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駄話[09] ■

 クロエは性欲に頓着しない。
 というより、事自体すっぽり頭から抜け落ちている節がある。現実的な考えをめぐらせることで手一杯なのか、本気で愚劣極まりないものだと感じているから忌避しているのか。常に求めるのはこちらばかり。
 腑に落ちないとか、恰好がつかないだとか。
 体裁が良いとは思わなかったが、一方通行にも似た性交は時折惨めな気分にさせる。つまり、禁欲的過ぎるのだ。まあ、肉体的なことを言えば、男の機能を失している手前、異性にしろ同性にせよ興奮を覚えるということの必要性に迫られなかったのかもしれないが。
 肉体的交渉を要求する行為そのものが、礼儀に反することだと思っているならば良い。恥じらいだというなら、尊重もしよう。だが、実際はそんな素振りも見せない。手を伸ばしてもそれを咎めはしないが、嗜めるような無言の視線が返る。引き寄せれば脱力するのは、諦めに似たような気さえする。
 不平があるなら聞く耳を持つが、クロエの口が開かれるのはいつでも愛撫を加えてからだ。一言もなく、責めもしないし行為を否定しもしない。
 おおよそ、愛情のない行為だ。
 感情が伴わなければ、行動のランクは下がる。
 『営み』から、『強要』へ。
 妥協の上で成り立っているのだとしても、それはあんまり惨め過ぎはしないか。
 相手の両肩を掴んで、なびかない態度がいちいち腹に据えかねると吐露して見せれば、こちらの言い分を汲んでくれることもあるかもしれないが、プライドが邪魔をする。ただでさえ普段からこちらの優位を主張してはいるが、実際采配を下すのはクロエ自身だ。意に添わないことであれば即刻却下されるし、意見を覆されて納得させられることも少なくない。知略に長け、物事をよく見知った者独特の冷静な判断には舌を巻く。本気で舌戦に持ちこまれれば、適わないことなど百も承知だ。自分の及ばぬ分野に長じている。だからこそ側に置いているのだ。
 決められたことだから、仕方なく。
 そんな思いで付き従われているのかと思うと、誇りが許さない。確かに半分諦めてはいる。100%独占することは不可能な意思。絶対の権限がこちらにあるのなら、これほどまでに苛立つことはないのだろう。だが、意のままに出来る木偶であれば”必要”ともしない。
 求めているのは”対極”であって、自身の”模造品”ではない。
 つまりは惚れ込み過ぎて手出しが出来ない、ということに他ならないわけだが、それを相手の前で認める気にはなれない。まだ、そこまで精神が熟達してはいなかった。
 プライドとか建前とか。そんな些細なことに囚われて、執着する相手に本心を伝えられないのは心の未熟。余裕がない。クロエという人物の過去と現在のすべてを受けとめて、平静でいられるかとの問いの前に、成す術がないかのように。
 超人オリンピック閉幕までの間とはいえ、常に行動をともにしているクロエは、『味方』ではない。
 初めて顔をつき合わせた当初に比べれば見違えるほど風当たりは柔らかくなっていたが、連戦を気遣い、かけられる言葉にすら”任務”という匂いは拭いきれない。一挙一動が、国から受けた指令の上に成り立つ義務的な行動なのではないかと。
 思った以上に鬱屈しているのか、今日は一段と酒が進む。
 部屋のもう一人の住人は、定時報告のために外出している。毎日欠かさずと言っていいほど勤勉に任務を遂行している姿には、感嘆さえある。こんな手駒を所持していれば、『あちら』も簡単に手放すことはしないだろう。最終的にはクロエなる祖国の”腕”をもぎ取るつもりではあったが、それが容易くはないだろうということは見ぬいていた。できない、とは思わないが、骨が折れるだろうと。もっとも、そこで力を惜しむくらいなら欲しがったりはしないが。
 ホテルの室内を見渡す。フロントから運ばれてきた上質のワインで喉を潤していたが、窓辺からすぐ側にあるベッドに目をとめる。荷物らしい荷物も持たず行動するのは、自分もクロエも似たり寄ったり。だが、そこに見慣れぬ箱を見つけ、眼球の動きが停止した。
 携帯しているノート型の機械は、クロエが外へ出かける際一緒に持ち出している。二つのベッドの間に備えつけられているスタンドの棚に、黒く背の低い掌サイズの入れ物が置いてあった。無論、買った覚えはない。ならば自ずと持ち主は、この部屋に宿泊するもう一人ということになるわけだが。
 元来物を持ち歩かない人物だけに、興味が芽生えた。
 無断で触れることは礼に反すると理性が警鐘を鳴らしたが、構わず手を伸ばす。
 軽い。動かせば、かたりと中で音がする。
 ただ、それが何であるか。器材のような印象を与えたものは、やはり予想にたがわなかった。ぱちん、と蓋の金具を開けば、無防備な中身が視界に映し出される。
 見た瞬間、絶句した。
 無表情ではあったが、内心息を呑む。
 眼前に現れたのは、紛れもない注射器具とそれに関連する付属品。脳裏によぎるのは、犯罪と思しき思考の数々。反射的に打ち消すも、そうでないという確証があるわけでもなかった。
 鎮静剤、ということも考えられる。錠剤よりもすぐに効き目が現れるために、わざと注射針を使って自分で注入する者もいる。日本ではどういう法律があるかは知らないが、病院の許可を必要としないでも一般人が購入することは可能だ。
 また、この手の道具を目にして、一番最初に思い浮かぶのは麻薬の類いだ。他の薬同様、効き目が素早いということで注射器が用いられるが、腕に痕跡が残るので大抵は粉か煙草が好まれる。
 どちらにせよ、針の替えまで器材が揃っていれば、薬物常習の疑いが強い。
 嫌な気分になった。
 他人の秘密を知るということは、無作法であると同時に自身にも不快な念を抱かせるということを改めて思い知らされた気がした。
 口の中が無意識にざらつくのを感じながら、グラスに注がれた最後の酒を一気に飲み干した。


 雨が降り出した。
 クロエが国の機関と情報をやり取りに出かける時間はまちまちで、帰宅の時間も定められていない。傘も持たず出ていったのだから、恐らく難儀をしているだろう。出迎えるにも居場所がわからなければお手上げだ。それでも、ホテルのロビーまで足を伸ばす。
 エレベータを降りる直前、目的の人物と鉢合わせになる。この場合、自分の幸運を神に感謝すべきだろう。案の定濡れそぼっていたが、フロントから手渡されたのだろう、タオルで身体を拭っている最中だった。
 開口は常に自分から。放っておけば一言も喋らずに通りすぎる。無視を気取っているわけではなく、触れねば触れず、というわけだ。
「あんまり遅いんで探しに出向こうかと思ったぞ」
 苦笑まじりに切り出せば、平素の声が返った。
「アア」
 謝辞もなく、ぽつり。
 端的な応答だが、内容の理解と詫びの、二つの意味が含まれていたかもしれない。
 壁に埋め込まれた数字を軽く押し、部屋のある階に到着するまで黙す。
 身体と身体の間には隙間があって、空気の伝わり方だけで相手が冷え切っていることが窺えた。多分、バスルームへ直行だろう。でなくば、無理にでも押しこむ。
 自他ともに執着がないのか、目的が目の前にあったなら自身を振り返らずそこへまい進してしまう。そう評して差し支えないほど、時に状況を顧みずデータの解析に当たることも稀ではなかった。シャワーを終えて濡れたままの姿で仕事に取り掛かることもあれば、情事の処理も満足にしていないうちに机の機械に向かうこともあった。上流階級と同じような環境で生活してきたケビンには、正気の沙汰とは思えない所業の数々。度肝を抜かされたことも、強引にそこから引き剥がしてバスルームに連れ去ったことも決して少なくはない事例であることは、まだ記憶に新しい。悪癖とも言って良い、視野の狭さだった。
 情報処理能力と分析力には長けているのに、である。生一本なのだろうと言えばそれまでだが、ある種尋常ではない質だ。悪く評すれば、忠犬の賢くない類い。主以外には馬鹿としか思えないような種類の人間だ。あるいは、主人にすらいいように使える『道具』としてしか認識されていないかだ。
 見つめる先にある横顔は整然として、呼吸すら聴覚を研ぎ澄まさねば聞こえてこない。それはいつものことであるし、取り沙汰されることではない。
 なのに。
 なぜか、いつもと違う節がある。
 気のせいかと改めて凝視しても、普段と異なる印象があった。具体的に言い表せないが、佇まいが、異。
 寒さのために体調が思わしくないのかと思ったが、エレベータのドアが開いた途端に踏み出した脚が、様相を異にしているということをつぶさに語っていた。
 彼としては幾分早足で、廊下を横切りドアの前に立つ。携帯していたカードキーで扉を開くと、わき目も振らず目的の場所へと向かった。
 乱暴とも思える手つきで棚から奪い取ったのは、あの箱。中身を確認して立ち尽くす。一体クロエに何があったのか問う間もなく追いつき、静止したままの肩を叩く。振り返った顔に浮かんでいたのは、困惑した表情だった。
 マスク越しでも、明らかにわかる動揺。
 碧い瞳が揺れ、わなわなと震える。
 思っても見なかった反応に、こちらの対応が一瞬遅れた。どう問い質すべきか。その前に服を着替えることを勧めるべきか。目線だけで焦燥を告げる相手を抱きしめて、温もりで安堵させてやりたかった。
 思考を見透かしてか、クロエの眼が細められる。眉をしかめたような、ためらいの印象。そして、言葉。
「…………」
 聞き取れなかったが、そこには煽情の意味合いが含まれていた。
 舌に乗せた、響応。
 回される腕を取って引き寄せる。抱きこんだ体は冷たい湿りを帯びていたが、触れることで中和された。
 すまない、と小さく胸元に落ちる。
 何に対しての謝罪なのか質す暇さえ惜しむように、上着の下に潜む相手の肌を確かめた。掌に馴染んで、軌跡が下方向へ移動する。動きに呼応するように腰が浮く。その導く先は、互いに予測できる深遠だった。

PAPER TIGER midoh.

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2002.03.31。