空の民草の民
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生来、美辞麗句に慣れ親しんでいる者とそうでない者がいる。他人から賛辞を得るように、その一方にだけ偏らず、自らが認めたものに対して教養を総動員して褒め称える。 誉めること、というのは悪い習慣ではない。むしろこれからも大事にしたい風習だと言える。しかしマイクロトフは、美句とはいえ、歯が浮くようなそれらの言葉の数々に不慣れでいた。 生まれ育った土地を離れて異国に来ているのだから、文化の違いなど端から認めている。自身の故郷を誇示することもしなかったが、誇らしげに思わないわけではない。それが如何に自身の性に合っていたかということを、ここに至って頭が痛くなるほど実感していた。 『烏の濡れ羽色のような』 『射干玉の如き』 本来、これらの言い回しは相手を不快にさせない綺麗な形容であるはずだった。しかし、こうしてずっと聞かされていると、耳にタコが出来ても不思議はなかった。 もういい。もう、やめてくれ。 そんなことを思うようになったのはいつからだろう。 「ご機嫌斜めだね」 ついには部屋を訪れていた親友の男から、数日間ずっと変わらなかった態度を指摘されてしまう。 「悪いわけではない。ただ、調子が出ないだけだ」 同じことだよ、と歩く華美が口を挟む。 むう、と机の上で肘を付き唇を顰める。図星であるからこそ、それ以上言い返す手立てがない。そんなもどかしさを全面に押し出した。体面を取り繕わないのは、既にこの相手には無用の長物であることを悟っているからだ。 「カミュー」 名を上らせ、指の上に流れていた視線を呼び寄せる。戯れようとしていたところを阻まれたとばかりに、わずかな動きだけが瞼と睫毛を奮わせた。浅く伏せられた柔らかい光が言葉の続きを促した。 「俺は、『美しい』と思うか?」 突き出していた片手を引き、生真面目な表情で卓上に乗り出す。無意識に眉間が狭まり、双眸が中心に寄ってしまっているだろうな、と頭の片隅で思う。眼前にある心持ち傾いていた容貌が真っ直ぐに見返してきた。至近距離に卓越した美貌がある。 「違和感あり、といった感じの物言いだな?マイクロトフ」 麗しいだとか艶かしいだとか。色恋の類いで多用されそうな言い方は、馴染みの薄い者にとって微妙な緊張を抱いてしまうのだろう。そのことが先の台詞にも出ていたのか、カミューは敏感に感じ取ったらしい。そもそも堅物で名の知られた友人が、そんなことを言い出すこと自体、稀有であり不気味なのだ。 「おまえは、そうは思わないのか?」 一種異様な感じがすると。 整った風貌の上にわずかに年嵩が厚みとなって宿る色彩の薄い顔面を直視し、唸るように問うた。 「私が心中で思っていることをすべて吐露していたら、おまえの頭は当にばっくりと二つに割れているだろうさ」 恐ろしげなことを淡々と語り、カミューは椅子の背もたれに凭れた。 「言いたいことはわかった。多分私以外の連中に言われていることが、おまえにとっては非常に気に障っているんだろう?」 ふと首を傾げつつも、発された内容がずばり的を得ていることを認め顎を上下に動かした。さすがカミュー。話が早い。 「俺は、もうこれ以上は御免被りたいのだ」 エマでさえ、毎朝顔を合わせるたび頭髪のことを褒めちぎるのだ。 今日も朝露に濡れたように艶のある御髪ですね、と。 『光を蓄えて美しい色艶ですね』 頼むから、勘弁してくれ。そう内心で手を合わせていることなど、無論彼女は知らない。それから当てはめられた役割を果たすべく、部署に向かえば向かったで、そこでも日々顔を合わせている者たちに自身の頭のことを言われる。それだけじゃない。黒豆のようだとか、今度は瞳の色についても褒められるのだ。 感歎、というのは、自分がそれに見合った努力をして初めて認めてもらえるものだと信じている。公の仕事にしても個人的な労働にしても、汗を流して初めて得られるのが賞賛だと思っている。もちろん、褒美を目的にして働くわけではない。無心であるからこそ、人はそれを価値あるものとして評価するのだろう。 だから、何もしていない自分がいきなり好評されるということには納得が行かなかった。意図していないものをもらっても、喜ばしいとは感じられずにいた。それがどんどん良心を苛んで、誰かと会うことが億劫になりつつあった。 「他人から嘆美を受けることは、決して失礼なことじゃないよ」 甘んじて受けることが礼に悖っていることではないと、男は言った。もともと異性に褒められ慣れしている友人であるからこその言だった。そして、この土地で生きる一族の生粋の血筋でもある。 理解しつつ、けれどそういうことではない、と卓を叩いた。 「俺が言っているのは、何も成果を出していないのに賞賛されることだ、カミュー」 昔から容姿のことを問題にされたことは一度もなかった。 確かに、ロックアックスや古くからそこに住まう人間として、純粋な血の証でもある目や髪の色が立派だと褒められたことがないわけではない。国の境が大分薄れてきたと言っても、未だに故郷が堅固な要塞都市であることは現在も変わらない。だからこそ守られてきたものであり、国民が誇らしげに思う事例であったとしても、それは民衆のほとんどに当てはまることだった。 自分のように赤ん坊の頃から黒髪だという者は少ないが、成人すれば同じように白い肌黒い髪を手に入れる。だから今更互いの容姿について論じ合うようなことはなかったし、興味を引く娘がいたとしても、巻き毛かそうでないかの違いしか言及しなかった。 ゆえに、顔形ではなく外観を賛美されるなどということはロックアックスの男たちにとっては未知の経験だったのだ。 カミューのように、語るだけのネタが顔や姿にあるならば良い。立ち居振舞いが美辞として語れるだけの代物であるなら、誰も賛辞を惜しむまい。 けれど、こちらはどうにも不恰好な一騎士でしかない。いや、今や騎士ですらない。剣も持たず、剣士として生きているわけでもない。長じていた物をすべて失い、ただの人間になってしまった上は、褒め称えられるべきものなど何もないはずだった。 なのになぜだ、とひっきりなしに疑問が脳裏に蟠っている。 片腕で煩悶する思考を抑えるように、頭部の側面を支える。机の上にうずくまるようにして上体が倒れた。姿勢が悪いことを見越して、それでも動きを止めることができなかった。 弱音を吐いていることも、弱みを見せていることも当に承知の上だ。自ら答えを導き出せない問いを、目の前の男ならば、と明かしたのだ。それで、馬鹿だと罵倒されようが元より反論する気はない。 カミューは無言でその様子を見守り、そっと距離を詰めた。椅子すら軋ませず、長い尖指を崩れたように卓上に落ちた頭に乗せる。 指に短い髪が絡まり、すぐに離れる。分けるように何度か狭い間を往復させ、見た目よりも存分に柔らかな感触を味わった。 「ここに住んでいる者たちにとって、黒は貴重なんだよ。マイクロトフ」 特殊と言っても良い、とその唇は動く。 「国内に緑は多いが、一歩領地を離れれば赤茶けた大地がただ眼下に広がるだけだ」 そこに延々と続く無味乾燥な土地を彼らは知っている。夜は闇だが、真の暗黒ではない。夜闇のベールは干上がった表面を人目につかないよう押し包んでくれるが、やはり一時だけの変化に過ぎない。だからこそ、最も重厚にして水のように光を含んだ真実の黒髪に心惹かれる。 濃い茶でもなく、灰色でもない。黒は少しでも他の色が加わればそれそのものではなくなる。墨のように、白色によって汚され濁らされることを知らない純粋な黒。それを尊んでいるのは、恐らくグラスランドの人間だけだろう。 「だからおまえの頭のことを言ってしまうのは、悪気があってのことではないんだよ」 むしろ信仰すらあるのではないかとも思える、彼らの黒髪好きがそうさせているのだと説く。表現の仕方が悪かったかもしれないが、言うなれば黒髪でありさえすれば極悪人にもこの土地の人間は親切に接するかもしれない。 単純に彼らの民族性だと説かれ、マイクロトフは顰めた顔を更に困惑させた。 「では、こういうことか」 頭髪を撫でている手を払いのけ、その腕を支えにして上体を起こす。 「カミューも俺の黒髪が好きで、付き合いたいと思ったのか」 騎士見習になった当時、引かれたのは見た目だけだったのかと表情を曇らせる。誇りを踏み躙られる寸前といった感の構え方に、緩く頬が持ち上がった。 「……五分五分、かな」 く、と喉の奥で笑い、次いでくっくと声を殺してカミューは笑った。不可解な思いを抱き、強い視線がその鋭角な額を射抜く。 「おまえに近付いたのは初見が面白い奴だと思ったからで、黒髪だと思ったのはその次くらいじゃないか?」 随分昔の話なので明確なことはわからないが、と注釈付けて肩を揺らせる。 「それとも、その容姿でいて不利なことがあったのかい?」 差別されたり蔑まれたり。 人として劣っていると認識されなかっただけ、恵まれていると目元を緩めた。現実には、外面だけで貶められる部族もいる。そうでないことに感謝せねばならないとカミューは諭した。 それを考えれば、髪の毛一つを褒められることが何だと言うのだ。 「うむ…」 確かに男の言には反論の余地がなかった。大したことではないと言われれば、そうかと納得する以外道がない。 そもそも、カミューに諭されれば恐らくどんな結末だろうと自分は受け入れられたのではないかと思えなくもなかった。それだけ、言いくるめられる経験を何度もしているという事実に他ならないが、まるで催眠術にでもかかったようになるほどと頷いてしまえるのが、この親友の持つ『妙』だった。 にっこり、と眼前で整った顔立ちが揺れ、どきりとする。微笑で凄むことができるというのも、奇妙な特技だった。特質、と言うべきかもしれないが、友人相手にも使ってくる手前、やはり手段と評した方が無難だろう。 「私はおまえこそそうなんじゃないかと心配だよ、マイクロトフ」 深みを増すように目元の下から弧が持ち上がり、目的格を質そうとする言葉の先を封じた。 「私の見た目にだけ価値を見出しているんじゃないかとね」 「カミュー…」 その台詞に、今度は呆れ返った。 男がそんな下らないことを気にする必要はない。それに、風貌にどれだけの威力ないし効力があるのかということを計算に入れて関わって来る者などいるだろうか。男女の駆け引きならばいざ知らず、親交のある者同士がわざわざ考えつくことではないだろう。 全く持って荒唐無稽な心配だった。なぜなら、誰もが気づきそうなことに気を回せないのが自分という人間でもあるからだ。尤も、そのことは別の友人に指摘された事柄だったが。 心中の嘆息を隠し、きり、と眉を吊り上げて真摯に臨む。 「おまえの外見が秀でていると俺が知覚したのは、団長に就任してからだ」 記憶に残っていることだけを集めて答えているためにはっきりとした確証はなかったが、思い出の中で一番近いと思ったのは騎士団長になってからだ。それも、相手が、ではなく自分が重大な責任を任ぜられたとき以降。忙しい合間ながらも二人で過ごす時間が極端に多くなったと思しき頃合だ。公式の場で議論したこともあるので、尚のことよく覚えていたようだ。 マイクロトフからしてみれば、団長になる前の時分に、目指す一点以外に余所見をしている暇がなかったというのが率直な理由なのだろう。 真剣な眼差しで、おまえの持つ容姿などそれ以前は全く眼中になかったと言い返せば、視界に浮かんでいた笑みが忽然と姿を消した。 そして返答がないのかと思った瞬間、やおら大きな呼気が口元と言わず体全体から吐き出された。 何かに絶望し分厚い影を背負ったかのように、聞こえてきた口調は殊の外重かった。 そう、とカミューは口を開いた。 「良い参考になったよ、マイクロトフ…」 昔知らなかったことを、今知る必要は(何も)ない。 親友であり恋人になった暁には、そんな名文句が腹に響く。 そんな事実は、いっそ知りたくなかったとカミューは思った。 |
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