空の民草の民
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その土地土地には独特の風習がある。 各地を節倹して来たと言っても過言ではないカミューにも、知らないことなど山とある。グラスランドのみならず各国を放浪してきたとはいえ、本人に世界中を広く見知っているとの自負はない。なぜなら、長年住み慣れていたはずのロックアックスにさえ、自身の知らない風習が数多く存在するからだ。 今も、生まれも育ちも生粋のロックアックス人であるマイクロトフが何気なく話し始めた少年時代の話に触れ、まだまだこの世の中には自分の知り得ないことが沢山あるのだなあ、と改めて思い直していたところだ。 それは、黒髪の青年の子ども時代の話だった。 背の高い城壁に周りをぐるりと囲まれた城下町の郊外に、マイクロトフの祖父は住んでいた。静かな設えの屋敷を保有していた祖父の下、マイクロトフは騎士見習として寮に上がるまでの十数年間を過ごしていた。 両親の住んでいる家とは街の端と端であったために、滅多に顔を合わせることがなかったという。奇妙な話だが、取り立てて高名だというほどでもなかった武家の出身だった少年の家では、一人立ちをするまでは実の親ではなく祖父や親戚の庇護の下で育つのが当たり前なのだそうだ。 立身出世してからも実家に帰らなかった当初を思うに、一人前になってから家に戻るというわけでもなさそうだ。まあ、それはマイクロトフという人間個人に限ってという見解もあるだろうが。 このカマロの地ほど、『一族』や血族の繋がりというものを重要視していないのかと思われたが、実際は実力主義が横行するあの土地独特の養育方法であったようだ。 家を盛り立てる為には外で育ち世間の荒波に揉まれて鍛えられた方が、実際の社会で立派に生きて行けるとの方針は、カミューの生まれ故郷とて同じだ。しかしマイクロトフの故郷は、輪をかけてその色彩が濃いように思う。同年の子どもの中で暮らすより、年長者に倣う方が手っ取り早く大人の仲間入りができるという考えがあったのだろう。 だが、カミューはその方法には異論を唱える。 同年の者たちと切磋琢磨することによって、本来は彼らとともに培うべき『社会』というものが見えるのであって、少年たちが大人社会に無理に適合する必要性はない。早いうちから歳の離れた者と付き合うということは、彼らの枠組の中に”順応”しなければならないということであって、そこには自分で切り開ける道というものがない。少なくとも、『力のない』子どもらには、周囲と合わせることでしか大人の社会では生き延びれない。 マイクロトフは確かにそうだと親友の意見を肯定した。けれど自分の根本を形成した過去について、覆したいとも思っていない風だった。なぜなら大人社会に適応することが小さかった頃の自分たちの使命であり、彼らを育成する場に相応しい社会を提供するために日々を努め上げるのが大人たちの役目であると断言するからだ。 子らに対して、最低限の責任を取る。それを見越して、子どもたちは大人の仲間入りをすることを周りから促される。確かに、これもロックアックスという土地が築き上げた社会の形態の一つなのだろう。 この事例以外にもあの土地には、初めて目にした者には首を傾げるようなことが多い。 諸外国の中心都市というもののほとんどは、『教会』を中心に街を形成している。 言い方を変えれば、国や都市というのは教会が立ったところに人々が集まってできたものが多い。これは、歴史的に言って宣教師という教会の教えを広める者たちが、こぞって未開の地に危険を顧みず赴いたがゆえに出来あがった都市形態の一つと言える。 ロックアックスと名づけられた場所には旧くからの先住民族というものはなく、自然の大地だけが広がる山に囲まれただけの本当に何もないところであったらしい。開拓し人々の住むところを提供することも宣教の目的であった信徒とその家族の一行が森を越え、南の地からやって来たのが最初だと言われている。 宣教師は、自身や非武闘戦力である一族を警護する騎士を従え、ロックアックスにやって来た。寒さの厳しい北の大地で、土地の開拓は想像を絶するものであったらしい。多くの仲間が死に、後援のためにあとからやってきた後続の騎士たちも次々に命を落としていったのだという。 ロックアックスはつまり、信心深い教徒と大勢の騎士たちのおかげで建設された都市なのだ。建造物や施設などを見て周れば一目瞭然だが、彼らがいたために”必要とされた”ゆかりのものが数多くある。中でもおや、と思われるのが、教会の隣に娼館がある点だ。 一見、相反する施設だと思われがちだが、彼らのつながりというものはかなり古い時代から存続している。何しろ、世界最古の職業が娼婦だというくらいであるから、教徒と彼女たちの関係というものは浅からない。もしかすると教会ができるよりも前に彼女たちは仕事をしていたかもしれないのだ。 娼館の娼婦たちは、もっぱら騎士を相手に商売をした。教会の”守り”の中で働き、その代金の一部を寄付していたことから、双方の繋がりというものが何となく読めるだろう。 彼女たちは彼らの庇護の下で無事に仕事が出来ることを感謝し、そして罪滅ぼしの意味を込めて教会に収入の一部を収める。納める銭は決して汚い金ではなく、彼女たちが自らの貞節を削って稼いだこの上もなく貴重なものとして受け取られる。身を売ることが聖職であると言うつもりは毛頭ないが、二つの施設の共存というのはロックアックスでは見慣れた光景だった。 あの土地では、若い騎士らが娼館に足を運ぶことに眉を潜める者はいない。奇異に映るかもしれないが、国の『道徳』の代名詞である教会に正式に商売を認められた娼館へ赴くということは、彼女たちに『仕事を与える』ということになる。つまり、教会に通い、礼拝して寄付をするのと同じこと。そして、彼女たちにとっても騎士という存在は”働き”の場を与えてくれる、言わば同志とも言える存在なのだ。 ロックアックスは、その重苦しい名称が表わすとおり、とても峻厳な価値観やものの考え方を持っている。それは彼らの祖先が遠く大都市を離れ、荒野を拓かんがために命を賭して土地を耕したということと、危険な旅の同行を買って出、開拓のために剣を鍬に変えて故郷に帰ることなく大地に眠った多くの騎士の屍の上に成り立っているからだ。 もともと一つの部族が個々の勢力に分かれて大移動を起こし、集落を別にしたグラスランドとは背景からして異なる。であれば、カミューが今だ不思議に思う点など、ロックアックス生まれのマイクロトフからいくらでも聞かせられることになる。 最も世界でポピュラーな娼婦の話題ひとつを取っても、彼女たちの立場というものはグラスランドと北の土地とは全く異なる。片や、原始の商い。一方は、聖職者と同一視されていると言っても過言ではない、崇高なる使命の下に働く者たち。 とはいえ、『お仕事』のために女性を抱く気がなかったカミューは、ロックアックスで唯一正式な商売が認められている娼館には出向いたことがなかった。マイクロトフはと言えば、どうやら何度かあったらしい。他人からの口伝えだが、割と若い時分から通っていたのだと言う。社会の大人入りを推し進める世間体上、そこへの出入りを励行する傾向にもあったのだろう。 しかし、それなのに色好い話を聞いたことがないというのは、そこで行われていることが紛れもない『お仕事』で、色恋ではなかったのだということが容易に推測できる。もちろん、元娼婦と式を執り行った友人を幾人も持っている手前、必ずしもただの仕事で終わるというわけではないのだろうが。 単にマイクロトフにはそうだったというだけで、愛のない行為そのものではなかったとは言える。そして、無論のこと女性との付き合いを『仕事』だと思ったことのないカミューはそこへ行こうとは露にも思わなかったのは、そういう理由からだった。 話を戻そう。 マイクロトフは平素と変わらぬ口調で幼少の頃の話をした。とても淡々としているので、まるで任務の報告をしているようにも思えた。抑揚がないというか、話題に洒落を交えるつもりがないのは生来の実直さから来る。わかってはいるのだが、育ちを知るとますます年寄り臭いのではとの疑惑は拭えない。彼の素地を形成したらしい『大人社会での生活』とやらがそうさせているのではと思われても仕方がなかっただろう。話を聞いていれば、尋ねたところで恥ずかしげもなく『それがどうした』と聞き返されそうな危うさである。 この手の問題は、自覚があるから良い、ということにはならなさそうだ。少なくとも、カミューはそう思う。だが、その点を含めた個人としてマイクロトフを好いてもいるし、必要としているのだから、それこそ痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)の心境だ。惚れた相手へのフォローよりも、必要なのはカミュー自身のフォローだったかもしれない。 ともあれ彼の話を聞くに、少年の頃習慣にしていたことはマイクロトフは今も尚続けているものが多かった。 沢山本を読めという祖父の勧め通り、主に歴史書や兵法の古典文学の読書を趣味としていたし、剣の稽古にも人一倍良く励んだ。他人と答弁するときもまずは相手の意見をしかと聞き、客観的に自身の意思を判断できた。よほど煮詰まっていない限りは、反論する人間を看破することも可能なくらいだ。 仏頂面ばかりしているが、いざと言うとき弁舌は立つ。でなければ、単に剣の腕だけで騎士団長の任に就けるわけがない。確かに自分らの稀有なスピード出世は、当時白騎士を統率したばかりのゴルドーにとって、自身に都合の良い輩を輩出しただけのお膳立てと思しき側面はあった。しかし、実際他を黙らせたのは他でもない当人たちの実力だ。腕だけでなく頭や人望も好かれたために据えられたに過ぎない。でなければ、安定的な白の騎士団よりも立ち代りが早いと言われる騎士団の、何年にも渡って団長の座に居座られたわけがない。 彼が言うには、成人男子として仲間入りするためにはいくつかの儀礼的なものがあるのだそうだ。それは当然、遠く離れたグラスランドの地でも少なくない。 コーヒーを飲めたら大人だとかいう子どもが夢想するような、些細な迷信染みたものではなく、何らかの謂れがあって存在している決め事。 それらの多くは時の流れとともに人心からは廃れてしまったが、彼の家は律儀にその風習を守り通していたらしい。いくつか聞いて行くうちに、ひとつのところで指が止まる。カップを口元に運んでいた形のまま、わずかに目を見開く。静かな仕草だったが、果たして当人には伝わっただろうか。 顔色一つ変えず、マイクロトフは続ける。 大人の男になるためには、少年時代に通らねばならない儀礼がある。 いつもならすでに就寝している時刻に、どこかもしれない暗い部屋に連れて行かれる。屋敷の中だというのに、少年の頃のマイクロトフは妙に奇妙な心地を覚えたそうだ。前以て何かあるとは知らされていたが、部屋に案内した使用人も全く言葉を話さない。尋ねても無言のままで、部屋の中に入ったときに下履きを脱いで待っているよう指示されただけだった。季節は秋に近く、丁度自身の12回目の誕生日の前の月であったらしい。寒い空気が周囲を押し包む中言う通りにしていると、ドアの開く音とともに誰かが入ってくるのがわかったのだそうだ。 暗闇の中でも自身の知れた者なら見当がつく。見覚えがなかったことから、どうやら知らない他人であることが知れた。少年であった彼の保護者であった祖父の意図が測れず、マイクロトフは首を傾げた。すると男は覆い被さり、わけもわからずわずかに抵抗する体を抑えて指を入れてきたという。 それには何かが施されていて、他人のものとは思えないほど滑りが良く、なすがままに受け入れるしかなかったが、やがて別のものにすり替わったとき、これが世に言う交接ということが幼い脳裏にもわかったそうだ。 男性性器の挿入とともに大人の男子の仲間入りをするという行為は、聞き慣れないが風習として残っているとされる古い民族の間でも確かに存在している。少年の体の内部で射精することによって、同じ『男』になれる、という見解からなされる行為であって、そこに他意はない。 男女の接合のように肉体的に結び合わされるのだというよりも、男の精を受けてまだ未完全な性の分離体である子どもの体を大人にしようというのが目的だ。 マイクロトフの告白は、娼婦でもない未婚の女性が皆初娘であるのが常識であるロックアックスという土地の気質自体、性に対しても例外なく峻厳であると思っていたカミューには非常な驚きで持って受けとめた。しかし一方で貞節を大事にという言葉は、女性に対してのみ使われる表現であって、男に対しては使われないということを同時に納得する。 彼らが守るべきは自分と自分がこれから築くであろう家庭に向けられる『誇り』であり、節度ある行いというものは必要とされない。いや、言い方が悪いだろう。つまり、礼節を尽くすことは男としては当然であり、改めて問われることはない。守るべき操は女子にあるが、男が守るのは礼節を含めた自らの『誇り』という概念だ。 ゆえに幼き頃、少年だったマイクロトフは体内に男を受け入れ、その精を受けとめたことによって今日の自分はあると明言する。 男が何者であったかは知らないし、また家族の者もそのことについては一言も話さなかった。言われるがままに男の体を受け入れて、儀礼として終了した当時の少年にとっても別段問うべき問題ではなかったのだろう。 相変わらず会議での発表のときのように、マイクロトフの表情には波風一つ立たない。大人しいというより何もない状態だった。何も感じてなどいない。確かにそうなのだろう。 カミューには実際、面白みのない話だった。それどころか冷静に頭が冷えて行くのがわかる。理屈では説明がつくのだが、それでもどうにも収まりのつかない部分が体内で蠢いているようだ。だが、どうにか体裁は保たれている。この時ばかりは、自身の虚勢を貫き通す不屈の精神力というものを褒め称えたい気分になった。 「で、おまえはそれを誰かにやったのか?」 口元で組み合わせていた指を変える。何気ないしぐさだが、落ちつきがないのは自分だからこそ知れる。 「俺はまだ若輩だからな」 かなり年配にならなければ役は回って来ないだろう、と仏頂面のまま答える。それ以前に、その風習を今だ続けている家が他にあるのかということの方が疑問だとも。なるほど。古きを守り続ける家系というものがロックアックスでも稀有になってしまったということなのだろう。 「それは良かった」 心底感情の篭っていない声音など、何年ぶりだろう。内心呆れながら、それでも口調は続く。 「まあ私は、自分が一番最初だとは端から思っていなかったが」 一瞬、憮然としたような視線が返った。呆れられているのか、単に言葉が続かないだけなのか。平静でない今のカミューには計れなかったが、恐らくマイクロトフはこちらの異変に気づいたのだろう。気づいて、そして言った。 「冗談だ」 瞬間、言われた意味を解せず、もう一度、と眉間を歪ませて睨みつける。 「作り話だと言ったんだ」 声もなかった。いやそれよりも、相手の対応に躊躇した。 「いつも癪だからな。これくらいなら許されるかと思ったんだ」 変わらず抑揚のない。だが幾分自身に愛想が尽きているとでも言うような調子で、マイクロトフは畳みかけた。内心目を白黒させながら、カミューはようやくそれが本心から出ている言葉だということを明確に掴んだ。 表情一つ変えず、顔色一つ変えず、打ってやった一芝居。見事騙し遂せたことを鼻にかけても良いだろうに、その影には喜喜としている部分が微塵もなかった。むしろ後悔の念の方が強い。 なんだ、とカミューは呆れた。心底。馬鹿げていると相手をなじりながら、それと同じくらいの強さで安堵した。現金と思われるかもしれなかったが、それがカミューの本心だった。 「すまん」 詫びを入れてそれきりマイクロトフは押し黙った。その内心がありありと手に取れて、元親友は苦笑するしかない。 「おまえにしては上出来だよ」 殊更皮肉を含んで語りかける。もう言うな、と青年は言った。自分で蒔いておいた種だというのに、刈らずに打ちきりたいとはどういうつもりだ。憤然としているのはむしろ自分の方だ、とグラスランドの男は思う。 「それをエマや私の両親にも話してやると良い。おまえの昔のことを大分聞きたがっていたからな」 冗談じゃない、と半ば憤慨したような声が飛ぶ。それはこちらの台詞だ。普段のように慌てる様が愉快で仕方なかったが、マイクロトフの言った『癪』が少しは晴れたのなら、カミューとてこれ以上突ついたりはしないが。 「確かに私はおまえに色々不便を強いている自覚はある。申し訳ないと常々感じているよ」 夜のことだけに限ってはいたが、上辺だけの意味合いではなく心の底から謝る。が、その件に関してどうという判断もなかったのか、返答は簡素且つ明瞭だった。 「俺はここに来て不便を感じたことはない。俺が不満に思っているのは」 そこで、一旦言葉を区切る。言い出すか言い出すまいか思案し、思いきり良く語尾を言い切った。 「俺ばかりがおまえにのぼせているようで腹立たしかっただけだ」 一瞬唖然とし、ついには笑いが口を突いて出た。ほとんど馬鹿笑いに近かった。だが、中断できるほど頭も冷静ではない。場にいるのは自分たち二人きり。であれば、遠慮は要るまい。 「その手の嫉妬なら、いつでも大歓迎だよ。マイクロトフ」 無様にひいひいと腹を抱えつつ目に涙を溜めて言い放つ。 そして今度こそ愛想を尽かした恋人は、大きな音を立てて部屋から出て行ってしまった。本来の主でもない者がそれから夕食の時間になるまで笑い続けていたというのは、階下の酒場でたらふく酒をかっ食らったあとも部屋にその姿を認めたマイクロトフだけが腹に収めた事実だった。 |
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