空の民草の民
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「カミューの母親か」 幼馴染みである友人の母の名を呟き、男はそっと上体を屈めた。両肩から下を隠すように纏った短いマントの裾の影が、一瞬深くなったように思えた。まるで見えない何かに怖気づいたかのような仕草に、尋ねた側の表情が不可解に彩られる。しかし何の真似かと詰め寄ることは非礼であると解釈し、返答が返るまでの成り行きを見守った。 「あのご夫人は、怖いぞ」 「そんなことはない」 ぼつりと齎された相手の答に、間を置かず猛然と反論したことにマイクロトフ自身が驚いた。 確かに女性を貶めるような発言をしたジュードを責めることは道理に反してはいなかったが、なぜそこまで彼女を弁護する必要があったのか。何度か食事に招かれて、簡単な会話をしただけだ。ある意味儀礼的な、単調な時間だったと思う。それを共有したからといって、友人でも、ましてや本当の家族になったわけでもない。 それほど深く知り合っているわけではないのなら、あまりに突発過ぎる発言だと思った。自分でもその理由がわからず、わずかにうろたえていると、男は頬に称えていた微笑を苦笑に変えた。 「おまえさんには、好きそうなタイプの御仁かもしれないな」 決して皮肉ではないというのは、柔らかい印象の眼が訴えていた。 では、言ったことは真実ということになるのだろう。 「厳格な方なのだと、カミューから聞きました」 だとすれば、幼い自分を養育してくれた祖父と近いということになる。 本来女性であるカミューの母が、如何に道理に厳しい人格であろうとも尊敬する実祖父とはまったく違うということも理解している。しかし、大事な存在である男が最も尊敬していると知れば、やはりそれは尊厳の対象にならざるを得ない。だからこそ、先刻の激しい反論が反射的に生じたのだろう。 軽く巻いたような短毛を持った茶金の男は、聞いたという元騎士の台詞に被せるように言葉を告いだ。 「厳格も厳格」 何せ、あのカミューが頭が上がらないくらいだからな、と嘯くように微笑を深くする。そこに初めて、男の本心が覗いた。 「厳し過ぎて、哀しくなるくらいに」 胸中で本当に感じていることをあまり表に出さないカマロの人間が、その片鱗を覗かせるということはどういうことなのだろう。他者から憐れまれることを恥辱と感じる誇り高き土地の者が、外の人間に真意を見せる。わずかな感情の発露だったが、そのことにマイクロトフは再び驚いた。けれど、複雑な心情にその思いは掻き消され。 かなしい、と他人に称されるほどの厳しい御仁というのは、どういう意味なのか。言葉を言葉どおりにしか受け取れない自身の不明を恥じつつ、なんとか受け入れようと努力する。だが咄嗟に感じたのは、無礼な言い草だという否定的な感想だけだ。 元来、人の口から発される音は音であって、それ以上のものを持たないと称するこの土地の考え方は性に合わなかった。 告げたことに責任を持たない言い逃れのように聞こえるし、また受け取った人間に責任を持たせないようにも思えたからだ。何事も実を持って通すことを義心と解している手前、どうしても腹に据えかねる道義だった。考え方の相違というよりも、在り方を受け止める素地自体の違いだとも思えたが、自分流に言われた台詞を噛み砕こうとすると、どうしても待ったがかかる。おかしいのではないか、そもそも発言すること自体が矛盾しているのではないかと、理性が思考の途中で警鐘を鳴らす。 大地を移して別天地に来たにも関わらず、培われた硬い信心というのは、どうにも角張ったまま丸くなろうとする気配を見せない。それに恥じ入る心地がないわけではなかったが、これが自分という人間の限界なのだろうと最近は感じている。意固地に我を守り通そうとする気風。自分はこんなに分からず屋だったのだろうかと思い詰めてしまうほど、明らかな反抗があった。 歳を重ねるというのはこういうことなのかと場所も構わず顰めっ面をしそうになり、これが人前であることを思い出して態度を改めた。 「申し訳ない。自分には、言われた意味がよく解せない」 感じたままを口に昇らせると、その率直な返事に相手は好感を抱いたようだ。 回りくどく、計算高い網を張り巡らせることをせず、端的に自分の内心を暴露する。謙遜とは別の、要領を心得た、腹の据わった奴と思われたのだろう。 「カミューの妹に聞くといい。エマは彼女の信奉者だからな」 おまえさんの友人が、そうであるように。 意味深な含み笑いを乗せたまま、それだけを言うとジュードは颯爽と身を翻した。 仕事の合間に自発的に作った休憩時間だというのに、まるで悪びれた様子もない。暇潰しというよりも、気分転換に立ち寄った酒場で思わぬ収穫を得たとでも言いたげな態度で店の主に金を払うと、まだ陽の眩しい路地へと消えて行った。その背は、話題から退いたというよりは、求めやすい真実はもっと別の場所にあるのだと告げているように黒い視界に映し出された。 なんというか、すべてが絵、詩歌であるように思える。カマロの騎士は自由騎士と呼ばれているように、何に対しても束縛からは解き放たれているのだと。 誰が言ったかも忘れてしまったが、すべてを見越したような落ち着いた物腰に、やはり自身はここでは異質なのだということを理解した。何も知らない愚者だと断言されたわけでもないのに、無骨な気質のおのれがひどく幼い者のように思えた。 |
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