「ケ」 一拍置いても続きはない。 「…、け」 また、一拍。 「……………」 隣を歩いているはずの『連れ』の姿が見えなくなったことから、右側からゆっくり後ろを振り返る。肩に引っ掛けていた荷物の向こう、口元をわずかに押さえて立ち止まったままの黒い影があった。 「クロエ」 名を呼び見つめ返した先には、やはりどこか釈然としない風情の相貌。わざわざ距離を詰めるまでの不審さはないことから、数歩空けた状態のままもう一度呼びかける。何かを要求しての掛け声ではないが、なぜ、との疑念が含まれている。 どうして、そこで止まっているのか。 その問いに応えるべく、相手が意を決した表情で再度口を開きかけた途端。 「毛」 く、と空気が途中で詰まるような音とともに言葉が途切れる。”自分”を表わす固有名詞なのだろうそれは、たった一文字では滑稽なほど意味を成さない。三度目の正直とばかりに何かを諦め、クロエ、と呼ぶ。 「おかしなところで区切るな」 ため息混じりに吐き出せば、ああ、という意味の頷きが返る。まともにしゃべることをやめてしまったのか、目だけでそれを訴えてくる。事実、無言の視線だけでも意思の疎通は事欠かない。 一向にこちらに近付いてくる気配のないことから、断念したのか蒼い大男の方から互いの距離を縮めた。大股に4、5歩歩いて、彼らの間にあった空間は簡単に消失した。超人にしては幾分小さめな頭を見下ろし、一息吐いた。 「どうした」 口に出して問えば、やはり上目遣いの目が見つめ返してくるだけだった。マスク越しでは正しい位置は掴めないが、物を言う部品があると思われる箇所を押さえたままなので、大方その部分の弊害が起こったということなのだろう。 まさか食事時ではないのだから、舌を噛んで難儀しているわけではあるまい。相手が普段からその手の弱みを見せたことがないことから、平凡な推測は却下して良い。では何なのかと思考を巡らせても、あまり説得力に足る回答は得られなかった。 「……………」 人の往来の中。頭3つ分上空に近い二人の姿はやけに目立つ。特に身長が諸外国よりも低めと認識されている日本国の中であれば、尚のことだ。互いに凝視し合ったまま微動だにしないのでは、妖し過ぎて、無視して素通りするのが良策であったのだろう。彼らの側で立ち止まる者は皆無だった。 クロエと呼ばれた当人は、ばつが悪そうにようやく視線を下げた。言えないような内容なのかと訝かしむほど、ためらわれる印象だ。確かに言えば楽になれるとの保証はどこにもなかったが。 「…っくりだ」 全体を聞き逃し、繰り返しを要求しようと言葉が出かかったが、敢えて踏みとどまる。マスクの上からさらに掌で遮られ、くぐもっていたが、小声であるのは故意によるところだ。あまり、知られたくないがゆえの処置。正確に単語の意味を理解したときには、呆れたような思考が脳内に蔓延っていた。恥、ではないのだろうが、あまりおおっぴらに公言したくはない事柄ではあろう。 クロエから洩れる小さな声音は続く。 「おま…、えの名前を呼ぼうとすると、どうしても」 らしくもなく困り果てている風情の相棒を見据え、こみ上げるおかしさにケビンはだらしなく口元を歪めた。 「良い療法を知っているぜ」 傍目には明らかではなかったが、それなりの付き合いをしている者には相手が心底困っているらしいことは肌でわかる。困惑を押し隠した視線で、治療法を知っていると豪語した目の前の男を捉える。すがるような態度は見せなかったが、あるならば聞きたい、との意思はそこに込められていた。 それを了解と取ったのか、肩に担ぎ上げていた荷物をやおら地面に下ろしたかと思うと、鋼の双腕が両脇から獲物を捕らえた。勢いをつけたまま力任せにかき抱き、顔を近づける。見る見る目が驚きに見開かれるのを小気味よい気分で眺めつつ、ケビンはにやりと笑った。 「こうすれば一発だ」 眼前で不敵に嘲笑ったかと思いきや、腰に添えられていた手を背後に回す。そのまま、ゆるく、軽く、大きな掌に決して力を込め過ぎることなく相手の背を数回叩く。どこで知り得た知識かは知らないが、それはまさに親が噎せた赤ん坊をあやすときの仕草だった。例え気づいた者がいたとしても、大の大人が二人でくっついていれば、抱擁しているようにしか映らない。それもある意味問題があったが、ケビンは喜喜として抱えこんだクロエの体を撫で続けた。両腕から伝わる感触が心地良いのか、肩口に首を乗せたまま抱き合うことをやめない。 いい加減行為の中断を提案しようと長い金髪から頭を上げた矢先、ぱっと全身が他人の圧迫から解放された。そして、安定を得た身体の前には満足げで、これ見よがしに成果を期待する黄金の双眸が閃いていた。 「どうだ」 容易に治まっただろう、と自負するように、わずかに顎を上向けながら見下ろす。わざわざ意に染まぬ物言いをして機嫌を損ねさせるのは少々気が引けたことから、素直に頷く。ここで児戯だと一言で一掃すれば、当分不機嫌な顔が続くかもしれない。臍を曲げるのはいつものことなので構わないのだが、それが長時間続くことにでもなればこちらの行動にも支障を来たす。 「そのようだ」 妥当と思われる返答をきっちり返し、止まっていた歩みを再開する。些細なことで元来身に備わっていた自信をさらに増長させ、鼻高々といった風情で若き超人界の最高峰の一角を担う騎士は歩き出した。 その様を斜め下から見上げつつ、クロエは再び先ほど言おうとしていたことを告げようと口を開いた。 「…ケ………っ?」 奇妙に空気が裏返り、そこで言葉は中断される。 思わず手で口元を覆ったクロエの顔には、驚愕と、それに付随する申し訳なさが混在する。 途端、見下ろす側のケビンの目線が険を履いたことは言わずもがな。 その日一日、どうクロエを『回復』させるかということに、某国貴公子が躍起になったというのは、さらに言うべきことにあらず。 |