空の民草の民
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何度か食事に招待されたりしたこともあったので、カミューの母とはすでに大分面識はある。親しく打ち解けるという雰囲気でもなかったが、いつも丁寧な応対をされていたような記憶があった。そこに特段の不都合も感じなかったし、悪い印象を与えていたと思しき節もなかったように思う。何の失敗もなくやってきたつもりだったのだが。 「恐らく、正式に挨拶に来いと言いたいのだろう」 男のどこか思い詰めたような翳りを捉えつつ、それがどういった事態であるのかがよく飲み込めなかった。しかし、理由もなく招待を断ることはできない。息子としてカミューが彼女に命じられたのであれば、受けるのが筋道だった。 とりあえずマイクロトフは、わかったとだけ告げた。何を承諾したのかは自身でも今ひとつ理解に欠けたが、目の前の男の顔を見ていたら、そう言うしかないのだと思った。今更、カミューの母の申し出を断るわけには行かない。それに、これは自分だけの問題でもないのだろうとも思った。 頭の中で整理がついているとはいえ、理性とは別の部分で腑に落ちないとでも言いたげな思考が鎌首を擡げる。なぜ今頃になってそんなことを要求されるのかという不可解さと、そういえばそうなのだ、と合点する思いが胸にあった。 自分はカミューの何かと問われて、以前であれば変わらず親友だと反射的に答えていただろう。しかしグラスランドに来てから、その意味合いは少し違うものになった。いや、ロックアックス城を出た時から別の意味も含まれるようになっていた。紛うことなき、これが自身の愛する者だとの自己の見解が。 愛する、と言って、本当にそうなのだろうかと訝る気持ちもないわけではない。 仮にカミューの母に自分は男の妻だと紹介されても、それは違うように思う。妻女とは飽くまでその役を担える者のことだ。女だから男だからという区別ではなく、自分にはその役割は当てはまらないように感じた。カミューが逆でも同じ発想であったろう。 だから、妻室として相手の母の前に立つつもりはない。むしろ、想像するだに身の毛が弥立つ。そんな紹介のされ方をして、『カミュー夫人』などと呼ばれようものなら、いっそ剣で自身の喉笛を突く。それはさながら、エマが自分のことを義兄と呼ぶのと同じくらいの気恥ずかしさがあった。 ここに至るまであまり現実的な考えをこれまでする機会がなかったことに、今更ながら自らの不徳を恥じつつ、うーむとマイクロトフは唸った。カウンターの上に乗せていた腕を体の内側に曲げ、拳を作る。目線は店の壁を睨みつけていた。 昼間から立ち寄ってよい場所とは思えなかったが、部屋の一階にある酒場には昼食を取るために休みの日は必ずといっていいほど顔を出す。主人とは当に顔馴染になってしまったし、彼の内儀が賄う料理は自分の胃袋には合っているようだった。客商売であるのでマイクロトフだけに構うこともなく、時折気づいたときに声をかけてくるだけだ。一人で考える時間をくれる、貴重な憩いの場とも言えるものだった。 食事を終え、発酵させた茶葉で入れた珍しい茶を勧められたのは半刻ほど前だ。その間、ずっと思案に暮れている。いや、暮れずばなるまいと半ば強制的に思い込んでいただけかもしれない。 自分の心中など、あの男であれば尚のこと承知しているはずだ。だからこそ、強いてどうせよと言ってくることはなかったのだろう。大したことはできないと高を括られていただけかもしれないが、賢明な親友のことだ。何か秘策でもあるのだろう。あるいは、自分たちの身の振り方を模索している最中か。 では、自身のすることと言えば。 「やあ、黒髪の騎士殿」 ごとん、と音がして、椅子のない細い卓に底の厚いグラスが置かれた。昼間から酒を呷ろうという豪胆な者の姿に、マイクロトフは唇を歪めた。不機嫌を露にした相手に億面なく迫り、隣に席を陣取った男は白い歯を見せて笑った。 「相変わらずむっつりしているなあ?」 機嫌を損ねたのが自身の登場であることに気づきもせず、ジュードと呼ばれた若い騎士は片手に持った酒瓶の口を親指で弾くと、高い位置からグラスへ透明な液を一気に注いだ。一瞬にして目の前で杯が満たされ、支えていた掌がさあ飲めと言わんばかりに大きく開かれた。 「今は、遠慮します」 好意は有難いが、と社交辞令を口にしながらも、本気で拒むように手袋を履いた手で押し留めた。腕の先を失った元利き腕は白いマントの内側に隠れている。 断られたことに取り立てて執着することなく、男は軽く肩を竦めると指で捕らえたグラスの中身を一息に飲み干した。そして、にんまりと笑う。 「そう硬い顔ばかりをしてちゃ、色男が台無しだろ」 勿体無いと思わないのか、と尋ねられ、すぐには答を返せなかった。 正直、マイクロトフはカミューの幼馴染みだというこの男が得意ではなかった。外見も内面も質実剛健であることを大丈夫の条件だと認識する土地で育った者にとって、本音が見えないところにあるカマロの騎士はあまり得手ではなかった。 単なる先入観で軽んじる権利はないと自覚しながらも、彼の実力を目にしていない自身にはどうしても不審の芽が芽生えてしまう。称号を得ているとは名ばかりで、一兵卒程度の力量しか持ち合わせていないのではないかと。 極力面に出さないよう心掛けていても、敏い彼らのことであるから当に内心を知られていることだろう。であるにも関わらず、こうして好意的に関わってくるのだから、その懐の広さには舌を巻く心地だった。その点だけは、事情を深く知らない今でも好感が持てる。 「男が必ず美丈夫でなければならない理由はありませんから」 生真面目に否定すると、折角容姿に恵まれているのに、と微妙な苦笑を返された。それが冗談なのか本気なのかの判断ができず、思わず眉間に深い皺を刻んだ。 「俺の顔など、一般的な人間の顔です」 取るに足らないということを言いたかったのだが、マイクロトフ自身、一般的な容貌というのは想像が付かない。恐らくカミューのような造形ではないだろうと思うくらいしか、具体的な形容は見えてこなかった。 自身で不思議に思っていることを持ち出して相手を説得できるとは思わなかったが、とりあえずジュードは妥協してくれたようだ。こちらの性格を見越して大目に見られているのだとしたら、やはり器はあちらの方が一枚も二枚も上手であるように思える。 それがもしかしたら、苦手だと思い込んでいる一番の根拠であるのかもしれない。 「お聞きしたいことがあるのですが」 再び杯を呷ろうとした男の名を呼び、身体をぐるりと名指しした者のいる方向へ向ける。改まって尋ねられたことに目を丸くしながら、いいよ、と簡潔に承諾してくれた。やはり、カミュー同様カマロの騎士は寛容を持って人に接することのできる度量がある。その人格に甘えてしまう形になってしまったが、これ幸いとマイクロトフは声を張り上げた。 「カミューの母、ミケーレ殿のことを教えていただきたい」 束の間、男は瞬きを忘れて言った側を凝視した。 |
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