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来りて
 ハースト孤児院を襲ったアクマを破壊し、数少ないエクソシストの一人であるティモシーなる少年を苦難の末に救い出し、数時間振りに緊張の糸から解放されるかと想像していたのだが、外部からの手によって建物全体が文字通り封じ込められた状態であることには変わらなかった。
 目の前に現れた最大の敵は倒れたとはいえ、油断のできない状況であることは火を見るよりも明らかであり、身動きがとれない事実に、教団の人間たちの間にも次第に焦りの色が見え始めた。
 特に若いエクソシストたちの焦燥や苛立ちは明らかで、負傷した仲間の救援だけでなく、一般人である女子どもたちの安全をも懸念しているのだろう。
 歳相応の、冷静さを欠いた言動が目立ち始めたことに、今更目くじらを立てる力も、自分には残されていなかった。
 出血はそれほど酷くはないが、殺人兵器と呼ばれるAKUMA(アクマ)の能力の影響によって、人骸化されていた肉体が、元の血肉に戻った今になっても、感覚という名の抵抗感がそこかしこに色濃く残っている。
 今だ人形の殻の中で動けずにいるのではないかという錯覚と手応えが、大きな違和感として体内に巣食っているかのようだった。
 火と水のように相容れない性質であるらしい、エクソシストたちの中でも超が付くほど犬猿の仲の連中は、早速互いを罵倒し合っている。一方は乱暴な言葉遣いを極力避けている節があるようだが、小さな頭の中に幾つあるのかも知れない貧相なボキャブラリーが尽きるのも、時間の問題だろう。
 気にとめなければさほどの害もないことではあるが、止血をしたとはいえ、間接的に受けた傷の痛みは治まらない。
 教団内の設備が整った場所で、適切な処置が必要であることは、無論、自分以外の負傷者たちにも同様のことが言えた。
「………………」
 無言で救助を待つだけの刻。
 窮地に陥れば陥るほど冷たく冴える思考と、温かな血が思い起こさせる人の情のようなものの狭間で、ただ黙して動かないことを続けるしかなかった。
 ふと、傍らに気配が降り、そういえば、損壊の激しい壁の近くに影のように佇んでいる男がいたことを改めて思い出した。
 周囲に溶け込んでしまうことと隠れることは、一〇〇パーセント、イコールではないが、意識を逸らす手管は隠密や諜報活動を行う人種にとっては習性に近い。むしろ、その違いこそが鮮明に市民とそうではない者との区別をつけさせる要因にもなっているのだが、その変異に気づいた者は恐らく自分以外にいなかっただろう。
 部署を出たからこそわかる。
 かつて居たところの、忍び寄るような特異さが。

 『マダラオ』は何も言わなかった。
 問いを受けたとしても、必ずしも発言する義務も意思も相手にないからに他ならないが、先ほど自主的に言葉を発したのも、珍しいというほどのものではない。
 元々、『鴉』なる組織で重要な責任を預かる機会が多かっただけに、物言う口には事足りている。
 一番饒舌な者は他にいたが、そういえば自身も相手も、無口の部類ではなかったと感じた。
 横顔を傾け、何事かを目線だけで質そうとした瞬間。
 先に動いたのは、マダラオの方だった。
 裾の長い緋色の装束に身を包み、目元を覆う紗によって表情は窺えないが、組んでいた腕の片方が前触れもなく眼前に伸びてきた。
 咄嗟に身構えるよりも前に、異変など瑣末なものであると断言するような強引さで。しかし抵抗を感じる暇など与えず、するりと触れたのは、視界の前面だ。
 人差し指から中指まで、数本が前髪の毛先を撫でるように触れ、そして離れた。
 瞬きの間に終わったそれは、一瞬の動作であったというよりも、なかったことと形容した方が近かった。
「………!?」
 思わず双眸を見開いて、不意の挙動を驚きはしたが、声が出るわけもなく。
 そのまま何もなかったかのように、他方を見ているかのような口元に、怪訝そうな眼差しを送ると、能面のように固まっていた唇がうごいた。
「………伸びたようだな」
 以前、会った頃と比べて。
 絹糸のような手触りすらあちらに伝わったかどうかも確かではない一抹の接触であったにも関わらず、それだけで向こうは合点をしたようだった。
 監査官として、毎日身だしなみに気をつけて毛の先を数ミリ単位で揃えていたのだから、そんなはずはないと反論しようとして、相手の一瞥に阻まれる。
 物言わぬ圧力を感じ、不承不承、睨みつけようとしていた眸を別の方角へ流す。
 自分が特に高圧的な人間に弱いとは思わないが、反感を制したことでマダラオはいつもの様子に戻ったようだ。
 興味や感情といったものを持たない木石のように佇み、自身と他を完全に隔絶する。
 それも見慣れている風景であり、おのれが過去に行ってきた習慣であることは明白だ。
 そんなに伸びてしまっただろうかと自問をするのは、教団へ帰ったあとで良いだろう。




-2009/5/29
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