空の民草の民
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早朝の静かな時間。静謐が霧のように世界を押し包むかのような錯覚を覚える刻。実際、この国で朝霧を目にしたことはない。ここはそういう水とはあまり縁のない土地であることを、当たり前のように思い出した。 我にもあらずそんな朝早くから自然と瞼を開けたのは、夢の続きを見ているつもりだったのだろう。 長い睫毛を緩慢に起こし、視界に映し出された濡れたような黒にふと目を細める。年輪を重ねても尚、艶光りする露のような髪に、無意識に微笑が興る。腰を抱かれて眠る恋人を、視覚で捉えることで更に実感を強くする。ここに、側にあることを。 かすかな吐息すら羽を乱す風に変わりそうな予感がして、悟られぬよう息を潜めた。触れんばかりに近づけていた鼻先を、音を立てずに柔らかなうねりに押し当てる。短く切り揃えられた髪から薫るのは、夜の残り香だ。 不意に意識が部屋の外の物音を捉えた。思考が睡郷から現実へ舞い戻ったのは、それを耳が聞き咎めてのことだろう。扉の前で気配が立ち止まり、それから低く名を呼ぶ声が届いた。 カミュー、と。 聞き覚えのある声音に身じろぎ、寝台を静かに軋ませた。わずかな動きでも、共寝の恋人が目を覚ます様子はない。上から覗き込んでそれを確かめると、上着を手に取り裸足のまま床に降り立った。 服の袖に腕を通しながら、すぐ外へ出ると告げる。かすかな返答だったにも関わらず、来訪者は得心したようだ。 上衣の襟を止め、支度を整えてからドアを開ける。注意を払いながら、男は後ろ手で扉を閉めた。廊下を歩き、突き当りを曲がったところの部屋の前に、目的の人物は在った。 おはよう、と開口一声、ひどく上機嫌な声が出た。わずかに掠れているのは、起き抜けだからだ。しかし、普段から張り上げるような発声の仕方はしていないので、特段おかしなようには受け取られなかったようだ。 「マイクロトフ様は…?」 幾分気遣わしげに尋ねられたことに、肩越しに後方を一瞥しながらカミューは答えた。 「このところ、眠るのが随分遅くてね。まだ休んでいるよ」 よく眠っていることを示唆すると、ふと女の目元が和らいだ。 先ほどまで居た場所は、マイクロトフの名で借りている一室だ。本来、カミューが滞在している部屋はエマが立っている扉の奥にある。男が不在だったので、大方相手の部屋に泊まっているだろうと見当をつけ、尋ねて来たというわけだ。 鍵を開け、昨夜はほとんど使われなかった室内へ客人として妹を招き入れる。別段、血がつながっていないとはいえ、異性を立ち入らせることに関して抵抗はない。元々眠るために借りただけの、カミューにとっては仮初の宿だ。 「で、用というのは?」 それがなければ、わざわざ人がまだ寝静まっている時間にここを訪れるわけがない。 宿屋を兼業しているのだから仕方ないこととはいえ、下の酒場の主人を起こしてまで上に上って来たのだろう。相応の理由がなければ、招かれるには適当な時刻ではない。今ごろ、店の主は枕を正して寝直している頃だろう。 カミューとてこんなに早くに起床するつもりはなかった。普段なら頼まれてもできはしないことなのに、虫が騒いだように覚醒してしまったのだ。これが良いことであるならまだしも、十中八九そうではないことは彼女の顔色を窺わなくとも知れる。眠ったままのマイクロトフの無防備な姿態を見ることができたのが悪いことだとは思わないが、カミューは前置きなしに妹の急な訪問について尋ねた。 昼になるのを待たずここを訪れ、非礼を承知で兄の恋人の元へ参じたのは、それなりの根拠があるからだろう。そうまでして密かに気を回さなければならぬ必要があるということは、恐らく家族に関わる何らかの事情があってのことだ。まさか両親のどちらかの容態が急変したとでも言い出すつもりであるなら、当に問題を切り出しているはずだから、それは違うということだけはわかった。 何に遠慮をしているのかといえば、恐らくここにいないマイクロトフになのだろう。エマが伝えんとしている凡その内容は見越していたが、カミューは敢えて彼女の口から用件を聞くことにした。 薄い口元から、お母様が、という言葉の片鱗が零れただけで、それが何を示すかということの大体を把握できた。しかし急がず、辛抱強く語尾が吐き出されるのを待った。 「マイクロトフ様を、我が家へ招待するようにとおっしゃっいました」 帰郷してからあまり家へ顔を出さない不孝者の息子を呼び出して、事情を聞きたいと言っているらしい。 マイクロトフと実母のミケーレはすでに何度か面識はあるが、正式に紹介したことはまだ一度もない。そのことを、彼女は言っているのだろう。正しく仲立ちせよということは、どういう間柄であるかという生々しい部分に触れて、しかと説明してみせよという意味だ。 予測の範疇であったので、カミューに特段の驚きはなかった。しかし、やはり来たか、との焦りにも似た思いは強い。 彼女をして避けては通れぬ事態だということなら、すでに容認済みだ。しかし、実際会わせろと命じられて、マイクロトフだけを連れて行くわけには行かないだろう。そのことをエマもわかっているからこそ、わざわざカミューの元へ報せにやって来たのだ。 一晩空けてしまったのは、女子どもが夜中に出歩くのは不謹慎であるとの母の方針に添ったためだ。 マイクロトフが知る前に、エマが自分の耳に入れようと思い立ってくれたことにはカミューは素直に感謝した。さすがは、血はつながらずとも自身と同じミケーレの子どもだと。 「とにかく、おまえは家へお帰り」 すべてを承諾したことを伝えると、カミューは妹を下の酒場から送り出した。家を抜け出したことを母親に知られれば、叱責を受けるのは彼女だからだ。 かすかに立ち込める朝靄で視界が幾分覚束ないものになっていたが、その中に自分の馬を見つけると、エマは背に跨りすぐに騎乗の人となった。一度だけ兄の顔を見つめ、そして彼女は何も言わず背を向けた。 去ってゆく後ろ姿を見送りながら、カミューもまた階段を上り青年の待つ部屋へと向かった。 陽が昇りきっていない朝は、人肌をひどく恋しがらせた。 |
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