空の民草の民
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叫びも侭ならず唾液が絡まり合う。激しい息遣いと、獰猛な唸り、そして衣擦れ。 歯や骨や、全身の固い部分の至る所がぶつかり合っている錯覚がある。背にした床も固い。痛い、との感覚よりも恐慌に陥りかける意識があった。ここで、流れに任せて自身を手放してはならない。その思いだけが強く心に残っていた。 何のつもりだ、とか、制止の言葉すら、喉を突いて出てはこなかった。あるのは、向けられた激情と歪んだ行為に本能的に抗う四肢。恐らく、責めたところで本人はすでに頭では理解しているのだろう。誰よりも聡く、賢く、熟考を施す性質を持っていることは自分が一番よく知っている。その男が起こした行動を、否定することは難しかった。それだけ、信頼を置いていると言い換えても過言ではない。カミューには何かしらの『絶対』が存在していた。確信していた、とも言える。自身の自惚れであるとは到底思えない。それだけ長い年月論をぶつけ合いもしたし、拳でぶつかり合いもした。周囲の人間が二の足を踏むだろう、親友に対する裏切りすら越えてきた。結局最後までカミュー自身は認めなかった欺きを、自分はやった経験がある。相手とて然り、だ。それでも道を分かつことなくここまで来れたのは、自分たちの進むべき方向が結局は別の岐路へ向いていることを理解していたからだ。 別れはある。いつどこでだろうと、戦場でも日常の生活の中でさえ。だがこんな手段で告げられるとは思ってもみなかった。いっそ、紙切れ一枚を残していなくなってくれれば良かった。であれば、後のことなど何も考えずにおれたものを。 口で口を塞がれ、鼻から空気が抜ける音がする。その間にもごつごつと後頭部が石の床にぶつかり、小さく鋭い痛みを知覚する。引き剥がそうと相手の上着を強く掴むのだが、内心の焦りを嘲笑うかのように絹の手袋から目標のものが何度も滑り落ちる。たくし上げられる長衣の裾から何を意図しているかを明確に察知し、下になった者は怒気を募らせた。 執拗に絡められる舌を噛みきってしまえば良かった。だができなかった。相手を本当の意味で傷つけるのは自身の中ではタブーだった。マイクロトフにとって”信頼”とは、作為的に自らが害を与えないこと。話せばわかると平和論者を気取るわけではないが、血を流させるにしても致命的なものは却下だ。 自然、体が動く。押さえ付けられていると言っても体格は五分と五分だ。引けを取らないのなら、方法はある。 無理矢理顔をそむけ、塞がれていたものを強引に引き剥がす。身体を横転させ、足を引いてから一気に蹴り上げた。かなりの脚力が要ったが、抵抗なく相手の上体が持ちあがる。手加減をしていたのだろう。でなくば、地面に足から着地などという軽業師のような真似事が出来るわけがない。 真紅と黒と白が織り交ぜられた上着の胸の汚れを手で払い、地べたから解放された男はまるで感慨も何もないような目で見下ろしていた。一抹、侮蔑の色がある。それが、自分に対して向けられたものか、あるいは当人に向いているものかの判別はつけられなかった。呼吸を乱し、肩で息をしながら立ちあがる。埃だらけになっているのは鮮やかな群青が白く染まっていることからも知れた。だが、そんなことには構っていられない。睨み据えると、無表情のまま怒りすらどこかに置き忘れたような声音が降った。 これでわかったか、と。 答えをくれてやることはしなかった。できなかった。理解したのは、純然たる軋轢が今この場には存在しているということ。時間を費やせば可能かもしれない”収得”も、刹那では確立しない。そして、その時間的余裕はないのだとカミューの口調が宣言していた。 そのまま男は去った。踵を返し、石床を辿る。自分と同じ、だが違和感のある姿勢正しい後ろ姿は、追随することを拒否していた。 翌日に控えていた出立の時刻まで、部屋の主がそこに戻ることはなかった。 開け放たれた窓の下。白の幕が色彩と光彩を交互に部屋の中に映し出す。波打つカーテンの揺れの下、汚れたはずの鮮赤の団長服が綺麗に畳まれてベッドの上に乗せられていた。触れることもせず、ぐるりと周囲を回って窓に手をかける。風が強く吹き込んで来るのを、自身の力で平常の空間に戻し、再び眼下に置く。 赤い塊。元は何者かによって温もりを分け与えられていたそれ。人に触れられた形跡すら残さず、生きているのか死んでいるのかすらあやふやな、存在だけが白いシーツの上に横たえられていた。 団長の退任式、というのは特別催されていたわけではない。書類一枚で終わることもあれば、後継や部下たちの好意によって席を設けられる程度だ。マチルダの国の中でも地位の高い人間が就任する白の騎士団内では団長に関する様様な催しがあったが、追従する形で形成されている赤青両団には存在しない。 カミューはまるで、契約は終わったとばかりにサイン一つで身を退いた。無論、後釜や編成についてはしっかりと元団長権限で監督し、指導もしていた。抜け目なく、何事も波風を立たせず処理する腕前といい、ナンバー2としてあの男ほど適任だった人間もいないだろう。 誰もそのことに嘆息は見せず、そして誰もがこの北の大地から他国の血が失われることを惜しんだ。カミューという男の性癖をよく理解していた彼の半身とも言うべき騎士団は若き団長が自由の身になることを無理に引き止めようとはせず、誇りを胸に抱いて見送った。 あと数刻で夕刻になるかと思われる空の下。馬上から求められた握手が最後の会話だった。言葉もなく握り返し、双眸の奥にあるものを必死に読み取ろうとした。否。そうしようと努めていただけかもしれない。何も、今知ったところでどうすることもできないと自覚した上で。相手もそのことを理解して無言のまま指を解いた。離れる温もりが、無性に淋しく感じられたのは気のせいではない。 |
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