空の民草の民
■
|
さて、どうすべきか、とカミューは頭の中で呟いた。 途方に暮れるにはあまりにも現実的な問題過ぎて、ユーモアのひとつも思い浮かばない。それに、意識のどこかでこの日が来ることは予期していた。このまま、何もないままで済むはずがないと。 母が何事にもけじめを重んじる昔気質な気質であることは、幼い頃から熟知している。ある意味頑固であり、頑迷であり、家族の中であっても節度と義を重んじた。礼節を弁えることを美徳とし、彼女自身もそれを実践してきた。 カミューの中で思い浮かぶだけの、彼女を形容する言葉を並べて立ててみると、どこか自身の恋人と似通っているのではと思わなくもない。が、母は女であり、マイクロトフは男だった。 つまり彼女のこだわりは、家を預かる女主人としての面子や誇りを意味していた。当主である父では気の回らない部分を、頑なに譲らず守り続けている女傑とでも評せば良いのか。根本的に、騎士としての本分を能く理解し志操堅固を忠実に実践してきたマイクロトフとは存在の意義が異なる。 彼女は多くの部下を抱え指揮する指導者ではない。家の人間を他者からの誹謗中傷や理不尽な扱いから護ろうと粉骨砕身する母性だ。ゆえに、一見性質が似ているように感じても、マイクロトフとミケーレでは立場自体が相容れないものだと言っても過言ではなかった。 最小の社会と呼ばれる家庭を守護する者と、広い定義での社会を守護する者。 彼らに共通するところなど、果たしてあるのだろうか。 とはいえ、何も告げずにマイクロトフを母の下へやるような真似はできない。正式に紹介をしなければならないのだとすれば、やはり相手にも協力を乞う必要があった。 昨夜就寝した部屋に戻り、先ほどまで横になっていた寝台の枕元に両腕を付く。自分の居た場所はすでに冷え切っている。時が許せば、その隙間でいつまでも愛する者を温めていたかったのだが、生憎今日という日は適わなかった。 「マイクロトフ」 肘を曲げ、仰向けに横たわる恋人に顔を近づけて起床を促しても、規則正しい寝息がその鼻筋から漏れ聞こえてくるだけだ。眠ると決めたら自主的に覚醒するまで意識が目覚めることはないらしい。なんとも羨ましくなるような健康的な身体を持っている元親友を、カミューは根気良く呼び続けた。 しかし、返答は以下同文。昨夜はやはり行為が過ぎたのだろう。体調を見越してこれ以上は無理かと諦め、退きかけた瞬間ぼそりと唇が動いた。 もう一度、と厚めだが形の良い花弁が囁いた。 一瞬何のことかと思い、離れようとした動きを停止する。次いで名前を呼ばれ、カミューは無言のまま白い相貌を見下ろした。再び何もなかったかのように口腔の隙間が埋められようとするのを見送りながら、突如として相手の意図を知覚した。 この男に限ってそれはないだろうと、もしここがロックアックスという城の中であったのなら、そう考えるのが妥当だった。けれど、そんなものとははるかに距離を隔てた大地だ。別天地であるなら、マイクロトフが要求したことは違う意味を持っているということになる。 そう解釈し、カミューはやおら頭の高度を下げた。かすかに乾いたような薄紅色の表皮を、舌で湿らせた同じ唇で塞ぐ。重さを感じさせないよう細心を払った口付けだったが、予想通り起きる兆しはない。小さな音を立てて離れ、顎裏にもう一度唇を落とす。線を辿るようにはだけられた胸へと愛撫の軌跡が描かれんとした瞬間、がばり、と大きな手が頭を押さえつけた。 両肩で沈み込みそうになる上体を支えながら、カミューは今更だとでもいうかのように覚めた目線を投げかけた。眠る時もスイッチが切れるように予告のないものだったが、醒覚も突然であるらしい。長年の付き合いがあるとはいえ、今以て理解し難い体質だなと男は思った。 「何をするか、カミュー!!!!」 しっかり夢から覚めたらしいマイクロトフは、わなわなと赤面しながらも血走った目で寝込みを襲った犯人を睨みつけた。一体どの辺りで意識が戻ったのか問い質してみたい気分に駆られながらも、平然とそれを取って返す。 「おまえが望んだことを実行したまでだが」 いけしゃあしゃあと理由を述べれば、大きな波が打ったように黒い人間の目元が歪んだ。 覚えがないと白を切り通せばそれで済んだかもしれないだろうに、記憶力が人一倍良いらしい彼の明晰な頭脳は、無意識に発した言葉を思い出したようだ。あらゆる事物に対して責任感が強い、というのも、何かと問題があるかもしれない。事実に気づき、マイクロトフは口端を引き結んで絶句した。 「あ、朝から不謹慎だろう…!!」 だからと言って、と飽くまで自分が切り出したことを言外に認めつつも、早朝からすることではないと断言する。まったくテキスト通りの返答だった。第一疲れているのではないか、とこちらを気遣ってくる黒髪の青年に、カミューは白々しく柳眉を持ち上げた。 「おまえが望むのなら、元より私に異存はない」 今度こそ、マイクロトフは完全に閉口した。 元を正せば、もちろん誘い文句のようなことを呟いてしまった自分自身に非がある。というか、なんであんなことを言ってしまったのかがわからない。そもそも自分は耽溺したはずだった。昨夜の、朝にかけての時間を。なのに相手に催促をしたのは、何を根拠にしての行動なのか。それとも、こんなものが自身の本心なのか。信じ難い。いや、信じたくない。 ぐるぐると自己不信に陥ってしまいそうな状況と懸命に戦いながらも、敢えて青年は相手を非難しようとはしなかった。 寝言なのだから本意かどうかの信憑性はないと言い切ってしまえば素通りすることもできたかもしれないというのに、自分に対する融通の利かなさは団長を辞めてからも変わらないらしい。事実を事実として認め、それでも道を見出そうと努める。確かに美行だが、自身の首を締めているのであれば無意味だ。況や、余計な労力を背負い込んでいる。もっと言えば悪行だ。これはもう、墓場まで持ってゆくしかない彼の素質なのだろうとカミューは思った。そして哀しい哉、マイクロトフは自分の頭が固いという認識に乏しかった。 「望んだわけではない!俺にそのつもりはない!!」 手の込んだ理屈をどうしても思いつくことができず、とりあえず自己主張だけに突き進むことに腹を決めたのだろう。断固、このまま続行を許してはならないという気概がありありとその面に浮かんでいる。というか、これでもかというほど眼光に宿っていた。 要は、必死の形相だったわけだが。 「では、今晩までおまえに預けておこう」 カミューとて、このまま行為を突き進めるつもりはない。それぐらいの常識は弁えている。何より、それは今でなくとも実行可能だったからだ。 身体の上から他人の体重が退いたのを見届け、ほっとマイクロトフの全身から力が抜けた。が、ようやく得られた安堵も束の間、ぎょっと黒い双眼が見開かれた。 今日の晩、と言わなかったか。確か、カミューは。 事の真意を質すような鋭い目線で、マイクロトフが見上げる先の美貌を射抜いて来たが、寝台から降りた人影はそれとは別の話題を友人に振った。 「実はおまえに話しておきたいことがある」 襟元を正し、白い夜着に身を包んだ恋人が上体を起こしたところを見計らって、カミューは声を発した。そのために寝込みを襲ったとまでは言わなかったが、男はそのままベッドの端に腰掛けた。ぎしり、と布団のばねが軋む音を立てた。 そういえば、まだ早い時刻だというのにこの親友が目覚めているということ自体が珍しい。しかも、普段なら起きてもすぐには寝床から出てこようとはしないくせに、今日は身なりを整え、いつになく意識もはっきりとしている。 そこでようやく、マイクロトフの中でもこれは尋常ではないという意識が芽生えたようだ。 「何かあったのか、カミュー」 真摯な面持ちで問うてくる顔を見つめ、カミューは大仰なことではないと敢えて言い置いてから言葉を発した。しかしそこにはいつものような微笑はない。静かだが厳しい雰囲気があった。成り行きを腹を据えて見守ろうと決め込み、青年は男が動くのを待った。 長い指を両脚の間で軽く組み合わせた人影から、つと言葉が漏れた。 「私の母が、おまえを紹介しろと言ってきたらしい」 先刻、妹が告げに来てくれたということを明かす。 それがどういうことであるかが判然とせず、マイクロトフはあからさまに眉を潜めた。 |
Copyright(C) PAPER TIGER (HARIKONOTORA) midoh All Rights Reserved.
|