空の民草の民
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軽快なノックの音にぎょっとする。 まだ衣服を完全には身に着けていない状態だ。あまり慣れたとは言えない左腕だけでの着用は、何の困難もなく済ませられるものではない。しかも、ここは私室ではない。他人の部屋だ。そんなところで着替えていると知られれば、どういうことになるか、想像しなくても目の前は真っ赤というか真っ暗になる。 応答するのも間が抜けていたので、とりあえず懸命に履いた下衣の止め具だけでもと手をかける。慌てているために妙な汗を掻いて侭ならない。そうこうしているうちに、ドアが開いた。 室内に人がいないと思っていたのか、来訪者はわずかな隙間から利く視界の中で目を見開いた。 部屋の間を仕切る障子の影に隠れていたとはいえ、どう見ても、ここには不釣合いな人間。 ぽつり、と彼女は名前を呼んだ。 「マイクロトフ様」 いらしたのですね、と丁寧で流暢なグラスランドの公用語がその唇から流れる。驚きと表現するにはそれは密やか過ぎて、何も感じていないのではと懸念するほどだ。だが、物静かな女性であるということは大人びた外見からも見て取ることができる。マイクロトフが好感を持っている、この土地で数少ない女性だ。 「エマ殿」 大柄な体型が隠れているのかそうでないのかわからないような状態で、立ててある襖から顔を覗かせる。ばつが悪い、ということがありありと表面に表れていたのか、安心するよう来客は薄く微笑んだ。 「失礼してしまいましたね。私は外でお待ちしておりますから、どうぞご遠慮なく」 殿方の着替えの最中に足を踏み入れたことを丁寧に陳謝し、ドアを閉じようとする。思わず、助けを求めるように声が出た。ほとんど反射だった。 用件を掴みきれず、かすかに細い首を傾げる。それに具体的な説明もできないまま、マイクロトフは目を泳がせた。 彼女に頼むのは誤りだ。騎士としては恥辱だろう。 それでも。このままいつ終わるかもしれない、自分の不器用さ加減が招いた事態が収集するまで外で待たせるなどということが許されるわけがない。出直させるにしても、それはあまりにも非礼だ。 大の男が部屋の物影で内心慌てているのを見透かし、『エマ』はゆっくりと頷いた。 「お邪魔でなければお手伝い致しますわ」 拒絶がないことを承諾と受け取り、ドアから全身を現す。 細身の女性だが、背は高く、見栄えがする。ぴんと伸ばした背筋の、首裏で赤毛を一つにまとめている。既婚であれば、カマロではどの国の女性も髪を結い上げるのだが、彼女の髪は背中の丁度半分くらいで切りそろえられている。白い緩やかな曲線を描く額を覗かせた、眦が少し上向いた凛然たる美貌の、きつめの美人だ。女性ではあるが、丸みを帯びた肢体を優しく包んだ裾の広がったズボンを着用している。下と同じ深いえんじ色の長い上着を纏った、上品な出で立ちだ。そのまま腰に帯剣していたら、若い騎士と見間違えられたかもしれない。実際、カマロには女性の騎士がいる。 カミューの”妹”であるエマは、ためらいもなく部屋に入ると上衣の前を巧く止められず難儀しているマイクロトフの前に立ち、細い指を襟首に伸ばした。 「申し訳ない」 詫びを入れつつ、まるで幼少の頃でさえ母親にしてもらったかどうかもさえ忘れてしまったような『お着替え』の手伝いを、未婚の女性にさせてしまっていることには後悔も含まれていた。こちん、と硬くなってしまった客人の緊張をほぐすように、エマはゆったりと口を開いた。 「昨夜はカミューの部屋にお泊りだったのですね」 ぎくり、と背筋が強張る。 が、彼女の表情は平素のままだ。言った言葉が目の前の元騎士にどのような効果を及ぼしているかなど、考えもしないのだろう。 実際、自分の兄と親友であるこの男が、非人道的な関係に収まっていることなど、あからさまではないものの知ってはいるらしい。いや、知らずに済むわけがないと言った方が正しかっただろうか。 『エマ』がカミューと『兄妹』であるのは、彼女がカミューの家に養女という形で引き取られたからだ。家に子どもがいなかったためではなく、理由は単純に次男の正式な花嫁として嫁がせるためだ。つまり、エマはカミューの許婚だった、というのが正統だろう。 赤い騎士服の姿がまだ目に焼きついている”元”親友は、そんなことはあまり話さなかった。マイクロトフには自慢の妹の話をしなかったが、エマ自身とは頻繁に手紙をやり取りしていたらしい。 彼女の話では、ロックアックスに辿りついた直後から書面の中には自分の名前が出てきていたらしい。日々の様子を友人の行いを借りて、家族に壮健であることを伝えていたという。文章にし言葉にし、そうして長年に渡ってわずかずつではあるが、思いを募らせていたのだということを、彼女から聞かされたことがある。 政略、ではないが、幼少の頃から親の決めた相手と一緒になることはこの土地では珍しくないのだそうだ。『騎士連合』の名前の通り、数カ国からなるカマロという国は、領地を預かる騎士の家の間で度々養女や養子縁組が交わされることがある。エマも、カミューと同じ国の出身ではない。彼の実兄が統治する土地の東にある小国の出身だ。 ロックアックスでも他国とそういった取り決めがなかったわけではないが、結婚する以前に嫁ぐ家の中に入ってしまう、という点だけはマイクロトフが暮らしていたマチルダの風習とは異なる。前以て家族と同化することに努めなければならないほど、婚姻という形を借りた国同士の繋がりが深い意味合いを持つということになるのだろう。 ただ、カミューはエマを選べなかった。実の妹として、それ以上に溺愛してはいるようだったが、一方で一人の女性として見ることは出来ても、それ以上にはならなかったようだ。つまり、以上でも以下でもなかったのが十数年来目の前に居続けた青年にのみ注がれたという事で。 別段、カミューが長年抱いていたものが純愛であったとは必ずしも言えないが、自分の存在が故郷に待つ婚約者をきっぱり切り捨てる切っ掛けにはなったと語ったことがある。双方にとっても結果としては良かったのだと。つい何週間か前の出来事ではあったが、『エマ』についてそう話していたことをマイクロトフは思い出した。 物憂げだが、自身に対して確信を持った言葉を一つひとつ口にするとき、ああ、この男は『兄』なのだな、と実感した。丁度、10ほど歳の離れた妹を持っていた手前、自分もよくそんな顔をしていたなと思い至る。初対面の頃からマイクロトフに対して年長者のような態度を取っていたのは、現実に持つことの出来なかった下の弟妹たちに向ける、そんな家族愛も含まれていたのだろう。 カミューは家督を継いだ長男とはあまり仲が良くないらしい。性格の不一致というよりも当人が上に出られることを毛嫌いしているのでは、という疑惑が湧くほどに、だ。 食事を家族全員でとっているとはいえ、すでに自分の家庭を持って領地から出てくることのない実兄とは、顔を合わせる機会はない。時たま食卓で話題に上ることがあっても、カミューは大人気もなく堂々と無視する。血のつながった兄弟なのに反りが合わないのか、と聞いたこともあったが、本人にもうまく言い表せないらしかった。 要は負けず嫌いなのだとは、エマの言葉だ。 やはり良く見ている、とマイクロトフは苦笑を隠せなかった。二人が互いに必要とし合い、家庭を築いていたら面白い夫婦になっただろう、と思わないわけではない。だが、巡り合わなかった。そこが、人生の『妙』なのだろう、と老成にはまだ早い年齢であるというのに、マイクロトフは感じていた。 だが彼女に仲を知られているとはいえ、今朝ここに自分がいるは絶対におかしい。エマには全く他意はなく、咎めているわけではないのだが、良心は呵責に喘いでいる。マイクロトフは必死に耐えた。 「カミューに言って聞かせなければなりませんね。あまりマイクロトフ様に我が侭ばかりを押し付けてはならない、と」 さすがに反論しかかり、言葉を飲む。 昨夜は自分が勝手にカミューの部屋に押しかけたのだ。なぜかと理由を尋ねられても返す答えがないのだが、つまり、そういう事態に陥って必然的にここで夜を過ごすことになったのだ。ゆえに、カミューには何ら非はない。寝過ごすほど熱中したことに関しても、全部自分が悪い。だから、それは、つまり。 言い出そうとして、息を吸い込んだ途端に、覚醒直後に湧いていた疑問が口を突いて出ていた。 「エマ殿。そういえば今日は、カミューは」 どこに、と問おうとして制される。 「朝会議ですわ。カミューにしては珍しく、朝が早かったのはそのためです」 カマロ連合領には、政治家がいない。というか、騎士の称号を持つ者すべてがそれに相当する。グラスランド全域の情勢や、領地に関わる財政など、各国を代表する騎士が集まって話し合うことはいくらでもある。 ただ、実兄が”騎士”を名乗ってはいたが、カミュー自身はカマロの正統な騎士の称号を得てはいない。マイクロトフが知ってのとおり、彼はマチルダ騎士団領において認められる騎士の称号を得ていた。だが、エンブレムを持ってはいても所詮は他国の認証であり、遠く離れたグラスランドの土地ではその効力は4分の1ほども発揮されないのだ。 であれば、どうして朝会議になど出席しているのかと問われれば、やはり彼の手腕が並々ならないものだと認識されているからだろう。カミューの生家自体もこのカマロ領内では信頼が置かれている。昔から顔を知っている者の間では、特に次男坊は小さい頃から各国を留学して名を馳せた、評判の『マセガキ』だったらしい。 「昔から好奇心が人一倍強い人でしたから」 エマが言う。その口調は、どちらが年長者なのかわからなくなるような調子だ。彼女はカミューより5つ年が離れていたが、外見はマイクロトフにも決して引けは取らない。落ちついた物腰が、実年齢より随分大人に見せていた。 繊細な指が動きを止め、支度がようやく整えられた。 律儀に何度も礼を言う客人に、彼女は柔らかく笑ってみせた。目を細めると、少しだけ印象が和らぐ。吊り上がった細い柳眉は時に剣のような鋭さを放つが、そこに表情がつけばとても女性らしい華やかさを備える。 「マイクロトフ様はもう我が家の一員なのですから、あまり気がねなさらないでください」 父も母も淋しがります、と。困ったような笑みに、それならば、とマイクロトフは付け加えた。当人にしても、女性との間で交わす話にしては、思いきったことを言っていると思わざるを得ないような。それくらい、打ち解けた会話だった。 「でしたらエマ殿も、俺に対する敬語や名前の後につける敬称はやめてください」 おや、という風にエマは小さく口を開いた。そして、苦笑する。 「これは、仕方ありません」 どう致し方ないというのだろう。わからず、その先を待つ。 自分より頭一つ分ほど下にある、小さな顔を見守った。 「マイクロトフ様は、カミューの大事な人ですから」 一拍、間を置いて。 反射が遅いのではと問われそうなほどのスピードで、しかし、マイクロトフの首から上は真っ赤に茹で上がった。口を噤んだまま、眼前の人物を見下ろしたまま硬直する。 その様が余程おかしかったのか、エマは袖口で口元を隠しつつ、くすくすと笑い始めた。目元が緩められ、心底微笑んでいる風情だ。美しい、とは思うのだが、それよりもこの温度の上昇を何とかしてほしい、とマイクロトフは思い悩んでいた。 「全く微笑ましいね」 天から注がれるが如く、第三者の声が降り注ぐ。 この部屋の主なのだから、当事者に当たるのかもしれなかったが。驚いたように後ろを振り返り、エマが兄さん、と発する。 「朝早くに服は用意したものの、きっと一人で難儀しているだろうと思って会議を早めに切り上げて来てみれば」 にこにこと。声は穏やかだったが、顔は笑ってはいない。ここが、外面は寛容そうに見えて内心狭量だと妹に評される所以なのだろう。 「兄さんもひどい人ですね。マイクロトフ様に、朝に集まりがあることを前以て教えて差し上げていればよろしかったものを」 そうすれば、慌てて起きる必要はなかったのに、と緩やかな口調ではあったがかなり辛辣に叱責する。無論、いつも部屋の掃除に訪れる自分がマイクロトフの睡眠を妨げることもなかったのに、ということを責めているのだ。 「すまないエミー、私の行き違いだよ」 肩を竦め、頭を垂れる。他の女性を相手にするよりずっと親身であるのは『家族』だからだ。見慣れぬ者が目撃したのなら、恋人のように仲睦まじいと思うだろうが、実際はそうでもない。賢妹を持った兄は度を越した我が侭は慎まねばならないということを教えてくれるような、マイクロトフにはそんな教訓があるように思えた。 生まれてから祖父の葬儀と婚礼の時以来顔を合わせていなかった妹の、子どもが生まれたので見に来てくださいという手紙のことを思い出す。機会があればと半年前に返事は書いたものの、恐らく、駄目な兄だ、と思われているに違いない。エマに責められているカミューは、自分の姿を模していると表現しても良かった。 「エマ殿、俺は構ないのでそのくらいで許してやってください」 畳みかけるようにして言葉を浴びせていたわけではなかったが、彼女の無言の視線に立場がないといった感の元親友に助け舟を出す。マイクロトフを振り向いた妹の肩越しに、助かったということを片目を瞑って謝辞を述べる。目の端に留めながら、再度エマに向かって頭を下げた。 「おやめください」 マイクロトフに謝るべきは兄であったはずなのに、と細い眉を困惑に歪め、頭を上げるよう促した。そうして、出過ぎた真似をした、と今度は彼女が謝った。ますます恐縮する青年とその様を眺め、このままでは延々終わらなくなってしまうよ、と苦笑するカミューに、おまえが言うな、と二通りの声が飛ぶ。気づいたときには、三人ともに笑いの渦に飲み込まれていた。 「母が食事を作ってマイクロトフ様をお待ちしております。今からでは昼食になりますが、一緒に参りましょう」 穏やかに笑む様は、血はつながっていなくてもなんとなくカミューを彷彿とさせた。その、厳しくも密やかなあでやかさといい、纏う赤色といい、懐かしい薫りがそこに漂うようだった。 「私の自慢の、腹の座った妹だよ」 先頭に彼女の馬を走らせ、カミューは隣に馬首を合わせ切り出した。 早く紹介したかったが、時を遅らせたのには理由がある、と。 ああ、とマイクロトフは頷いた。なんとなく言わんとすることが知れたからだ。 「おまえの心がしかと私に向く前に、会わせたくはなかったんだよ」 そうだな、と呟いた。絶対にそうであるとは断言できなかったが、自信家の男にもあらず繊細な思案があったとは、笑い話として酒の肴程度にはなる。ただ、人の気持ちなどいつ固まったかなど、自分自身にも確証はない。無駄な遠慮だ、と思う。 「だったら俺も、おまえに妹を紹介しなくて正解だ」 年は離れていても、面影はあるだろう。血が繋がっていれば尚更だ。それはない、とカミューは笑いながら宣言した。 「マイクロトフはマイクロトフだ。私が認めたのはただ一人」 違うか、と問うてくるのを、同じ台詞の名前の部分だけ置き換えてくれてやる。 そう、ただ一人だ。 互いに顔を見合わせて破顔し、軽く口付けた。馬が暴れなかったのが、奇跡だった。 |
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