駄話[04] ■-
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翌朝、居場所も明らかにしていなかったのに訪問者があった。 寂れたようなアパートの一室。一階の部屋。ドアに鍵はなく、軋むような音とともに来訪者は現れた。 就寝時も決してマスクを外すことはない。常在戦場の四文字が示す通り、超人の最低限の心構えとしていつでも臨機応変に戦いに応じる気概がそうさせていた。 常にマスクを被っていても、特別な違和感があるわけではない。相手はそれを見越しているのか、縄張りに入ることに躊躇しなかった。普通、良識のある者なら、立ち入りを思い留まるところだ。 いつでも臨戦体勢の超人ならば、纏う気迫が常人と異なる。下手をすれば一瞬で首の骨をへし折られるかもしれないような場所へ足を踏み入れようとするなど、格闘家の端くれならばどれほど危険かわかりそうなものだ。その考えすら、クロエの前にはないのか。 それとも。 「…モーニングサービスを頼んだ覚えはねえ」 鬱蒼と、被っていた毛布を剥いで起き上がる。 陰鬱な口調に、窓の外を仮面の男は見た。先にあるのは、真上より少し傾きかけた太陽。 昼だ。もう朝と言うには遅過ぎるということを言いたかったのか、視線は窓から直接頭上へ戻ってきた。その間も、一言の挨拶もない。 無口な奴、を通り越して、本当に口が利けないのかと訝しむ。 そうでないことは、すでに実証済みだ。 「今日は、一体全体何の用だ?」 目的を尋ねる。 殊更ゆっくりと発音した台詞には、家人の許可なく敷居を跨いでやって来た相手に対する皮肉が滲んでいる。そして、言った当人もそれを隠そうとはしなかった。 果たして、少なからず悪意が篭っていることが通じたのか、返るものがあった。 滅多に発言しないので、声音すら忘れかけていた。まだそう頻繁に耳に記憶したこともない、淡々とした無機質な音。 「運動能力のデータを取りに来た」 目的格は述べられなかったが、この場に互い以外誰もいないとなれば、自動的に自分の、ということになる。 問いかけに対する答を久々に聞き出せたような気がして、そこにはわずかな感動すらあった。 好まぬ会話を極力避けるように、無応答ばかりが続けば無視されているような気にもなる。こうして肉声で答が返った時だけ、こちらの存在を容認されように感じ、言った側の気分をかすかだが上向かせた。単調なからくりだが、嵌ると些か厄介かもしれないとの懸念を感じつつ、思ったことを口にした。 「手に持ってるその資料に書いてあることが、俺のすべてだろうぜ」 昨夜と同じに、裸のまま所持している紙片を顎でしゃくる。 大方、所狭しと敷き詰められた小さな文字を読みながら、黙々と歩いてきたのだろう。風に幾度もあおられたであろう、白い面には無数の皺が刻まれていた。 しかし、相手はかぶりを振った。 「今現在のデータを取りたい」 資料が新しくないのか、それとも自身で確かめたいのか。 どちらにしろ、クロエの意思は初めから固まっているようだ。 「…理由を聞かせてくれ」 立ち上がりもせず、片足の膝を曲げて立てたまま、相手を見据える。 ベッドからドアへ至るまでには、かなりの距離がある。床には雑誌や酒の空瓶が散在し、足の踏み場もない。横になるためだけの、単なる寝処だ。 英国代表に選ばれた時点で中心地に程近い場所に豪華な住まいを無償で提供されたが、それを断った上でここに住んでいる。眠るところならどこも一緒だという、極単純な理由から。 普通のアパートは超人には手狭だが、一階全体を借り切ってしまえばさほど不自由とは言えない。部屋の壁をすべて取り払い容積を広げれば、体躯に見合った空間に様変わりする。天井までの距離も高く、長身ゆえに手を伸ばせば軽く届いたが、居心地が悪いほどではない。 適した住まいを得ることも、超人にとって難題だ。高級住宅ならば相応の物件もあるかもしれないが、下町で暮らすには人間の環境では手狭過ぎる。ゆえに自らの知名度を上げて報酬を得なければ、真っ当に生きて行けないのが現実だった。名の売れぬ無力な超人は、実力程度の生活しか望めない。あるいは以下か。無論、自分はそんな不遇とは無縁の存在だが。 クロエはふと紙面に目を落とした。そのまま、続ける。 「このデータは予選トーナメント前の、地下で行われていた隠れ試合を参考にしたものだ。しかも実質データではなく、飽くまで観測だ。実証に欠く。正確なものを手に入れたい」 長い台詞を一気に並べ立てる。 終わるまでの数秒、ケビンはじっと耳を傾けていた。 決して不快ではない声のトーン。呼吸すら、いつしているのかも傍目にはわからないほど細密で機敏。発言が終わった後、こちらを窺う無表情の視線。そして、展開する論理の組み立て方。どれも始終正確で、動作には一片の淀みすらない。 正直、こんな超人がいるのかと疑いたくなった。 素顔を隠している以上、外見から年齢を判断することはできない。しかし、まだ人生経験が浅いと言われるだけの年月を生きてきた自身にとって、それはあまりに無駄がなさ過ぎた。 合理的で非の打ち所がないという事実は、一方で苦々しい思いすら抱かせる。だが、反論する余地はなかった。そして、それをすることはケビンマスクなる超人が兼ね備えた生来の素質を裏切ることと同義だった。そこまでおのれは廃れた根性ではない。ならば、その申し出を受けるのが、自身が取るべき本来の行動だ。教養に長けた者ならば、理に適った言い分を無碍に断りはしない。 せめてもの意趣返しとばかりに、大きく溜め息を吐いた。だが、それだけだ。 「トレーニングルームでも施設でも、お偉方の集まる研究所だろうが、どこへでも連れて行って好きに調べな」 承諾を示し、重い腰を上げるように起き上がろうとしたところを制された。 ここでする、とクロエは言った。 Tシャツ姿のまま、ケビンは眉を潜めた。 計測機がなくて、どうやって数値を測るというのか。ただでさえ人間用と超人用では違うのだから、そこら辺で簡単に機材を見繕えられるものではない。 「自分で見る。機械は必要ない」 クロエの口にしたことは、実際対戦をして力量を見極めると言っているようなものだった。 リングの上で戦えというなら手加減をするつもりはなかったが、そういうことでもないらしい。 戦いは不得手だと、クロエは自ら吐露した。 戦いの場に参加した経験すらないと言う。 確かに、ロープを飛び越えリング上に上がった途端、巨漢の超人に押し潰されそうな外見をしている。体格も、ウェイトも、そのすべてが超人の平均値をはるかに下回っているとしか思えないのだから、無理もないことだった。 不意に手を出すよう求められ、毛布の下になっていた利き手を伸ばした。 素手に、傍らで膝をついたクロエの手が絡んだ。意表を突かれて握られた先の、生身の指が覗いている部分にぎくりとする。 血の気が引いたように、肌寒い白さの指。厳つい黒牛革のグローブで隠されているが、凡そ人を殴ったことのなさそうな印象だった。関節は、確かに男のものだ。しかし、傷のないそれに力を入れろと言われて、相手の顔をまじまじと見返した。 「本気を出したらへし折れるぜ?」 脅しではなく実際そうなるだろうことを示唆する。 しかし、予期せぬ即答が返った。 「判断は任せる」 折るも折らないもそちらの決定に任せる、と。 過信されているのか、侮られているのか。判断に悩む返答だった。 「わかった」 意を決して握り込む。 ぐ、と込めた力を、ただクロエは見つめていた。やがて圧迫が去ると同時に、新しい紙片にさらさらと筆を滑らせた。 「それだけでわかるのか?」 全力を出していないのに、正確な数値が。 クロエは答えず、手を放した。低い体温が離れる直前、抜け出す指先を瞬時に捕えた。掴まれ、動かなくなった部分を、今まで触れ合わせていた温もりの主が横目で見る。だが、言葉で何の真似かと問う意思はない。 いきなり行動を停止させた動機が、駄駄っ子が母親の服の裾を引っ張って我を通そうとする印象と似ていたことに、我知らず苦笑を洩らした。 やはり、興味がある。このクロエという超人。寡黙で無表情で、生身と思われる部分がない。何かを期待させる卑屈さもない。完全な営利欲求とは別の、無垢なるものに刺激される。 「もっと、簡単な方法があるぜ」 いちいち筋力を部分的に測るのではなく、手っ取り早いやり方があると説く。 不意に齎された提案に、怪訝な色が浮かんだ。外気に晒された、透き通る眼球に。 掴んだままの手を引くと、前のめりに膝をついた。力の向きが相手の内側に向かっていることに気づき、全身をぴたりと停止させる。何をしようとしているか、ようやく思い至ったようだ。 行動の静止は、つまりは拒絶か。 閉口したまま、クロエがこちらを凝視する。見つめ返せば、非難的なものなど何も映っていなかった。 ただ、相手の意を汲んで一言。 「せめて、日が暮れてからだ」 行為を中断させたのは、目的の拒否ではなく環境が相応のものになれば応じるとの意向。これには、思わず笑いを禁じ得なかった。 測定するのに容易な方法があるとの発言には下心がある。男を腕の中に引き寄せる時点で、すでに尋常ではあるまい。色恋の経験のない子どもではないのだから、その先が示すことは自ずと知れたはずだ。なのに、嫌の一言もないとは。 イカレているのか。それとも、本気で計測するつもりか。 このケビンマスクという超人の力量を、そんな安直で、愚劣なもので読み解こうというのか。 クロエの中にあるであろう、駆け引きによって生じる利益が如何ばかりであるか。想像しようとして、思考回路に待ったがかかる。どう頭を捻っても、男に身を任せるに値する価値というものが見出せないからだ。 それとも、本気で効率の良い方法だと信じているのか。 だとしたら、よほど高を括っているのか、あるいは何も考えていないかのどちらかだ。例えその白い仮面の奥に隠された真実が、生真面目な性格の人間のそれだとしても、対面して間もない者を相手に寝ることを許容するはずがない。いや、許可を下すことなど不可能だ。倫理的に考えれば、その手の趣向の者でない限りは絶対に。 改めて見る。 視界に映るのは、沈黙した城塞の如き金属で頭部を覆った静かなるもの。額に赤の鉱石を埋め込み、瞳は更に硬質な炎が宿っている。透明度が高く、だが色彩もそれに輪をかけて濃い。子どもの頃、店のショーウィンドウ越しに眺めたお城を守る兵隊か、そこに住まうことを許された城の主のようだと思った。 荒ぶることのない外見に騙されれば、痛い目を見るかもしれない。けれど、裏で小賢しい計画を練っているとは到底考えられぬほど澄んだ眼差しだった。見つめられて居心地が悪くなるのは、後ろめたいことを山と抱えた卑屈な人間くらいだろう。 好印象。自分としては驚くべきほど、上々の評価。皮肉な苦笑いすら、思いに追従するように浮かんでくる。 「俺はもう一眠りする。夜になってから、またここへ来るんだな」 もし本当にその気があるのなら。 最終的な決定は、全部そちらに任せると。 それは至極親切な良心からの言葉であり、明らかな挑発だった。 尻尾を巻いて逃げれば、以後も付き従うであろう相手にとっては物笑いの種になるだろうし、意を決してこちらに飛び込んでくるならば、もはや容赦はしない。賢明な采配を下したところで、どちらが優位かは歴然。利は完全に、選択を提示した側にあった。 知人に頼まれた使いを引き受けるように簡単に、こくりと黒い止め具をつけた顎が上下した。否応どころか、疑問すらないと来た。結構なことだ。そして、潔い。 立ち上がろうとする瞬間、握っていた黒い手をわずかに引く。まだ何か用があるのかと無言で問うてくる様を見上げながら、今だ口端から退かぬ笑みを湛えたまま語りかけた。 「ケビンで良い。今度からは、そう呼ぶといいぜ」 超人オリンピックで万が一にも敗退しない限り、パートナーとしてこれからをともにする。ならば、他人行儀な呼称は耳を疲れさせるだけだ。相手にしてみれば、馴れ合うつもりは毛頭ないのだろうが。 「アア」 返事を片言で済まし、クロエは去った。 愛想を通り越して、無気力かと思えるほど口数少なな態度。 だが、無駄はない。 必要最低限をぎりぎりまで絞り込んだような動作、言動、思考。 無機質な機械より淡白で、驕った者には邪険にされているとしか思えない挙動。なのに、何故。 悪いとは思えない。自分に不向きな人種とは。 少なからず気に入り始めていることに、来訪を受けた者は思わずくっくと肩を揺らした。 |
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