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駄話 ■

 風呂が嫌いなのか?と問われた。
 そうではない、と答えた。
 答え続けて、結局その実証とやらは果たせず終いだった。否定したのは自身が不潔ではないと疑惑を跳ね除けたかった節もないわけではなかったが、実際身綺麗にしておくことは常識である以上に好きな部類に入った。
 それがどうして疑惑の眼で見続けられる羽目になったかといえば、自分はまだこの土地の大衆浴場へ出向いたことがなかったからだ。
 無論、宿舎で生活している手前、城下の施設に出向くことはなかったが、要は寄宿舎の中にある大浴場へ行ったことがなかったというだけだ。
 人が集まるところは、どこだろうとそこが社交場になる。新参者も一度は顔を出さなければ、一生誰にも顔と名前を認識されずに卒業、という憂き目に遭わなくもない。騎士になってから覚えてもらえればそれで結構、と高を括っている部分もないわけではなかったが、どうやらそういった概念の誘いではなかったらしい。
 単に、あんな気持ちの良い処を知らないなんて損をしているぞ、との好意的なお誘いだったのだ。正直、言われた側にはありがた迷惑であろうとも。
 噂では、ロックアックスの名物は風呂にあると言われている。グラスランドで名の知られた自身の故郷へも、その風聞は届いていた。諸外国の人間を受け入れることに峻厳な土地ではあったが、未知の国というわけではない。数少ない情報の中で、地獄の熱さだったと浴場へ足を踏み入れたふるさとの経験者は語った。直接カミューが聞いたわけではなかったが、それはそれは恐ろしい顔で当人は語っていたという。
 又聞きをしただけでは実際想像に欠く。つまり風呂場で暖房をがんがん焚いて暖めているというわけなのだろうか。夏でも冬でも適度に汗をかいてから開ききった汗腺の入口にたまった汚れを流す方が、身体を洗うのに効率的であることは事実だ。であれば、結構合理的ではないかとも思われるのだが、ここで知り合った友人からの話では、どうやらそれどころでは治まらないという。
 どういう状態なんだ。
 飽くまで穏やかな表情を顔面に浮かべつつ、いい加減断るのにも限界があるなと頭の隅で現実を悟る。確かに経験のない『空恐ろしい状況』というものを一遍味わってみたいという冒険心もないわけではない。
 それよりも、この地方の文化なのだとすれば味わわずに帰れるわけがない。いや、言い方が不適切だった。どんな風習だろうと慣れなければここで生きてゆけない。ロックアックスに骨をうずめる決心があるわけではなかったが、この国に来て半年が過ぎようとする今、良い頃合ではないかと決断することにした。
 決意の背景で、そろそろ水で身体を拭くだけでは寒くて仕方がない、という季節的身体的理由があるというのは伏せておく。

 足を踏み入れて熱気を感じる前に思ったことは、なんて贅沢な国だとの認識だった。
 それだけ濃厚な湿度が場を満たす状況というのは、乾いた大地での生活を強いられていた人間にとって、雨季のときであってさえ経験したことはない。
 次いで、脳味噌がなんだか前後に振れたような気がした。俗に言う眩暈なる代物であるとは、理性は認めたがらなかった。踏み込んだ早々に敗北の白旗を挙げる気はない。純粋な強がりだったが、自身で意地だと決め付けてさっさと洗い場を探した。
 大きな石で周囲を囲われた浴室内は、音が篭って反響している。小さな声では話すら侭ならないだろう。それでもごわごわと視界の利かないような分厚い湯気が立っている場所の近くでは人がたむろし、段になったところに腰掛けて談笑している。
 暑苦しい空間で、皆腰布一枚で笑ったり寝そべったりしているのだから、強者どもめ、と思わなくもない。カミューが暖房だと思っていた湯気の正体は、焼いた黒い石だということを後から知った。大きくはないが量があり、その上長時間冷めることのないこの地方独特の石なのだそうだ。
 時折近くにいて気づいた者が隣の水槽から水をかけ、間断なく蒸気を室内に充満させてゆく。遠く離れたところで身体を洗っていても、熱気がまとわりついて汗を拭っているだけとの認識に等しかった。
 知った顔を見つけた友人の一人にそこへ行こうと誘われたが、半ば必死の形相で丁重に断った。あんなところへ行ったら、確実に天に召される。絶対の自信があった。とんでもないことだった。
 けれど、新しい水を手に入れるには近くまで足を運ばなければならない。暖めた湯はないようだったが、この温度の中ではむしろ水の方がありがたいように思える。というか、喉がひりひりするくらいに渇いていた。飲むためにも、必要かもしれない。
 手桶でざばりと透明な液体を汲み出し、乾き始めた焼け石にかける人の姿が見える。更に重厚になった空気を掻き分けるように、物怖じしそうになる姿勢をなんとか建て直して足を踏み出した。
 次第にがんがんと眩暈が強くなり、倒れそうになるのだが、オアシスに水を求める旅人の如く、覚束ない足取りで目的地を目指す。辿り着こうとする意思と、警鐘を鳴らす理性との葛藤がまさにクライマックスを迎えようとした瞬間、頭の上からひんやりとした空気が流れた。一瞬本当に天上に召されかけた意識を引き戻したのは、黒髪の艶が光る小柄な少年だった。
 見えそうだ、と思う高さからカミューを見下ろし、黒い瞳が大きく開く。名前を呼んで確認する前に、やらなければならない仕事があるのだろう。手にしていた大きなシャベルで掬い上げた白の塊を水槽へ投げ入れた。
 ざざざ、と水面に流れ込み、そして眼前で透明に移り変わったものは外の雪だ。不透明だった白が形を失い、透けてゆく様は不思議な視覚だった。束の間、美しいとさえ思えるほどに。
 激しい熱気で呆とし始めた頭で、それでもあんな格好でマイクロトフが外出していたのかという事実に内心面食らう。無作法だ、との感慨と、寒くはないのかと身を懸念する思いが両方あった。
 何度か同じことを繰り返すと、少年は白い息を吐きながら浴室に舞い戻ってきた。水のように汗が流れ出し、髪もしとどに濡れた友人の手に何かを差し出す。受け取ったのは、透き通る前の白の塊だった。
「少しは楽になる」
 なんて顔をしている、と相手は驚いているようだった。それだけ堪えた顔色をしているのだろう。ささやかな気遣いが嬉しかった。冷たくて硬い感触に短時間でも助けられたが、掌の中で存在が小さくなり失せてしまうと再び身体の熱が頭から噴き出しそうになった。これはもう限界だな、とふらつきそうになった途端、ぐ、と横脇から腕を支えられた。
「あそこから外に出られる」
 休んだ方が良い、と促され、引っ張られたのは先ほどマイクロトフが入ってきた斜めの天井に作られた四角い扉だった。あそこから外気に当たることができるのだろう。
 今は冬だ。真冬ではないが(まだ経験したことはないが)常識というものがあろう。シャベルで運び込めたくらいだから、出ればすぐに雪の中に飛び込めるというわけだろう。
 想像しなくても凍え死ぬ。歪んだ目線でそう訴えれば、身体は充分温まっていることを告げられた。
「寒さなど感じない」
 もうどうだってよかった。この激しい眩暈から助け出してくれるなら、凍死しても構わなかった。ぐらぐらと揺れる視界をなんとか堪えつつ、先導されて辿り着いた先は一面の銀世界だった。
 屋根の上なのか、山の一部なのかもわからない場所に佇み、見下ろす景色の中に家らしきものや針葉樹の緑がぽつりぽつりと見えた。
 まだ今は夜ではない。うっすらと曇り空の風景が緩やかな眼下に広がる。ひやりとした風は、火照った身体に心地良かった。
「カミューは俺たちと一緒が嫌なのかと思っていた」
 苦労の果てに見た神秘的な景観に目を奪われていたので、漏らされた声を聞き逃しそうになった。間抜けにも、聞き返してしまう。
「え?」
「いつも一人でいるから、俺たちが嫌いなのかと思ったのだ」
 マイクロトフの言う『俺たち』とは、ロックアックスの人間を指しているのだろう。
 そうではないよ、と慌てて言葉を否定した。少なくとも、彼には誤解されたくないと思った。自分が、目の前の小さな友人を嫌ってはいないことを理解してほしかった。
「機会がなかったんだよ。…忙しくてね」
 方便も使い過ぎれば立派な犯罪だが、プライドを守る意味でも行使した。風呂が嫌なのではなく、怖がっていたなどということは、誰にであろうと知られたくない。例えそれが、割とお気に入りの存在であってもだ。
「そうか」
 良かった、と相手は素直に心の内を認めた。硬質な口調だが、偽りのない本心だということは言われなくても熟知している。
 むしろ、まるで昔からの知り合いか魂の兄弟のように、何でも見抜けてしまう『作り』に悦を感じてしまいそうになるほどだ。なぜそれほどまでに抵抗なく心情を読めてしまうのかが不可思議であり、快感でもあった。自身が快いと感じる景色を、マイクロトフは身のうちに宿している。
「俺はロックアックスの風呂が好きだ」
 幼い頃は一人で入っていたが、学校に移って大勢で入ることの楽しさを知ったと小さな口で語る。硬い表情だったが、それでも精一杯好意を体で示している。稚い、というより、その心が潔癖であることを表わしているようで、微笑ましくマイクロトフの言葉を見守った。
「それで、カミューも、ここの風呂が好きになってくれれば良いと思う」
 語尾を言い終え、むむ、と唇がわずかに突き出される。恐らく本人には不本意な接続詞で台詞をつなげてしまったことを恥じているのだろう。
 どんな類いの人間に育てられたかは知らないが、彼を見ていると尊敬できる部類の人物であることが知れた。紳士である以前に、騎士足ろうとすることを常に心掛けるよう躾られたのだろう。堅苦しくはあったが、潔さも備えていればそう邪険に扱える代物ではない。
 何より、言う当人がおかしすぎだった。それを口に出せば、甚だ侮辱と捉えられなくもないことだったが。
「慣れるまで時間がかかるだろうけど、努力するよ」
 対照的にやわらかな口調でそう返すと、そうか、とマイクロトフは喜びを露にした。予測し得なかった子どもらしい笑みは、慣れぬ環境に疲れた頭に心地良い痺れとなって届いた。

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2003.04.19up