駄話[02] ■-
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歩きながら資料に目を通す。 データと言っても、ほとんど周知の内容だ。 身長体重、出身、家系。オリンピック選考試合を受けるまでの経緯。その大部分は、恐らく英国の誰もが知り尽くしていることだろう。 目新しいものは何ひとつない。ならば、自分で手に入れろということか。 実際、これしきの資料で『能くサポートせよ』とは無理な話だ。だが無理や無駄という言葉は、その場で即動けとの実行の合図だ。ないものを『ない』と上に発言するのは愚の骨頂。なければ探せ、と返されるのがオチだ。 国家に所属している意識のある人間なら、そんなことは皆暗黙の事実だ。世間知らずのお坊っちゃんが初めて国から仕事を請けるのではない。ならば、愚行に走るなど論外。 実物に会わねば話にならないと結論を下し、住居だと記された場所を目指した。電車とバスを使って、あとは長い距離をただ歩き続けた。 天候は曇り。風に湿り気があることから、のちに降雨があるだろう。 濡れるのは毛嫌いするほどではなかったが、気に留めるくらいの良識はある。外観に配慮するのは、自分のためではなく他人のため。他者に悪い印象を与えないための当然の行動で、思念だ。疎かにする方が、尋常ではない。だが、この場では不可抗力と見るべきだろう。思いついた足で向かったのだから、身支度の用意が不完全であったのは仕方ない。 伴う者もなく突き進んで行くと、やがて大きな公園に行き当たった。 懸念していた通り、足元に雨が落ちてきた。 しとしとと、小さな水滴を降らすのは英国特有。温度はそれほど高くはないが、寒いというほどでもない。だが、コートを着ていなければ肌寒く感じていただろう。小雨が降り続ける今となっては、羽織ってきて正解だったようだ。 視界を守るように手を翳し、上空を見上げる。 暗い空。無数に落ちる雨粒にすら、透明な濁りがある。 ケビンマスクの住処は、ここを通った一画にある。住所にはその近辺と書かれ、具体的な場所を特定していなかったが、住んでいれば容易に目に付くだろう。超人など、地球上ではそれほど多い人種ではない。他ならぬ有名人であれば尚のこと。運悪く不在でも、明日出向くという手もある。 ロンドンの郊外。自身の住居も外れにあるが、こことは逆の方向だった。このまま行けば、恐らく帰宅は夜になるだろう。 足を進めてゆくうちに、全身が湿り始める。決して心地良い感覚ではなかったが、公園の樹木の下で雨宿りをすればいずれ晴れるという様子でもなかった。 人を探すとき、長身であることが幸いする。建物の中でさえ、用事のある人物を短時間で見つけることができるし、逆に捕まりやすいと言われることもあった。 佇まいを異にしているという理由だけでなく、頭一つ分抜け出たような、人波から突出する身長が目印になるようだ。 通常、超人というのは体格が大き過ぎて、公共施設で行動するにはかなり難がある。平均的な人型の超人からは若干見劣りがするものの常人に割と近い自分などは、幸いにして人間たちの建物の中でも窮屈な思いをすることなく振舞えた。超人としての才能には恵まれてないことが幸いしたというのは皮肉な話だが、今となっては強烈な劣等意識は感じない。 超人とは、卓越した戦闘能力と体力を保持する者のことを指す。 一概に劣っていると表しても、飽くまで超人レベルでの評価であって、人間との差は言うまでもない。優劣があろうが、超人という自らの存在自体に変化を及ぼすわけではなかった。 今は人に近い位置で、彼らに囲まれて暮らしているが、本来はケビンマスクやその他大勢の超人たちと同じく、平和を乱す者と戦わねばならない使命というものも、充分に承知している。 それでも、居場所は変わらない。 変える理由も見当たらなかった。 濡れた草を踏みながら歩き続けると、ようやく公園の端を視界に捉えることができた。 中央を横切ってきたが、人影はない。雨の降り始めとともに家屋へ戻ったのか、元から閑散とした場所なのかはわからないが、確かに人通りが少なかった。 夜になれば、郊外と言えど物騒だ。治安は、中途半端に鄙びた所ほど悪くなる一方。 軽く、予感はしていた。 待ち構えていたように、数人の影がこちらへ近づきつつあることを確認する。 あまり、この手の気配というものに敏感な体質ではない。オフィスの中での悪意ならともかく、外で慣れるには自分は室内に篭もり過ぎた。 そして、相手は徒党を組んでいようがか弱い人間。 殺される気はしないが、抵抗して彼らを死に至らしめない自信はない。確率を言えば、力の加減を巧く行えず危害を加える方が高かった。最高の知能を有していると言っても、実際に動くとなれば理屈ではどうにもならない。所詮、自身は頭脳だけを買われて生きているような存在だ。 殊に人間の殺傷は、超人にとって命取りだ。おのれの存在理由を一斉に否定される最大の要因となり得る。その行為一つを取って、悪行の仲間入りをさせられないとも限らなかった。まさに、生命を絶たれるに等しい愚行だ。 しかしそれをすることなく、この場をかわしきらねばならない。 無表情の仮面のまま、周囲を見渡す。 完全に囲まれているのは目に見えて明らか。逃走を阻まれるのなら、自分の手で作る以外方法はない。 金品目的だろうが、手にした書類を万が一にでも紛失するような事態があってはならない。軍事事項であれば、漏洩は何としても避けるのが必須。悪知恵が働く者ならば、他国に流す危険性も否定できない。 出た答は、攻撃を防ぐしかない、だった。 ついに眼前に現れた数人の男たちを前に、平然と構える。 何者かの合図とともに振り被ったナイフや拳をガードしながら、しばらく様子を窺った。所詮人間のスピードなど児戯に等しい。隙あらば逃げるつもりだった。 しかし、集団での戦法に慣れているのか、次々と身体目掛けて伸びてくる刃物を避けるのは至難の技だった。変則的であるからこそ、誤って相手を傷つけないとも限らない。 道の脇に生えた太い樹木の幹を背に、似たような革のジャンパーを纏った数人の男たちの攻撃を受け流しながら、冷静に周囲を観察する。金銭もだろうが、暴れることも彼らの目的らしい。 群れをなし、人を襲う。弱くなければ群れを作る必要はない。見え透いた小心と、愚劣極まりない精神。そこにあるのは、唾棄すべき性根だけだった。 見開かれた眼に侮蔑が浮かんでいたのか、身を屈めたところに膝が入った。顎を蹴り上げられ、不覚にもよろめいた。 超人だから人間に手が出せないのだろうとか、腰抜けだとか。雑言が耳に届くが、まるで負け犬の遠吠えだった。同情も憐憫も沸かない。口喧しいだけの、まさに芥だ。 だがどんなに見下そうとも、拳や蹴りに晒される体が傷み始めているのも事実だ。時間をかければかけるだけ、相手も体力を消耗するだろうが、こちらのダメージもゼロではない。 肩から上を両腕でガードしながら、その隙間から覗く紅の眼は冷たい。 激昂した馬鹿の、それも集団ほど手に負えないものはないという良い例えを身を持って経験しているというわけか。攻撃を加えることなく、指を咥えて黙っていれば、付け上がらせる一方なのだろう。終焉など、無知な彼らの頭が導き出せる道理はない。 考えのない興奮。脳細胞が死滅していると罵られても文句は言えまい。 ここ至ってようやく対策を模索し出すのは間が抜けていたかもしれないが、悪漢と会う経験がほとんどなかったのが災いしたようだ。遅まきながら手段を講じようと、防御に専念していた思考を切り替える。 一人。たった一匹を黙らせれば、行動を止められるかと。 気配を変えようとした途端、仲裁が入った。 「人の住んでるところで、物騒な真似はやめてもらおうか」 言葉としては、やめてやれ、と命じる印象に近かった。 実力を他者に知らしめるには充分過ぎるほど、高慢な影が滲んでいる。 やりたければ他所でやれとの言い分を聞いていれば、決して行い自体を責める口調ではない。住んでいる人という言葉が指す意味合いにも、発した当人以外を彷彿とさせるような重みは含まれていなかった。 声のする方角から、闇に紛れて姿を現したのは、黒いコートに身を包んだ長身の超人。 頭部全体を覆ったマスクの形状から、何者であるかが闇夜でも知れた。 すっかり辺りを包んでしまった暗い雨の中、高い位置にある頭上の双眸が静かに光った。 自然と口に上った名前が、しんと静まった公園の端に響く。 表情など窺えないが、確かにそれは笑ったようだ。 眼だけで。 それが放ついびつな黄金の光だけで、強かな感情の起伏が伝わる。 「…超人を相手にしたけりゃ、俺がなってやるぜ」 コートに突っ込んだままの腕を抜き出しもせず、立ち尽くした悪童どもを挑発する。 完全なノーガード。なのに、暴徒たちは気を呑まれていた。 本物の超人の巨躯と、その名が指し示す脅威の前に。 「それが嫌なら、ママの所へ帰ってミルクでも啜ってるんだな」 駄目出しの一発を浴びせたかと思うと、不運に見舞われた人物の元へと長い足を伸ばした。その一言で、周囲の連中のことなどすっかり忘れ去ってしまったと言わんばかりだ。頭数を集めただけの人間になど目もくれず、一歩一歩前進する。 歩調は堂々として、何憚ることがない。むしろ、それが当たり前であるかのようだ。細波が引くように、眼前に立った者たちは次々と身を退けた。だが、眼だけは縫い付けられたかのように、黒いコートの超人を注視している。 やがて座り込んだ被害者の前で足が止まると、背後でまだ留まっている人影をゆっくりと振り返った。 「いつまで、そこにいるつもりだ…?」 集まっていた無数の影が、その声を聞いた途端、電流が走ったように大きな引き付けを起こした。腰を抜かしたように、手で地面を這いながら一斉にその場から逃げて行った。 一瞬の狂気に、彼らにとっての絶望を見せ付けられたかのように、無残な負け犬の体で逃げ帰った後を、半ば茫然と見送った。 しかし、その理由はわかり過ぎるくらいだ。 超人が、彼ら人間を殺すことはない。 前述した通り、名誉と信頼の失墜が生存そのものの致命傷になるからだ。 だが、このケビンマスクだけは、相手が超人だろうが人間だろうが関係なく、立ち塞がる者は再起不能になるまで叩きのめしてきた。 その事実と、振る舞いから滲み出る威圧感に、皆が皆白旗を揚げて逃げ出したのだ。命の危険を感じるなど、今も現役の悪行超人に数えられても不思議はないほどの豪気。呆気ない終幕だったとしても、彼らを嘲笑することはできなかった。 相手は、ケビンマスクだ。 暴漢が超人でも、おいそれと相手にできる者ではない。 それがどんなに屈強な超人であっても、事実に相違はなかった。 手を差し伸べられ、起こされる。 言わなければならないことも、聞きたいことも山とあって、どれも出てこない。あまり世間に私生活を公開していない、ある意味謎に包まれた英国の誇り。 だが意外にも、他人を思いやる気持ちはあったようだ。少なくとも、少年の時分までは躾の厳しい世界で過ごしてきた経緯がある。それに、悪行超人だったのはつい先日までの話だ。 ふと、こちらを見ているらしいことに気づき、目線を合わせた。 礼を言うべきなのだろうが、助けてくれと頼んだ覚えはない。 であれば、謝礼は不履行。 「あのまま、もし奴らが襲ってきたらどうするつもりだった」 出てきたのは、前置きのない問いかけだった。 本来、過ぎたことを問うのは正当ではない。 心するのは常に結果論であり、他人の主義ならばとやかく言う義理はない。 なのに、自然と口を突いた。 礼のないことに憮然とする様子もなく、頭一つ分顔が上にある超人は、助け起こすために抜いた手を再びコートの中に仕舞い込んだ。 動作は安穏としているが、同時に発した内容は物騒だった。 「適わねえってことを、体でわかってもらうしかねえ」 決して、正義超人の代名詞であった父親を意識してのことではない。 本心であるのは、横柄な仕草とともに吐かれた台詞でないことから嗅ぎ取った。 チンピラ紛いの正義超人。 第一印象は、適確で、そして間違っていた。 これも英雄であった父の影を意識しての発言だったのだと気づいたのは、後々のことだ。だが今は、まだ初対面であるこの超人が、案外小物であるとの認識しか持たなかった。いや、持つことができなかった。 確かに体格に恵まれ、素質にも資質にも事欠かない。見栄えのする風体と言い、耳に心地良く響く低めの声音も、子どもや女性に好印象を持たれるのも頷けた。 それでも、対峙した一瞬ですべてを善しと判断するのは軽率だった。例え相手が悪人だろうとサポートする意思はあったが、実際にケビンマスクがどんな超人であろうと、彼自身に興味はなかった。 ただ、勝たせさえすれば良い。 自分の果たす役割は、優勝の二文字だけだった。 言うなれば、モノ。自転車でお使いを頼まれて、目的のために乗りこなす自転車そのもの。 それだけだ。自分は任務を果たす手段であって、目的ではない。目的を果たすためには手段を講じなくてはならないが、手段そのものの本質を変えることはできない。そう命じられている以上、理解する必要もまた無(なし)。 「俺は、あんたのサポートを国から依頼された」 地面に落ちて黒ずんだ紙を数枚を拾い、汚れも構わず腕の中の書類とともにまとめる。 視線は、当人には置いていない。 目の前の紙片にだけ向けられる。 認識する必要がないのなら、意識も然り。 「クロエだ」 握手を求め、差し出す手も要らない。 |
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