駄話[--] ■-
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意識を失ったのか、脱力した身体がベッドの上に投げ出された。 マスクと肌の境目からは止めど無く汗が流れ落ち、喉仏を伝って蒼く照り輝く海原に黒い染みを作った。息苦しくはないのか、と気遣わしげに顔を寄せるのは嘘。苦しいわけがあるはずがない。物心つく前から被せられ、地肌と寸分もたがわぬよう慣らされてきた代物だ。はずす前も、はずさぬままも、少しとして呼吸が楽になったり負担になったりもしない。つまりは訓練の賜物であろうが、マスク超人と呼ばれる彼らにとっては”素”が被った仮面だと認識しているために、邪魔ではないのかとか、息苦しくはないのかといった気遣いは愚問でしかない。幼少の頃から耳に大きな穴を穿ったまま長年過ごしてきた部族の者たちに、それらの行為が苦痛か否かを問うようなものだ。慣習に、おのれの常識が全世界共通の概念であると信じこみ、照らし合わせることで不思議を感ずるは暗愚。時と場合によっては非礼ですらある。 ゆえに生来マスクを被ることを義務付けられていたであろう、自分と同じ境遇のクロエにとっては負担ではない。この現状のまま放置されていようとも、身体に害をなすようなことはあり得ない。それは承知の上だ。 理解しながら、手をかけた。 解かれた重い金属のメットの下には、上半身同様の白いぬめり。体毛らしい体毛は細い顎には見当たらず、人間と同じ場所に目があり、鼻があり。聴覚その他の器官があった。 恐らく、人の持つ美的感覚からはそれらは『整った』造りをしていることになるのだろう。だがケビンには、機械的な、あまり人間味のない造型に映った。まるであつらえられたかのようにそこに端然と座す、諸々のパーツ。ただ実感するのは、その素顔の印象が被っていたマスクとあまり相違がないことだった。 普通は内面が想像に難いもので、それらが覆われることが多い。正体を明かさぬためとか、無論キン肉族のように素顔を隠すことが通念というところもあったが、ほとんどは原型を思い浮かべることが出来ないような実物とかけ離れた”もの”を模すものだ。クロエの場合、マスクは装飾のイメージがあった。気品を損なわず、正体を悟られず、だが大仰でもない。他者を威圧する風格もなければ、恐怖におののかせる作為があっての代物でもなかった。考えられるとするならば、クロエ自身にはそれらの要素が必要なかったのかもしれない。 白い瞼。ほのかに色づいて紅い。水滴に縁取られた、真っ直ぐ癖のない睫毛が映える。色彩のコントラストは夜目にもそれほどきつくはなく、添えられた眉も、大きすぎない鼻筋も、なだらかな傾斜に静かに佇むだけだった。 思わず、ぞくりとする。 今はベールの内に隠された双眸が、開き、見据えるその様を。脳裏に思い描いて興奮を覚えるのは、常日頃から意識させられる扇情的な生身の部分ゆえ。いつでも相手を昂ぶらせ、挑発してきたのは、頭部に備えつけられた眼球に浮かぶあの瞳だ。幕によって遮られ、そして開かれる、神秘という名の二文字に恥じない宝石。単なる石であったのなら、なんら力を持たない。けれど、クロエが抱えるそのものは、”意志”。頑迷だが、驕りがなく、慎ましやかで強かな。魅せられるのは、それを欲する自分自身に原因がある。そのこともすでに熟知していた。 人がピースであるとするなら。いや、鍵に例えられるのだろうか。 人間という存在自体がそうだとすれば、相応の鍵穴も同時にこの世に存在していると。つまりは、心の鍵をこじ開ける者もいれば、用意されたように持っていた自身のキーで錠をはずして溶け込んでしまう者がいる。見知らぬ”身内”。将来の伴侶であり、半身。 恋愛の評論にも講座にも興味はなかったが、クロエは確かに自分の持つ鍵と合致する錠を持っているようだった。自分にとってみれば、”選ばれた”と評して差し支えのない者。 自覚は、以前から促されていたようにも思える。周到に用意されたようにあてがわれた”人材”。だとしても、根拠のない巡り合わせではないと。 重い頭を横たわらせたまま、しているのかしていないかも定かではない呼吸に胸をかすかに喘がせる。満足しきって眠っているような、その顔を見つめ続ける。 白い頭皮の付け根から生えた、黒い艶を含み流れる頭髪。指を滑らせる。その線に沿って。するり、と他人を受け入れ、抵抗なく梳く動きに任せた。男であれば、おとがいにその痕跡があってもおかしくないだろうに、先端を捉えてなぞっても抵抗の一つもない肌理。汗によって張りつく触覚すら、他人同士の接触であれば卑猥でしかない。 なぜだとか。合点も、順応も。 触れる一挙手に合わせ、唇から洩れるのは感嘆と陶酔。 クロエ自身に触れている。その事実がいざなう混迷と錯誤。 秘められ、遠ざけられていた、最も近しい者の根本。 正体であるのかも知れない”秘め事”を知られたとあっては、さしもの英国陣営の懐刀も柳眉を逆立てて怒るかもしれない。 しからば甘受しよう。素顔を知られた相手が自分であったことが不満だという怒りなら、甘んじて受けよう。それで取らされる責任が、例え命を賭すことになろうとも必ず後悔はしない。 見る価値があった。知る権利があった。 惹かれたおのれに、すべての輝かしい意思と動機があったのだから。畏れるものは、何一つ目の前には存在していなかった。 黒ずむものなど何もない。視界に立ち込める暗雲も、悔恨も、後悔もない。流れ溢れる金の濁流を掌で阻止することもせず、表面だけ冷気を帯びる温もりに、長年の宿願を果たした。 重ねては離れ、その弾力のままに動きを繰り返す。 放り捨てられた蒼い影は、ただ差し込む月明かりに照らし出される孤高の城塞のようだった。 |
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