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洗主
 明日までに読んでみたまえ、と。
 柔らかな表現でありながら、首を縦に振る以外の挙動を一切許さないような厳格な口調とともに差し出された、ハード・カバーの書物に目を落とす。
 任命後、初めて足を踏み入れた執務室の書棚に収まっている物と同様の、あるいはそれ以上に頑丈な装丁の本だ。
 新しくもなく古くもなく。
 どこから手に入れたのかもわからぬ、見たことのない書籍だ。
 間髪を入れず、下から支えるように両手を伸ばせば、すぐにずしりと重い手応えがに返ってきた。
 表紙を捲っても良いか眸を上へ上げて尋ねると、上司は不動のままだったが、それを了承と受け取った。
 伝統的な堅苦しい献詞の先、一枚二枚とページを辿るうちに、そのものの正体を把握することができた。
 それを相手も察したのだろう。
 仕事を行う部屋へ案内され、質問を受け付けることなく、要点のみならず監査官としての心得を、長官自らが指南して行く。
 立て板に水を流したように、止まることなく一気に説明を聞かされたが、圧倒的な規模の情報量を脳に直接流し込まれたところで、問題が生じるような作りはしていない。
 他に同僚は居ないのかと目を走らせれば、まるで制服を着たマネキンのような人影が数人、デスクに付いたまま、書類から書面を書き出す仕事に明け暮れている。
 恐らく辞令書の額面通り、その傀儡の一人になれ、ということなのだろうと即座に判断し、言われた指示を余すことなくすべて頭に叩き込むことに集中した。


 中央庁に勤務する人間の多くは、各々の家族や家を持っているが、『鴉』であった者はといえば、そんなものとは無縁の存在だ。
 元来、人の手に負えるものではないアクマ退治の実行役として、実力を期されていた部隊だ。
 戦闘だけでなく、細かにして難解な任務の遂行などのあらゆる実戦とノウハウを幼い頃から叩き込まれ、帰る場所などないのは、神の御業であるイノセンスを使役する適合者と些かも変わりはない。
 黒の教団と呼ばれる信仰団体に帰依する家族が、口減らしの代わりに我が子を差し出すことは、大きな声では言えないが珍しいことではない。
 肉親の代わりに生涯を神へ捧げ奉仕することによって、自らだけでなく親や兄弟たちをも敬虔にして忠実な彼の下僕であることを証明する『質』といえば相応だろうか。
 だが、生き物とは相容れない、千年伯爵の兵器であり、兵隊であるアクマを滅ぼすことのできるエクソシストの補佐役でもない自分たちには、帰るべき家族が迎えに来ることは決してなかった。
 才能を見出され、影の実行部隊に任命されたが最後、その存在は生まれながらに持っていた名前とともに秘される。
 過去も現在も、特に人格も所在も確認されることなく、命じられた役務をこなす日々。
 アクマ滅殺の武器となるイノセンスと適合しない者であることを確かめた上で教育を施され、戦いを強いられる。
 凶悪にして強力な敵に止めを刺すことが不可能である以上、捨石になることは少なくない。
 いや、むしろ、その繰り返しだと言っても過言ではなかった。
 消えた者を何人も知っている。
 誰にも守られることなく、命を散らせた者も、幾人も。
 教皇の威信を示す、あの勲章を身につけることも許されず、見上げるだけの、文字通り人柱にもならない者たち。
 その苦しみも、遺恨も、誰にも悟られることがない。
 それが、常の生だった。


「………、悪くない」
 初めてにしては上出来だと、それほど手放しに褒めたわけではないだろうが、中よりもいくらか上、といった評価を貰えたものの、あまり実感の沸かない感覚だった。
 今までいた場所で、同じ構成員に軽く労を労われることはあっても、目の前で上から言葉を放られる機会はなかったからだ。
 本に記されていたものに興味を覚え、女子どもが喜ぶ類いの慰み物であるとはいえ、見知らぬ者たちばかりの教団内の伝手を頼りに材料を揃え、自ら作り上げたことに、上官のその人は起伏の平坦な機嫌を損ねるようなことはなかったようだ。
 すぐに小言のような忠告が口を突いて出てきたが、行っていることは理に適っている。
 道理をすぐさま説明できることも、監査官として必要な能力なのだろうと察し、自身でも気づかぬうちに何度も首肯していた。
 改善すべき点、手順、風味、色彩。
 多岐の分野に及ぶ長い講釈を受け、その膨大な知識と経験の量に圧倒される。
 威圧を与える語調や物腰も、長官という役職にある者として受け継がれた生来の気質なのだろう。
 諾、諾と頷くうちに、生真面目な性格を悟られてか、視界の中の人物の顔が奇妙な形の表情を呈した。
 不釣合いな部品をそのまま顔に当て嵌めたかのような、背筋が一瞬冷たくなるような人の面の笑み。
 初見の者であれば、その慣れない動作に不審を抱いたかもしれないが、自分のしたことに反応が返ったというだけで、無機質であった心の底に、何かが生じるような錯覚があった。
 感情のない、命令に従うだけのからくりであることを強要された日常。
 どんなに血を流しても、肉を削ぎ、生きることの意味を失っても、絶対に得ることの叶わなかった糧。
 それを与えられたことに、刹那。
 満たされたような、淡い憧憬と寂寥の念が宿った。




-2009/06/07
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