上に散らされた汚れを布で丹念に拭いつつ、気遣いながら言葉をかける。なぜなら、消耗しきった顔色ではなかったが、どこか憮然とした影がその頬に見受けられたからだ。 「立てそうか?」 至極尤もらしいことを尋ねる。 「見くびるな」 素っ気無く返答され、それはよかった、と返す。 そんなことは当然見越していたので、敢えて胸をなでおろすようなことではない。相手が不機嫌であるらしいのは、恐らく本人が処置に困っているというだけの自業自得的な理由からだろう。カミューが懸念する必要は一切ない。 硬くなっている表情を覗き込み、耳元に存分に嫌味を込めて囁く。 「あれでも手加減したからね。この程度で堪えられたら、この先どうなるか」 語尾を聞かず、マイクロトフが声を荒げた。 「無論だ!!!」 自ら墓穴を掘っているということは、”当該者”にはそのときになるまで知る由もない。 |
Copyright(C) PAPER TIGER (HARIKONOTORA) midoh All Rights Reserved.
|