駄話
■ 馬王子1
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カミューは恋をしていた。一目惚れだった。 異国の土地ロックアックスに連れて来られ最初に見た牧場の風景の中。緑と白の大地に映えるようにして、灰色の毛並みの彼に眼を奪われた。 率直な感想は、『私の子どもを産んでもらいたい』。正確にはそこへ至る過程まで到達したいという願望だったが、相手が自分と同じ牡馬であるということなど、一目惚れという本能的な陶酔という部分で、そんな現実的且つ根本的な問題などさしたる意味はなかった。 マイクロトフは遠目からは青色にも見えなくもない毛色をして、額と四本の足だけが雪を被ったように白かった。しかも、でかい。 純粋なロックアックス馬であるらしい、彼の骨格は太く逞しい。大柄ではあるが、均整の取れた肢体だ。辛うじて自分の故郷の種族も割と縦に長い馬の部類に入ったので身長差というものは『心なしか』程度でしかなかったが、それすら恋の媚薬に取って代わるような代物だった。 登山者は高い山ほど制したくなる。 その気持ちをなるほど、と噛み締めたくなるような心地で、ふるさとよりも薄ら寒い気候の土地をカミューは甚く満足げに眺めた。 グラスランドの馬術大会で優勝した名馬『プリンス・デ・カミュー』の新たな馬主となった人間に、新しい生活を始める牧場を連れ回される。その間中、カミューは主人の説明などそっちのけでマイクロトフの姿ばかりを眼で追っていた。 獲物を捕食するときの眼差しというよりも、恍惚と眺めているだけでも脳味噌が溶け出しそうな目つきで見つめていたということに、主を始め他の馬も気づくことはなかった。ここは大層田舎であるらしい、とカミューは呆れ返るのと同時に、他人にうるさく構われないのは儲けものであると考えた。 口うるさい都会慣れした仲間の間で、言われもせぬ中傷を受けたことなど数知れない。それだけ妬まれるネタに事欠かないほど『優秀な』名馬であった自分を褒め称えるべきなのだろうが、殊恋路に関しては最大の邪魔者でもあった。 口説こうとする前に先手を打たれ、悪い先入観で受け取られてしまう。その壁をなんとか切り崩してお近づきになる手管も決して不快ではなかったが、何にしても面倒なことこの上ない。カミューとしては回りくどくなく、相手に率直に好意を持っていることを伝えたいだけだ。それを最初から実行不能にするような周りの噂話など、後ろ足の蹄で遠慮なく北斗百裂拳を食らわせて清掃車の前に突き飛ばしてしまいたいだけの目障りな代物だった。 自分とこれから一応『世話になる馬』として肩を並べるであろう周囲の馬面が、素朴な田舎馬のような思考回路しか持ち合わせていないことをカミューは心から感謝した。 そして、車から降りた瞬間から気になっていた青毛の成馬がマイクロトフという名前であることを知った。 グラスランド一という意味でつけられた『プリンスなんとか』などという仰々しい呼称などなく、ただの『マイクロトフ』。なんて融通の利かなさそうな名前なのだろう、とカミューはまたしても脳味噌に霧がかかりそうになった。 白い鬣を揺らし、首ごと振り向いて相手をじっと見詰め続けている自分のことなど意にも介さず、黙々と芝生の草を賞味している。黒い瞳のふちを彩る同色の睫は慎ましい長さで横顔に添えられている。もさもさと口元を動かし、他の馬とは離れた場所で食事に勤しんでいるらしい。照れ屋なのか単なる物臭なのか。親兄弟などの慣れ親しんだ間柄というものが側にいないらしいという点も、カミューの恋心を激しく揺さぶった。 必ず、側で一緒に暮らす存在になってやろう。 牡馬二頭が身体を寄せ合って日がな一日暮らしている様も充分恐ろしいだろうという、客観的な意見などすでに思考からドロップアウトしていた。 アプローチの基本は様々だが、正攻法としてカミューはまず相手に花を贈ることから始めた。もっとも基礎的且つ単純な、というかそれ以外術がないんじゃと思われるやり方だったが、早速辺りに草花がないか探し出す。 長旅で疲れただろうと強引に馬舎へ押し込められたために、自己紹介も済んでいない。大体、人間様がわざわざ同じ馬屋に住むことになった馬同士の紹介の仲介役を買って出てくれるわけがない。同じ建物の中に居ながら、ここでは一生他人で過ごすことも少なくないのだろう。 家族もなければ友人もいないらしいマイクロトフの孤独を思ってカミューは勝手に胸のつぶれる思いを噛み締めた。全然意に介してなさそうな風情であるにもかかわらず、やはり自分こそが側に居るべきだと決意を新たに牧場の周りを軽い足取りで駆けてみた。 が、浮き足立つ恋心を裏切るように、囲いの中には花のひとつも見当たらない。愕然と立ちすくむカミューの目の前に、木の板を張っただけの塀の少し外側に辛うじてたんぽぽだけが一輪花をつけていた。 初めてのプレゼントがたんぽぽ。 それもどうかと頭を悩ませながら、一日一輪が愛するレディに贈る贈り物として相応しかろうと考える者として、可憐な黄色の花を意地でも手にいれてやろうじゃないかと心に決め、無辜の対象を睨みつけた。 憎しみさえ感じさせるような眼付けが功を奏したのか、たんぽぽは潔くお縄になりますと頭を下げ、カミューはにんまりと微笑んだ。そして辺りを見回し人の眼がないことを察するとおもむろに数歩後ずさった。なんだろうと呑気な馬連中に物珍しそうに眺められる中、カミューは軽やかに助走をつけ、後ろ足の力だけで容易に塀を飛び越した。 故郷ではこの倍はあろうかという障害を飛び越えた記録を残している。まさに朝飯前。南から北へ至るという長旅の後とはいえ、この程度の競技は造作もないことだった。 自信満々でたんぽぽとそこら辺に生えている草を丁寧に一緒にむしりとると、形を整えるように少し口元をもぞもぞと動かし、自分なりに贈呈用の花束らしく整えてみる。 緑の中に小さな黄色い花がひとつ。殺風景だったが、今の時点ではこれが精一杯だった。人間に気づかれないうちに牧場の柵の中に戻ると、その足でカミューはマイクロトフの側へと歩み寄った。 柵越えという、牧場の馬としては珍しいちょっとしたイベントがあったにもかかわらず、相変わらず黙々と食事を続ける側に立つ。一瞬どきりと心臓が高鳴り、平静を装いつつ少しずつ距離を詰めるとようやく気がついたのか頭が上がった。 黒いが短く切り揃えられた鬣が少しだけ分かれている。口の先でそれを整えてやりたいと思いながら、カミューとしてはおずおずと、若干ためらいがちに花を差し出した。 鼻先を近づけられ、マイクロトフが頓狂な顔をする。行為の意味が飲み込めず、訝しんでいるというより本当にわけがわからないのだろう。花を贈るなどという風習がないのか、これにはカミューを落胆させた。確かに同じ牡馬から愛情の表現であるプレゼントを渡されても、どういう対応を取れば良いのかなど贈る側にも明確な回答は出せない。 であれば、マイクロトフの反応も相応のものだと言えよう。心中ため息をこぼしつつ、それでもカミューは『贈った』事実を表わそうと、頭を下してマイクロトフの足元にゆっくりと花を置いた。 その花がそのまま地面の上で枯れたのか、それとも他の誰かの胃袋に収まってしまったのか。 それはカミューの知る由もない。 あれから毎日人目を盗んでは牧場の外に出て花を摘んではマイクロトフに捧げる日々を送っていたが、状況は一向に進展することはなかった。 カミューが切ない眼差しで彼を見つめようが、できる限り外に出される時間はマイクロトフの近くにいられるよう図ったり、何気なく水を飲むときも肩を並べるよう心がけていることなど、さっぱり無意味であるかのようだった。 今日も何百回目かのため息を心の中で吐きつつ、カミューは綺麗なお嬢さんを背に乗せてぽくぽくと牧場の周りを歩いていた。 時折、というか定休日以外、このなんとかいうロックアックスの高原乗馬クラブにはお客が来る。 親子連れのときもあれば、どこかの学校の馬術部のお嬢さん方が押しかけることもあった。彼女たちは馬に乗ることを目的としていたが、同時にロックアックスの中でも山の麓に近いこの牧場の風景を愛しているらしい。馬に乗りながら牧場を経営する人間たちに先導され、山道を散歩するのだ。無論、大会があるとかで自分の馬をここで預かってもらい、学業が終わると練習に通ってくるような生徒もいる。彼女たちには専用の馬場が用意され、カミューはその手伝いとして借り出されていた。 尤も、この牧場の看板王子となるために遠くグラスランドから買われて来たのだから今の立場はなんら文句の出るところではなかったが、マイクロトフとはもっぱら仕事自体が違っていたので一緒にいられる時間というものが取り難くもあった。 本当は側にいって、自分の思いを伝えたい。単刀直入に『子どもを作らせてくれ』と言ったら蹴られて墓場送りになることは目に見えていたので踏みとどまったが、毎日のアプローチは欠かすことなく続けている。 今日が駄目なら明日。明日が駄目なら何ヶ月。どんなに時間がかかっても良いから思いを添い遂げたいと念じていた。せめて、来年の春までは。 マイクロトフが調教師を背に乗せて隣の牧場にいるところを眺めながら、カミューはふと嫌なことに気がついた。 男。調教師としては恐らく何十年のキャリアを持つ腕前なのだろう。髭を生やして臙脂のスカーフを首に巻いた小太りな男は、片手に鞭、そしてもう片方に煙草を持っている。 いつもは銜えて馬を操るのだろうが、熱が入っているのか大声を張り上げながら火を口から離している。馬に乗るときは喫煙をしないのが常識だ。咎められないのは、牧場主と彼が馴れ合っているという良い証拠だろう。否、悪習だ、とカミューは眉をひそめた。 万が一があったらどうするのだ。火は生き物にとって、人間も含めて恐ろしいものである以外の何者でもない。そんなものを大事なマイクロトフの体の側に置いて、安心して見ていろと言うのが土台無理な話だ。 果たして、カミューの懸念は当たった。 後ろ様に調教を施していた馬に鞭を振るった途端、灰を落とさずにいた煙草の先が赤い色を帯びたままその先から削り落ちるように落下した。灰は高温を保ったまま乗っていたマイクロトフの太腿に落下し、驚いた拍子に後ろ足を蹴り上げた。 いきなり暴れだしたことを言うことを聞かなくなったのだと勘違いした調教師は、自身の安全な姿勢を保てるように立て続けに彼に鞭を振るった。乗せていた人間を怒らせたのだろうと察したマイクロトフは動きをやめ、じっとしながらその制裁を受けている。目をつぶり、反射的に傷を庇って耐え忍んでいる。それを一部始終見ていたカミューは、理性が音を立てて吹き飛んだのを知った。 手綱を牧場の人間に掴まれていたのを首を引き戻すことで振りほどき、背にした女性諸共助走もつけず目の前の塀を飛び越える。着地の衝撃をある程度自分の技術で抑えたので、乗っていた女性に怪我はなかった。 それを確認してそのままマイクロトフが鞭打たれている馬場に突入する。怒りで我を忘れているとはいえ、腐ってもグラスランド馬ナンバーワン。婦女子に対する礼節だけは忘れたことはない。が、男に対してはそんなものは用意するだけ無駄というものだ。特に、無抵抗の相手を自身の過失であるにもかかわらず暴力を振るうような男など頭蓋骨ごと噛み砕いてやるのが相応だ。 カミューは躊躇なく風を切る鞭の根元を歯で掴むと、力任せに捻り込み男を地面の上に這い蹲らせた。 声を上げて追ってくる人間を尻目に、なんだか驚いているらしいマイクロトフに荒い鼻息をたてながら身を寄せる。熱で毛が溶けてしまい、腫れた肌を労わるように少しためらいがちに舌を伸ばす。触れた途端どちらが熱いと思ったかはわからなかったが、一瞬びくりと身をすくませてからマイクロトフはカミューの手当てに抵抗することなく、動作を静かに見守っていた。 彼の白い背にへばりついていた娘は青い灰毛の馬が怪我をしていることに気づき慌てて地面に降りると、助け起こされる髭男もそっちのけで急いで携帯用のタオルに水を浸して持ってきた。カミューが舌を這わせる隣で傷を冷やしつつ、大丈夫だからと何度も声をかけていた。 適切な処置のおかげで火傷の他に外傷がひどくならずには済んだが、怪我をしたことでマイクロトフは馬舎を一時別にすることになってしまった。 熱が出たのだろうかとか、もしや命に別状はないだろうなとか。あらぬことを妄想しつつ、カミューは彼が戻ってくるまで心休まる日はなかった。 マイクロトフは馬らしくない馬だった。 食べること以外に道楽を見出さない、というか、禁欲的というよりは凡そ『考え付かない』だけの朴念仁といっても過言ではなかった。 少しだけお近づきになれば、一緒に楽しく団欒を、とも考えていたのだが、なんとか最近花を受け取って食してくれるようになったは良いけれども、話すこと自体が結構稀なことだった。 怪我の入院(?)で2週間離れていたあと、再会を祝し奮発してむしり採ってきた花束をマイクロトフが受け取ったときは、まさにこの世の春とばかりに有頂天になったものだ。 それで、なんとなく側に居ることにも気づいてくれるようになって、二言三言、今までは会話をしたこともなかったのが話ができるまでになった。それはそれはすんばらしい進歩だった。もう、人類が月で生活できるくらいの進歩はあった。というより進化に近い。マイクロトフは進化した、とカミューは力説したい気分になった。 マイクロトフはカミューとそう年齢的には違いはない。自分と同じくらいらしい彼は、生まれについても言葉を濁した。純粋なロックアックス馬の血筋であるということは見ているだけでもよくわかったし、力強く仕事向きであるという点も乗馬を娯楽と考える故郷の気質とは異なっていた。 有用性が異なれば、おのずと性質も変わるのが土地で生きる生き物の実態というものだが、カミューとて王室育ちの貴族出身の馬ではない。 グラスランドのカマロ産は、どちらかといえば軍馬として流用される馬種だ。それを馬術用の馬として起用したのだから、元の馬主は本当に思い切ったセンスの持ち主だったのだろう。 真っ白い肢体で草原の数ある難所を跳び越し、流麗に駆って見せる。それだけで人々は口々に馬の中の王族のようだと自身を評した。カミューも鼻が高い思いをしたし、優越に浸らせてくれた乗り手(無論女性)にも感謝した。それが、遠い北の国の金持ちに買い取られることになったのは、故郷の人間にとって幸だったのか不幸だったのか。結果的に多額の金銭が舞い込んできたのだから、成長に携わった関係者は大いに喜んでくれただろう。 数十年に一頭の名馬だと彼を褒め称えた信奉者は涙を飲んで見送ったが、あまり裕福ではない馬産国であれば仕方のない光景だったのだろう。 プリンス・デ・カミューの名は、いつの日か故郷でも忘れられる存在になるかもしれない。そんなことを思いながら過ごす日々に、マイクロトフはなくてはならない存在だった。 彼のために自分はこの山間の国に来たのだと言っても良い。そう妄信できるだけの自信がカミューにはあった。それは、彼と初めて対面したときから体の奥底に感じていたものだ。 話のネタなどなくても良い。マイクロトフが寡黙であろうとも全然構わない。要は、互いを好き合っていればそれだけで話のネタになる。好きだ好きだと言い合っているだけでも日は暮れる。というか、それ以外に馬の頂点に立った自分にとっては意味のないものだった。 世界を制覇したなら、あとは愛に生きるだけ。グラスランドがたとえ広大であろうと、『世界』の一部であるということなどこの際無視するに限る。今の世界はおまえだけ。じっと見つめる眼が熱に侵され、なんだか危ない目つきになっていることなど目の前のマイクロトフは気づいた節もない。 それでも、一緒に居られる時間があるだけ、以前に比べれば断然マシだった。 マイクロトフは、あまり彼の家族のことを話したがらない。兄が数人(?)と妹が一人いるらしいが、それもとてもぼやけた記憶の中にあるようだ。 かわいそうに、生まれつき頭が弱いんだな、とは思わないが、彼を見ているとそんなことなどどうでも良くなってくる。ぱっちりとした大きな黒目も魅力的だし、短い鬣も清潔感あふれて相応しい。 走り回るのが好きだという単細胞でもなく、びくびくと毎日何におびえながら生活しているのかと怪しみたくもなる小心者でもない。 思慮深げに芝生の草を物色しながら口に運びつつ、咀嚼する。仕事のときは従順に人間に従い、粗い手綱の握り方をされても抵抗ひとつしない。聞き分けが良く、何かしら道理に精通している節があった。端的に言うなら、人間ぽい。そう、カミューの賢い頭脳は直感した。それも、悪意のない人間のタイプだ。 |
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