駄話[06] ■
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夜の夜中。 時計を見れば、まだ21時を回ったところだ。夜中、と断言するには少し性急過ぎたかもしれない。 あれから飽きもせず、三度に渡る交わりを交わした。 一度火が点くと止められないのか、まるで貪るように相手の肉に食らいついていた。いや、食らっていたのはクロエの方かもしれない。 下肢に挿し入れられた肉塊を逃さぬかのように引き絞り、締めつける。それが痛みならまだしも、全身を掌で愛撫すればするほど電気が走ったかのように、後ろへ反応を繰り返す。体の良い、とはよく言ったものだ。確かに、離し難い衝動を興させる一級品。自嘲のため息が唇から洩れるほど、のめり込んだ先の時間を思い出す。 暗闇の中、床ではまだ乱れた呼吸に胸を喘がせている影がある。窓から洩れる外灯のほのかな明かりに、わずかに筋肉の隆起が照らし出される。 身体を脇によけ、片足を立ててその様を見守る。簡易のベッドに横たえられた他人の肉体。ただの骨と血と皮が詰まった物体だと思えば、何の感慨も浮かばない。 だが、息をしている。乱し、整えようと努め、ままならない。 目が利き鼻が利くほど”器用”な、そして計算高そうな超人が、この瞬間だけは随意に物事が運べないでいる。 妙な悦楽がある。 実力の差に恐れをなし、怯えた試合の相手を叩きのめすときに似た、実感を帯びた優越感。 サディスティックと呼称するには冷めていて、それでいながら陶酔も確かにある。すぐ側に、理性の目があることを熟知しながら得る快楽。絶対的な正義の神が見つめる前で、真の暗愚に堕ちることを許されぬような、一種の矛盾から生まれるしがらみ。結局自分は紛れもない誇り高き一族の後胤で、その枠からはみ出すことはできないのだといつも思い知らされる。 棄てられないのは、崇高なるプライド。 なにゆえ放棄できないのかと問われれば、受け継いだ才能が自らを卑下することを拒むから。資質を持たず、自身に誇れるものが何一つなかったのだとしたら、半永久的にこの世のすべてを呪えただろう。そうはならなかったのは、他人が羨む知性と教養と素質をすべて兼ね備え、見てくれにすら事欠かなかったからだ。 所詮、泥を這いずり回る部類の人間ではない。だとすれば、そんな世界で生きている奴らのことなど、端から理解できるわけがないのだ。 悪行超人界を離反したのは、おのれに生来備わった誇るべきものを廃らせきれなかったから。 正義超人に組みすることも頭から許容し切れなかったのは、そこまで自分がおキレイでもなく、また、正義ぶっている連中の大半は、偽りでしかなかったからだ。 お坊ちゃん特有の、極度の潔癖。また、狭量なのだろうと自覚する部分もある。だからといって、至らぬ部分を精神修行によって改めるつもりは毛頭ない。 好きにさせろ。 それが、いつでも自分自身に与えられた自由の権利。 当たり前のように感じているから、誰も自分を変えられない。 もし変えようとするならば、自発的に変える意思が根本になければ変化を来たすことはない。 なぜなら、そこには常に”支配者”という意識が存在するからだ。 自分を構成し、動かすのはおのれ自身。 思いあがり、傲慢、驕慢の生む錯覚。 頭のない人間を愚か者だと罵るが、知略に長け過ぎて調和の本質を見誤る者も同じだ。 だが、『穢れ』がすなわち悪ではない。 世界を成すものの多くが、悪辣なるものに属するのだとすれば。真に穢れなきものなど、この世に存在しないのならば。 汚れた部分をも持つ自身は、なんら醜くも憐れでもない。 真理に盲目なる、救いがたい亡者でもない。 ジレンマと呼べる、憎しみに転換される感情の軋轢。これが存在する限り、求める先にも満足の行く結末は望めないだろう。超人オリンピックで念願でもあった打倒・万太郎が果たせたならば、あるいは自分の中で何かが変わるのだろうか。 不意に、小さな電子音が鼓膜を打った。 鎮まりかえった室内に、か細い音が響く。 音源を目の端で追えば、クロエの肩から腕を覆い隠す、黒い上着の胸元に行き当たった。 音色から察するに、無論クロエが所持する携帯電話だろう。 気づいた当人もそこへ手を伸ばすが、呼吸が整っていないならば真っ当な応答は不可能。 性交の最中でした、とは誰であろうと知られたくはないだろうと当たりをつけて相手より早く、服の裏地から鳴り響く機械を奪い取った。 視線が、追う。 揺れている緑が、口元に引き寄せられるそれを追った。 ぷつ、と回線を発進元とつなぐ。 電波に乗って持ち主の名を呼ぶ声が耳に届いた。 答えず用件を聞き出せば、どうやら門を閉める時間らしい。いつになってもクロエが戻らないことを案じた住処を管理する管理人から連絡のようだ。 なるほど。夜の9時が社宅か何かの門限だということか。 軍の関係者は、家族ともども監視のつけられた居住区やマンションに住むという。いつ何時、どのような敵に見まわれるかも知れない機関に勤める人種であれば、相応のセキュリティが施された場所で暮らすのが当然だ。 手袋をはずした白い手が、奪い取られた方向へゆるりと伸ばされる。まだ興奮を抑制しきれない体勢で応答に出れば、一発で異変があったと悟られることは目に見えている。 むしろ、自分以外の人間が電話を取っていることを相手に知られる方が、クロエにとっては喜ばしくないことなのだろう。何より、弁明が利かない。他人にそこまで支配権を委ねてしまっていることを、自分の関係機関に知られるのが。 プロの世界が峻厳であることは、ケビンだとて知っている。身に負わされる組織の絶対的な信頼は、そのまま大きな付加となる。上下の関係以外に、名も知らぬ第三者と関わりがあると知られるということは、自身の信用性を失墜させることに他ならない。上司と部下。例え上役にとって下の者が複数いたとしても、部下にとって指揮官がたった一人であるからこそ彼らは関係を密にできるのだ。 返せと口に出しはしなかったが、宙に取り残された指先のもどかしげな動きから、何を望んでいるのかは容易に知れる。それを受けて、ケビンに浮かぶのは意地の悪い戯れだけ。 「その状態で電話に出たら、何をしていたか疑われるぜ」 受話器を遠ざけ、揶揄するように投げかける。 瞬間、わずかにクロエの瞳がしかめられた。 過ぎた悪ふざけをしようとする子どもを見つけたときに浮かぶ、大人独特の苦虫を噛み潰したような表情。 いや、実際にはそれほど大きな感情ではなかったのだろう。 悪戯を見咎め、どうすべきか対処に回る前の視線。 状況を打破するに適した策を練るのには、まだ若干の時間が必要といったところか。しかも身体の動揺すら意のままにならないのでは、平静を取り戻すには平素の倍はかかるだろう。 であれば、答えは必然。 「クロエは今夜は帰らねえよ」 喉を通る精悍な面立ちと寸分たがわぬ声音。 マスク越しでも聞き取れるほどの美声。 優れた発音からも、言い回しが粗悪であっても培われた気品が窺えるものだった。 クロエに代わって代弁した者の答えに束の間黙し、しばらくしてのち静かに正体を質された。何者だ、と。急に低く、声のトーンを落として。 どうやらただの”管理人”ではなかったらしい。 それなりに国から勲章をもらっているような部類の人間らしい。 クロエの直属の上司かは知らないが、話をつけるには持って来いだ。わずかにこちらの情報を流すだけで、任務の一環と悟らせることが可能だからだ。 果たして、超人オリンピック英国代表の名を告げれば、それきり相手の疑念は途絶え。 何かしら言葉を用意しようとしている先手を制して、集音部分に唇を寄せた。目の前に上体だけを起こしてこちらを窺う緑の眼の持ち主に聞かせるように、わざと音量を上げて。 「これから先も、そっちへは戻らないと思うぜ」 用件を簡潔に述べてから、返答を待たずに電源を落とす。見守っていた視線には、これまでと打って変わったようなところはない。 諦めたのか、予想していたことだったのか。投げかけられるのは、真意の掴めない眼差し。 けれど、無言でいるということはそれを許諾したも同然。 「おまえはオレの側にいろ。クロエ」 膝を立たせた脚からだらりと携帯電話を握ったままの重い腕を垂らし、ひたと見据える。 床に投げ出された肢体。白く、黒の闇が覆う裸身を。 相手の意思などお構いなしの、上から下す命令。 跳ね除けるには相応の度胸が必要だ。ついでに言えば、極度の屁理屈を垂れ流すだけの忍耐も。 「わかった」 ようやく落ち着いた呼吸とともに、頷きつつ台詞が吐かれた。 住んでいる場所からこちらに通う労力を考えれば、クロエにとってはその方が好都合なのだろう。わかりきった、当然の答え。 白けるには充分過ぎるほど、屈託すらない。 だが、皮肉な感慨は今は興らなかった。 直に触れる前であったなら、これくらいのことでさっさと失望して手放しもしただろうが、もう遅い。 腹に決めていたことがある。 一言で済まされる、他愛のない野望が。 それを果たすためなら、どんな手段だろうが惜しみなく奪い、使う。 面白いものを見つけたから、手に入れる。 それだけが理由の、安直な行動。 口説いてやる。 任務一点張りのお堅い精神を懐柔し、重きを置くのは何を置いても自分自身になるように。 ありとあらゆる方法で絡め取ってやろう。 そうすることが、野心を実現させる手っ取り早い方法になるのなら。 自分にとっての”本当の勝利”を掴み取るための、一つの手段となり得るなら、四の五の言ってる暇はない。 手に入れさせてもらう。どんな手を使っても。無論、汚い手段は流儀じゃない。それでも、時と場合によりけりだ。 篭絡してやる。 この、クロエなる超人を。 もし、本当に絶対的な信頼関係を構築できる相手がこの世にいるのだとしたら。 それは、自分の手で掴む。 誰の介入も、そこにはいらない。 |
PAPER TIGER midoh.
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